2-13 いるべきところは?

 黄色い光が頭上で灯り、カナトは追憶から意識を戻した。

 もうそんな時間か。若干焦りながらほとんどめくられていないノートのページを確認する。勉強はほとんど進めることができなかった。最近いつもこんな調子だ。

「やあ。その様子だと、あまりはかどっていないな」

 声をかけられて振り向くと、守口もりぐちさんと岩崎さんが並んで部屋に入ってくるところだった。岩崎さんは今日も盆を捧げ持っている。盆の上には三皿のシュークリームと紅茶。

「恵さんのせっかくのご厚意だ。ありがたくいただこうぜ」

 そう言って守口さんは正面の席にどっかと座り込んだ。岩崎さんも盆をテーブルにのせて隣の席に着く。

 目の前にシュークリームの皿と紅茶のカップをおかれた守口さんは、急に神妙な表情になった。カナトが慌てながら片付けている参考書に視線を向けながら、頬杖を突き、例の哲学者のような風情で黙り込んでいる。

「いいの? 手伝ってあげなくて」

 彼のかわりに岩崎さんが、皿を差し出しながらきいてきた。

 カナトは即答できずに、紅茶のカップをとった。水面から立ち上る湯気の中に、あの人の姿を見出しそうになって、思わず息を吹きかける。

「僕は受験生だから……。勉強が、一番だから……」

「やせ我慢してる」

 シュークリームを一口かじった岩崎さんは、もぐもぐとしばらくそれを咀嚼そしゃくしてから、口もとにクリームをつけたままもう一度つぶやく。

「無理してるね。君」

 無理なんて……。言い返そうとして、しかしカナトは声を詰まらせる。なんだか口が重たくて、どうしても反論の言葉を発することができない。

 反論をあきらめてカナトはまた紅茶の水面を見つめる。湯気の中に今度こそあの人の幻影が浮かび上がって、それを吸い込むようにその紅色の液をすすった。

 沈黙を破ったのは守口さんだった。

「そのところを得る」

 ぼそりとつぶやいた彼は、片手で頬杖をつき斜め下に視線を流したその姿勢のまま、カナトに語り掛ける。

「本当に君にふさわしい場所は、君のいるべきところは、どこなんだろうね」

 自分のいるべきところ……。それはどこなんだろう? 守口さんの言葉に促されてカナトは考える。しかし答えはわからない。目をつむると、いろんな事物が彼の脳裏を駆け巡る。自分の部屋。予備校の教室。英語のリーダー。日本史の教科書。結朋堂ゆいほうどうの洋間。国語便覧。月影さん。数学の問題集。月影つきかげさん。美術館公園の林。月影さん……。

 目を開いたカナトは、すがるように守口さんを見る。そして思想家のような彼の、思索にふけって静寂の底にある姿に問いかける。

 僕は本当はどうしたらいいのでしょう。

 僕は本当はどこにいたらいいのでしょう。

 僕にはわからない。僕には見えない。その道をどうか示してください。

 しかし守口さんはもう何も言わない。カナトの方を見ない。

 カナトは少しでも手掛かりが欲しくて、そんな守口さんの視線を追ってみた。知の深淵を覗き込むかのようなその視線の先。そこには白いTシャツのふくらみがある。

 ん?

 もう一度、彼は守口さんの視線をたどる。間違いない。

 視線は二回とも同じところに行きついた。夢中になってシュークリームをかじっている岩崎さんの、白いTシャツのふくらみ。小柄な割には大きなその胸のふくらみだった。

「何を、みているのかな。君は」

 守口さんの声に、カナトは悪いこともしていないのに狼狽して、思わず腰を浮かせそうになる。手がテーブル上のカップにあたって紅茶が少しこぼれる。視線をあげると、岩崎さんが眼鏡のレンズを光らせながら彼の方を見ていた。

