2-12 たとえそれが罠だとしても

 二週間があっという間に過ぎ、気がつくと八月に入っていた。

 蝉時雨が、降り注いでいる。

 今年の夏も例年に劣らず暑い。もう昼もとっくに過ぎて日も傾きはじめたというのに、照りつける陽光の明るさも熱も衰えるそぶりをみせない。

 カナトは眼下を通り過ぎる電車の音に背を押されながらやっとのことで坂を上ると、桜の木陰で汗を拭いた。結朋堂ゆいほうどうの二階を見上げる。そのアーチ型の窓の向こうに人の姿がないことを確認して、彼は一つ小さなため息をつく。

「いらっしゃいませー」

 戸を開けて店内に入ると、柔らかい低音の声が閑散とした空間に響いた。

「なーんだ。お客さんじゃなかったか」

 カウンターの向こう側にいた青年が、カナトの顔を見て少しも残念でなさそうに笑う。

「これでも僕は客のひとりですよ。守口もりぐちさん」

「んー? そうだったのか」

 そう言いながら青年は、悪びれた様子も見せず、カナトがカウンターにのせた歯ブラシにバーコードリーダーをあてる。

 守口公明もりぐちきみあきさん。彼はこの夏休みからバイトに入ってくれている人だ。無精ひげを生やして髪もぼさぼさだが、目にはどこか思慮深げな表情がある。黙っていれば哲学者のようだと言われればそう見えなくもない。動いたりしゃべったりすると、気のいい腐れ学生にしか見えなくなるが。某有名国立大学の学生。そして岩崎さんの彼氏でもある。

「岩崎さんは?」

「ああ。あいつは奥の休憩室で食後のシュークリームに舌鼓をうっている。邪魔をしたらぶっとばすそうだ」

 もうひとつ訊こうとして、しかしカナトはすぐに口を閉じた。岩崎さんは相変わらずだな、と苦笑いしつつ、カナトは奥の扉を開いた。

 岩崎さんにぶっとばされたくないので、休憩室は素通りして階段を上がる。洋間の厚い木製扉を開くと、室内にたまっていた光があふれてカナトの目をすぼめさせた。

 窓辺に一瞬人影を見たような気がしたが、それは錯覚だった。室内には誰もいない。ああ、やっぱり。カナトは自分を納得させるように何度かうなずいて、窓際の自分の席につく。

 ここ最近はいつもこうだ。日曜だけでなく土曜も、木曜も、月影さんは結朋堂にいない。どこにいるかはわかっている。例の美術館公園で、オカリナの練習をしているのだ。

「好きにすればいいさ」

 ノートを取り出しながら、カナトはもう一度大きなため息を吐き出す。僕はそんなことにそんなにたくさん付き合っている場合ではないんだ。受験生なんだから。夏休みは特に重要なんだから。勉強に集中しないと。集中。集中……。

 しかし、にらみつける紙面の文字はぼやけてしまい、そこについ二週間前のこの洋間での光景が、かってに浮かび上がってきた。


 二週間前。あの、幸学ゆきがくの会からの招待状の届いた日。

 ひとしきり喜んで、三人でショートケーキをたいらげた後、紅茶をすすりながら月影つきかげさんは何気なく岩崎さんに問うた。

「ところで、招待状はどんな人が持ってきてくれたの」

 なんで彼女がそんな問いを発したのか、カナトはすぐにわかった。また妄想と一緒に踊りだされてはたまらないので、彼は先に言ってやる。

「燕尾服を着た紳士ではないと思いますよ」

「ああ。なんで先にそれを言うかなー」

 悔しそうに眉をひそめて、しかし月影さんはすぐにその表情を笑みにかえる。朗らかな笑いが彼女の口から流れ出る。カナトの口からも。

 しかしその笑い声は、岩崎さんの返答にピタリとやんでしまった。

「なんか。チャラい感じの若者でしたよ。背が高くてイケメン風の」

 そして彼女は付け加える。あくまでイケメン風ですけどね。やけに笑いかたが気障ったいし、何かと髪を撫でつけるし。私、ああいうのダメだわー。

 カナトはさっきまでの喜びが嘘のように冷えていくのを感じた。まさか。いやそんなはずはない。自分の頭に浮かんだ考えを否定する材料が欲しくて岩崎さんに質問をいくつも投げかけたが、帰ってくる答えはますます彼にそれを確信させた。

