2-14 ついに来たその時

 もう日も暮れかけているというのに、洋間に降り注ぐセミの鳴き声は一向に衰える様子を見せない。白いカーテンの隙間から入り込んだ橙色の光がテーブルの上を這い、小さな花を生けた花瓶のガラスを物憂げにきらめかせていた。

「ついに……、この時が来たか」

 テーブルを囲む四人の中で、数時間ぶりに言葉を発したのは岩崎さんだった。だが、彼女の言葉に反応する者はいない。彼女の隣に座る守口もりぐちさんはさっきから腕を組んで目をつむっている。カナトの正面の席の月影つきかげさんは、青ざめた表情で机上の一点を凝視したまま、三時間は微動だにしていない。オーナーの玉川たまがわ老人が要件を終えて帰ってから数時間。この重苦しい空気は永遠に解けないものであるかのように、カナトには思えはじめてきた。

 この空気をもたらしたのは玉川老人の言葉だった。彼が月影さんに伝えた、わずかな言葉。しかし月影さんの大事なものを奪う、致命的な宣告のその言葉だった。

「地主の成瀬なるせさんが、この土地にマンションを建設するつもりらしい」

 玉川老人はそう言ったのだ。それは月影さんがこの世で最も恐れていた言葉であったろう。その場にいたカナトにはすぐにわかった。彼女の身体がこわばり全身から血の気が引いてゆくのが。倒れてしまいそうになるのを必死にこらえて、でもきっと何も見えず聞こえなくなってしまっていることが。それを知ってか知らずか玉川老人は淡々と要件を述べてとっとと帰っていった。要件……。地主さんがどうやら今年度末からマンション建設を考えているということ。そうなれば今年中には店を閉めるつもりであるということ。

 店を閉め、マンションが造られるとなったら、この結朋堂ゆいほうどうの建物はどうなるか。それについて老人は何も言わなかった。だかカナトにも月影さんにもわかっていた。そんなことは火を見るより明らかだった。マンションが建つんだ。そこにこんな古い朽ちかけた建物が残されているはずがない。

 オーナーが帰った後、とりあえず月影さんを奥の休憩室に寝かせたカナトは、彼女の代わりに店番をして岩崎さんと守口さんが来るのを待った。昼過ぎにやってきた二人に事情を説明し、作戦会議を開こうと二階のこの洋間に移動したわけだが……。

 店を臨時休業にしようが、四人でひざを突き合わせてうめこうが、どうなるわけでもなかった。

「マンション建設反対。の上り旗でもたてますか」だの、「署名運動でもしますか」だのといった意見もちらほら出してみるものの、そのどれもがむなしいものであることを、その場の皆が知っていた。これまでのマンション建設で、そんなものたちが効力を発揮した例はない。むしろ「結朋堂を取り壊せ」なんていう署名が集まりそうで恐ろしかった。

 地主の成瀬氏に直接計画の撤回を訴える、という意見をあげる者はいなかった。玉川老人によると、成瀬氏は非常に気難しく頑固な人物であるという。そのような人がわずか四人の若造の感情に動かされるなど、とても考えられることではなかったから。

 そして誰も何も言わなくなり、黙って蝉時雨を浴びているうちに夕刻が訪れ、今に至る。

「ついに……、この時が来たか」

 電灯をつけて席に戻った岩崎さんがまた、しみじみと同じ台詞を吐いた。もうそれしか言うことがないけど、とりあえず口を動かさなければといった感じで。その目は窓外の、どこか遠くに向けられている。表情のところどころにあきらめの色を浮かべて。

 カナトはすがるように隣の守口さんに視線を向ける。彼は腕を組んだまま薄く目を開けていた。複雑な思考に浸っているような風情で、伏し目がちなその目を部屋の隅に向けている。その視線を思わず追って、カナトはまた後悔する。

 長い沈黙をやぶってついに月影さんが言葉を発したのは、カナトが彼女の白いブラウスのふくらみに目をとめてしまった、その数秒後だった。

「あの……。私、考えがあるんだ」

 全員の目が、月影さんの顔に向けられる。まだ青白くてこわばったその顔にかすかな笑みを張り付けて、花瓶の花を見つめながら彼女は言った。

「私……、やっぱり、演奏会に出ようと思う」

 演奏会という彼女の場違いな言葉に、岩崎さんと守口さんが口々に疑問を投げかける。

「なんで、いま、そんなことを」

「マンション建設と演奏会と、何の関係が?」

 顔をあげた月影さんは彼らを交互にみながら答えた。

幸学ゆきがくの会の演奏会にはきっとこの街の権力者たちが集まる。そこで訴えるの。心を込めた演奏と一緒に。地主の成瀬さんに結朋堂を壊さないよう働きかけてくださいって」

 彼女が口を閉じるとまた、沈黙が机上に降りた。その中で楚々として咲く花瓶の花を、皆がじっと見つめている。紫とピンクのコスモスの花。今日また新しく入れてあった。夏のはじめに初めて彼女が少女からもらった報酬もそうだ。あれ以来、時々彼女はこの造花をもらってくる。花言葉は、「調和」「謙虚」そして「乙女の真心」……。

「いいんじゃ、ないでしょうか」

 カナトの口から思わず声が漏れる。久しぶりに出したのでちょっとかすれてしまったその声。しかし心の底から滴り落ちた、彼の想いの欠片であった。向けられた三人の視線がちょっと恥ずかしくて、コスモスの花を見つめながら、咳払いをして彼はつづける。

「月影さんの真心は、きっと伝わると、思います。僕はいい考えだと思います」

 すると守口さんと岩崎さんも厳かにうなずいて賛同した。

「うん。今できる精一杯のことだろうな」

「やるだけやってみましょう」

 よし、やろう。やってみよう。

 そう決まると、意気込んだ一堂によって、にわかにその場はにぎやかになった。

「それじゃあまずは曲目を決めなきゃ」

「あ。岡哀子おかあいこはあまり入れすぎない方がいいですよ」

「メイクはこの岩崎恵におまかせを。衣装も。フリフリの、お人形さんみたいなのにしよう」

「いやいや、恵君。色っぽい衣装のほうがいいのでは。ジジイどもを悩殺してやるのだ」

「うっさい。このむっつりスケベ」

「守口さん。ホントそういうのよくないと僕は思います」

「何を。いい子ぶりおって、少年。君だってさっき月影さんの……」

「わあー。わあー。見てません。胸なんか見てません」

「本当に、男という生き物は……」

 柔らかい笑いのさざめきが、スズランの光の注ぐ窓辺に沸いた。

 みんなの笑顔。そして、月影さんの笑みが、それぞれの席に咲く。

 やっぱりいいな、笑顔は。

 彼らの表情を交互に見て、そして自身も笑いながら、カナトはしみじみと思う。心から。みんなのこの笑顔がもっと続いてほしい。このひと時のような時間がもっと長く、できればずっと、つづくといいな。と。

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