「……月影さんに言いつけるよ。このスケベ」

「ち……、違います」

 頬を赤くしてカナトは席をたつ。そろそろ帰ります。ごちそうさまでした。そう挨拶してリュックを背負い、出口へと向かう。

 笑いながら手を振る二人にもう一度挨拶して扉を閉め、階段を降りながらカナトは思う。ああ、守口さんなんかにすがろうとした自分がバカだった。でも……。

 でも、それでいて彼がかけてくれた言葉が、いつまでも頭から離れない。

 君のいるべきところは、どこなんだろうね……。


 その週の土曜日、カナトは月影さんのいる時間を狙っていつもより早い時間に結朋堂を訪ねた。いまだに答えは見つからないけれど、彼女に会うことで、その手掛かりが得られるような気がしたから。

 仕事もさぼっているのではないかと若干心配していたが、それは杞憂だった。

 月影さんはちゃんといた。いつもどおり閑散とした店のカウンターの向こうに、白衣を着て暇そうに突っ立っている。黒髪をひっつめにして。愛想のない顔で。久しぶりに見る彼女のその姿はしかし、以前よりなんとなくしょんぼりとしているように見えた。

「やあ。久しぶりだね」

 先に声をかけてくれたのは月影さんだった。手を遠慮がちに上げて微笑みかけてくれる。しかしその笑みの眼もとや口の端に疲れがにじんでいることを、カナトは感じずにはおれなかった。

「お久しぶりです。あの……、お疲れですか」

「ちょっとね」

 月影さんの笑みが苦笑いになる。

「ちょっと、頑張りすぎたかな」

「練習……、うまくいってますか」

 カナトの問いに月影さんは答えなかった。肩をもむしぐさをしながら視線を伏せる。するとその表情に陰りが生まれる。

 ああ、うまくいっていないな。彼女のその姿を見ながらカナトは直感的にそれを悟る。彼女はきっと思うような演奏ができずに、焦っている。そしてがむしゃらに練習し、演奏することに疲れている。

 疲れるに決まっているんだ。

 かつて公園で彼女と一緒に過ごした時間を思い出しながら、カナトは思う。

 人と接することが苦手な月影さん。人前で演奏するのが恥ずかしくて、木の陰に隠れようとしてしまう月影さん。そんな彼女にとって、道行く人々の前に姿をさらし続けることは、非常なストレスを伴うに違いない。しかも今はたったひとりで。長時間にわたって。

「実はね。ちょっと考えていたんだけど……」

 肩をもむのをやめた月影さんは、そう言って今度は天井を見上げた。しばらくそうやって虚空に視線をさまよわせていた彼女の口から、やがて長い溜息が吐き出された。

「やっぱり、演奏会に出るのは、やめようかな……。なんて」

 そしてカナトを見つめ、肩をすくませた。ちょっと舌をだしてみせながら。いかにもおどけた風を装って。でも、寂しげな陰りをほおに浮かべて。

(そうだ。きっと、それがいい)

 カナトの胸に、ほっと安堵の気持ちが広がってゆく。演奏会に出ない方が、きっと彼女は幸せだ。悪意を持っているかもしれない人々のためではなく、彼女の音楽を純粋に好いてくれる人々のために、自分のペースで、彼女は演奏すべきなんだ。

「いいと思います」

 カナトはそう、うつむき加減になる月影さんに言葉を投げかけた。

「なあに。性に合わないことを無理にやらなくたっていいんだ。演奏会に出なくたって、今までみたいに……」

 カナトの脳裏にあの公園の林とベンチの風景が浮かび上がる。

 今までみたいに、公園で好きなように演奏して、時々よろこばれて。それでいいじゃないですか。僕はその隣にいて勉強したり読書したりして。ひょっとしたらそのうち……。

「そのうち……。いや、いつかきっと……」

 どもるカナトを、月影さんが上目づかいに見つめる。おかしそうな、ちょっといたずらっぽい表情で。

「何を、するの?」

 いつか、デュエットを……。

 そう言いかけた時、入り口のガラス戸の開く音がした。

 入ってきたのは杖を突いた一人の老人。その顔にカナトは見覚えがあると思う。誰だったろうか。ああ、そうだ。初めて結朋堂に来た日、店先のベンチに座っていた、あのお爺さんだ。記憶の糸をたどってそう思い至ったと同時に、月影さんが声をあげた。

「あっ。オーナー!」

 オーナーと呼ばれたその老人は、白く長い眉を垂らして笑顔になると、月影さんに向かってよぼよぼと手を振った。

「やあ、静乃しずのちゃん。話があるんじゃ」


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