第3章 結朋堂の歴史

3-1 コスプレ女

 日曜日は予報通りの晴天だった。夏らしく入道雲の湧き上がる空からは暑い日差しが降り注ぎ、駅前の街路はまだ朝だというのに、熱された空気で少し風景が揺らいでいる。結朋堂ゆいほうどうの周囲の雑木林では早くも盛大に蝉が鳴き騒いでいて、それが今日もさらに暑くなることを予告しているかのようだった。

 しかし、坂を上って結朋堂ゆいほうどうの前に立ったカナトの胸には、その注ぐ陽や蝉の声に劣らぬ熱い気持ちがたぎっていた。

「よし。気合を入れていきましょう」

 隣に立つ守口もりぐちさんに声をかけて、カナトは勝手口の戸を開いた。

 今日は、演奏会に向けての新たな行動開始の日だ。前の日みんなで夕飯を食べながら決めた、月影つきかげさんの公園デビューの日。公園といってもあの美術館公園ではない。もっとたくさん人のいる公園で練習するのだ。大勢の人の目に慣れるために。そして、そしてその一方で、カナトはある計画を心に秘めていた。

「もう、準備できてるかな」

 階段をのぼりながら、守口さんが少し声をひそめて言う。その表情が珍しく少し不安そうなのは、岩崎さんが用意するといっていた衣装のことを考えているからだろうか。「あいつの趣味はときどきぶっ飛んでいるからな……」とか、昨日もつぶやいていた。だがそのことについては、カナトはあまり心配してはない。心配してもしょうがない。ファッションのことはよくわからないから、彼女たちに任せるよりほかない。それよりも、彼は自分の計画が受け入れてもらえるかの方が心配だった。

「大丈夫なんじゃないですか」

 計画発表の文言を頭の中で反芻しながら、カナトは半ば願望を込めてそう返事をし、扉をノックした。

「どうぞ……」

 中から岩崎さんの返事がして、いつものように無造作に扉を開ける。洋間の中にたまっていた朝の光が漏れ、廊下の薄暗さに慣れた目をカナトは一瞬細くする。そして部屋の中に入って、改めて窓辺に視線を向ける。

 そこにいる人物の姿を目にしたカナトは、ほとんど反射的に言葉を発していた。

「誰ですか!」

 目の前に、白いドレスを着た女がいる。ドレスというよりは舞台衣装だ。紅いリボンをいくつもひっつけた、釣り鐘型のスカート。赤い帯で腰をしめ、胸には蝶の羽のようなフリルをひらめかせている。白い顔にはお人形さんのような派手なメイク。真っ赤な紅をひいた唇。ピンクの頬。反り返った長いまつ毛。太く描かれた眉……。大きな白い帽子には派手な花飾りが咲き、その派手なメイクをさらに彩る。白い長手袋をはめた腕にはピンク色の日傘をぶら下げ、彼女は白いブーツで落ち着きなく床のじゅうたんをいじっていた。

 カナトはもう一度心の中で呼びかける。あんた、いったい誰ですか。

 女から少し離れたところに岩崎さんが立っている。腰に手をあてた彼女の顔に不敵な笑みが浮かぶ。一方で、守口さんは手を目に当てて上を向いている。半開きにしたその口からは「あちゃー」という声が聞こえてきそうだ。

 彼らから視線をまた女に戻したカナトは、恐る恐る、ふるえる指を彼女に向けた。

「もしかして……」

 すると、コスプレ女は彼の予想を肯定するようにちょっと顔を伏せた。

「あんまり見ないでよ。恥ずかしいじゃない」

 上目づかいにカナトを見ながら、恨めしそうにそう言った、その女は月影さんだった。

「ど、どうしちゃったんですか。これは一体……」

 そう問いかけるカナトに、岩崎さんが自信満々の声で答える。

「メリー・ポピンズだよ」

 いや、そういうことではなくて、なんでこんな格好にさせられたのか訊きたいのだが……。

 しかし、カナトは岩崎さんに言い返す気も起きずに、黙って唖然と月影さんを凝視する。センスは別として、確かにすごいクオリティではある。まるで本当にスクリーンから抜け出たみたいだ。一晩でよくここまで仕上げたもんだと、感心しないわけにはいかない。ついでに月影さんのスタイルも意外と良いものだから、なおのこと。もし胸を張って堂々としていたら、本物のお姫様と見間違えてしまうかもしれない。メリーポピンズはお姫様ではないけれど。

「もう、眼鏡かけてもいいかしら。やっぱりかけてないと落ち着かないのよ」

 カナトの視線にいたたまれなくなったのか、月影さんは岩崎さんにしがみつくようにして手を伸ばす。その頬が紅く染まっているのは、どうやらメイクのせいではないようだ。

 黒縁眼鏡をかけると、彼女はいつもの月影さんになった。やっぱりこちらの方がカナトにはよく思える。化粧だってこんなに濃くしなくても、いつも通りでいいのに。

「うう。不覚。コンタクトまでは用意できなかったから……。残念です」

「いいのよ。気にしないで」

 眼鏡になって生気を取り戻した月影さんは、肩を落とす岩崎さんの背を優しくなでながらささやく。ついでにこの帽子ももうはずしていいかしら。日傘は持っていかなくていいよね。

 しかし岩崎さんの決意は固く、月影さんに許されたのは眼鏡だけだった。彼女の主張はこうだ。大勢の目を引いて、その視線の中で実力が出せるようでなければ、演奏会の緊張感に打ち勝つことはできない。この程度の恥ずかしさに負けるようでは結朋堂を守ることはできませんよ。

 確かに正論ではある。月影さんにはちょっと気の毒だが、この古い建物を守ることはそれほど困難なのだ。そしてそれは彼女の選んだ道でもある。

「それで、今日はどこへ」

「吉祥寺のI公園」

 岩崎さんの答えに、ちょっとどころでなく月影さんのことが気の毒になる。見ると彼女の表情がこわばっている。きっと自分の顔もそうなっていると思いながら、彼は「やめてあげて!」という言葉を必死で飲み込む。これは彼女の望みをつなぐための試練だ。でも……。

 やっぱりI公園はやめた方がいいんじゃないか。あそこは東京でも指折りのにぎやかな公園だぞ。

「大丈夫ですよ。今日はみんなでゆこうと思っているんだから。みんなでやれば怖くない」

 岩崎さんが月影さんを勇気づけるようにそう言う。それを耳にしてカナトの背中には寒気がはしる。ちょっと待て。……ということは、我々もコスプレをするということか?

 部屋の隅に置いてある紙袋からはみ出た、派手なジャケットの縞々しましまの袖に目を向けながらカナトは、言うのは今だと心を決めた。ごめん月影さん。一緒に恥をかいてはあげられない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます