2-15 カナトの決意

 結局その日はカナトも夕食を結朋堂ゆいほうどうでみんなと一緒に食べてから帰った。

 外に出た時には夏の日もすっかり落ちて、頬にあたる風も少しだけ涼しくなっていた。湿り気を含んだ、葉や土の蒸したようなかすかな匂いが、微風と一緒に鼻先をかすめる。それを吸い込むと、清涼感が体に満ちて、胸の底に沈みこんでいた懐かしい感情の断片までが、ふわりと浮かび上がりそうになる。

「悪かったね。夕食まで付き合わせちゃって。親御さんと連絡とれなかったけど、大丈夫だったかい」

 駅前の坂を上りながら、守口もりぐちさんが心配そうに声をかけてくれた。今日は同じ谷筋に住んでいるという彼と二人で夜道を歩いている。月影つきかげさんと岩崎さんは結朋堂に泊まり込むということなので、彼女たちはあの建物に残して。

「ええ。いつも父は遅いから。夕飯ごちそうさまでした。みんなと食べることができてよかった。とてもおいしかったです」

 カナトはつい先刻の夕食の光景を思い出して、思わず頬をほころばせる。メニューは野菜炒めとオムライス。特別変わったものではないけれど、とてもおいしかった。フライパンから立つ湯気を見ているだけでわくわくするなんていつ以来だったろう。すっかり忘れていた。口に入れたご飯と卵の暖かさがあんなにうれしいなんて。美味しいと言って顔をあげた、その先に好きな人の笑顔がある。それがこんなにも楽しいなんて。

 月影さんの調理をする姿を思い出して、カナトの笑みは深くなった。

「おいしかったけど、でも、意外でした。月影さんがあんなに不器用だったとは」

 難しい作業は岩崎さんに任せきりだった月影さん。ひたすら野菜ばかりを切っていたが、指を切るんじゃないかと見ている方はハラハラした。危なっかしくも切り終えた野菜の断片はひどくいびつで。卵に至っては触らせてももらえなくて。でも、一生懸命野菜と格闘している姿はなんだか微笑ましくて……。

 隣で守口さんもかみ殺すような笑いを漏らした。

「一度彼女の卵焼きをごちそうになるといい。なかなか面白い食感をしているよ。卵の殻が混ざっているから」

「ところで、守口さんたちって、月影さんと付き合い長いんですか」

 カナトはふと思っていた疑問を口にする。彼が守口さんと知り合ったのはこの夏からだ。岩崎さんとだって春から。二人と結朋堂で会うようになったのは今年度からなのだ。だけど、二人はそれよりずっと以前から月影さんとの付き合いがある様子だ。出身が違うから幼馴染というわけでもないだろう。地元民の月影さんと北国出身の岩崎さんと守口さん。一体、彼らはどんな関係なんだろう。

「我々が上京した年の夏からだから……。かれこれ、二年くらいになるかな」

 守口さんはしばらく感慨に浸ってから答えてくれた。

「……つないでくれる、人がいたんだ」

 そして彼は、語りはじめた。

   * * *

 その人は、俺の高校時代の恩師だった。

 俺はその人のことをとても尊敬していたんだ。優しくて厳しくて、面倒見がよくてしっかりしているけど、どこか弱くて……。俺も恵君も、その先生にとてもあこがれていた。十歳年上のその女の先生に、恋心すら抱くほどに。

 まあ、彼女にはちゃんと恋人がいるんだけどね。俺の気持ちは純粋な尊敬の念だよ、今はもう。

 それはいいとして、その先生が恋人を追ってこの都市に移住して、高校を卒業した俺たちもここにやってきたんだ。

 その先生が、二年前の夏、俺たちに依頼してきた。それがこの結朋堂のことだった。この建物を薬屋にしようと思っている人がいる。どうか手伝ってあげてほしい。と。そして紹介されたのが、あの玉川老人と月影さんだった。

   * * *

「君はさぞかし不思議だったことだろう。なんで我々が結朋堂のことであんなに真剣になるのか。ただのバイトではなかったのさ。わかってくれたかな」

 語り終わった守口さんは、息を切らしながらしめくくり、おどけてみせた。坂道を登り切って、丘の上の細い尾根道へと曲がる。尾根道といっても、ここも住宅街の中。道の両脇には家々が立ち並び、街灯の光が点々と、静かな道を照らしている。

「たいへん、だったでしょう。大学の、勉強もあるのに」

 急な坂をのぼったので、ちょっと息が上がっている。休み休みに問うと、守口さんも若干息を切らしながら、しかし何でもないことのように短く答える。

「そりゃまあ、ね」

 すごいなあ、とカナトは彼を見ながら思う。見れば守口さんだって、そんなに体格はよくない。小柄だし細いし、大げさだけど、吹けば飛んでしまいそうだ。それなのに、この体のどこに、難関大の勉学の傍ら店を創る手伝いなんてする力があるのだろう。

「すごいなあ」

 まだ息を切らしながらカナトは、今度は声に出して言う。

「僕だったら、きっとできないな。やろうという気も、おこらないだろうな」

「そうかな」

 守口さんは足を前にすすめながら首を傾げた。

「先生もとても不器用な人なんだ。それこそ卵の殻がうまく割れないような……。手先も、生き方も、不器用な人なんだ……」

 そしてあまり星のみえない夜空をみあげて、少しだけ物思いに浸ってから、つづける。

「先生の役に立ちたい。彼女のために何かできる人間になりたい。それが俺の原動力だった。……君にも、いるんじゃないか」

 そしてふうと息を吐いて立ち止まる。ちょっと休憩。そう言って彼はしばらく息を落ち着け、そしてカナトに顔を向けた。

「いるんじゃないか。君にも。そういう人が」

 そこは丘の上の小さな公園のそばだった。

 夜の闇から木の葉のささやきがふってくる。

 ふと、そのささやきが、五月の明るい光を散らす新緑の枝々のさざめきと重なった。そのさざめきをぬってオカリナの音が流れてくる。彼は音の主をさがす。そしてすぐに見つける。木の幹に木漏れ日に照らされながら寄りかかり、はにかんだようにオカリナをくわえている、彼女の姿を。

(残ってほしいな……)

 彼女の寂しそうな表情と、ため息交じりの声がよみがえる。五月の公園。水影のゆれる東屋。白い光の粒をゆらす池の面と、それを見つめる月影さんの横顔。

 ……ああ、そうだ。僕は知っている。

 カナトはあの日の思い出に手を伸ばす。幻影は指の先に触れた瞬間に溶けて消え、しかし彼はそれをつかむように、ぎゅっと伸ばした手を握り締める。

「そうでした、守口さん。僕にもいます。そういう人が。僕は……」

 そして大きく息を吸って、カナトは決然と言った。

「僕も何かしたい。しようと思います。結朋堂……、月影さんのために」



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