 招待状を持ってきたその人物は、聡一だ。

「そんなこと。分からないじゃない」

 月影さんも若干表情をこわばらせながら、それでもカナトの口にした予測を否定してみせる。しかしカナトはもうその確信を覆すことができなかった。その体格、しぐさ、髪型、鼻の形目の形……。そのどれもが聡一のそれと一致するように思えた。もちろん岩崎さんもそんなにしっかり観察しているわけではないし、うろ覚えのところもあるだろうけれど、彼女の言った特徴の一つは聡一に特異的なものだった。右手の甲にあったという傷跡。聡一にも同じ傷跡があるのだ。白いバツ印の傷跡が。

「そうそう。その若者が言ってましたよ。自分はカナト君の同級生だ。自分はK大医学部に受かったのに彼は落ちてしまって残念。彼にもよろしく、って」

 それを早く言ってくれ。完全に聡一じゃないか。

「じゃあ……これは偽物だっていうの?」

 月影さんが不安そうに言う。その予想をカナトは首を振って否定する。不本意だが。

「いや。本物でしょう。あいつの親は大病院の院長なんだ。だから幸学の会と縁があっても不思議じゃない」

 それに、筆跡も明らかに聡一のそれとは違う。カナトの記憶に残っているほど、あいつの字は汚い。ところがこの招待状の字は大変美しい。思わず見とれてしまうほどに。聡一がどう逆立ちしてもかけない文字だ。それから刻印。よくみると紙や封筒に薄く捺してある刻印は、珍しいものだ。丸の中に崩した幸の字。こんな紙や封筒、その辺で見たことはない。

「そう。ちゃんと、本物なんだ」

 月影さんのついた息に安堵の色が混ざっている気がして、カナトはかすかな苛立ちを覚えた。そんな呑気にしていられることではないぞ、これは。そう考えながら黙り込む。

「これは……。あいつの罠じゃ、ないかな」

 しばらくの沈黙の後、カナトは意を決したように、己の腹の中に沸いた疑念を口にした。

「聡一は、月影さんを呼び出して、恥をかかせるつもりじゃ、ないだろうか」

「まさか」

 今度は苦笑いして、月影さんは顔の前で手を振る。何をばかなことを。そう、カナトの言葉をはらい落とそうとするかのように。

「これは演奏の招待状だよ。私がオカリナを演奏するってことを、なんであの子が知ってるの?」

「あいつだって時々あの公園に行くでしょう。少なくとも一回は鉢合わせしているんだから。月影さんの演奏する姿をどこかから見ていたのかもしれない」

「そうだとして、そもそもなんであの子が私に恥をかかせようとする必要があるの」

「聡一は、月影さんを恨んでいるから」

「恨み?」

「あいつはきっと、あなたにふられたことを根に持っている」

 月影さんは眉をひそめて首を傾げた。

「あの子は……、そんなに狭量な子なの?」

 カナトは苦痛に耐えるように歯をかみしめ、そしてうなずいた。

 目を閉じた彼の脳裏に、ある少女の笑顔が浮かんだ。中学生のころ、ひそかに思いを寄せた少女。彼の幼馴染。綾子あやこも、聡一にまったく心を寄せない女だった。あの人、なんか苦手なんだー。聡一の告白を断ったあと、そう言って彼女は笑っていた。おとなしくて地味で、でも笑うとその表情がとても素敵な少女だった。

 そんな綾子に、聡一はひどい仕打ちをした。仲間とつるんで彼女に嫌がらせをし、あらぬうわさを流して彼女を追い詰めた。追い詰めたうえで、彼女に自分と付き合うようせまったのだ。

 そして結局綾子は聡一と付き合うようになった。それ以降、カナトが彼女の顔に明るい笑みの咲く様を、見ることは遂になかった。その年の秋、親の仕事の都合で彼女が四国に引っ越してしまうまで……。

「……それでも、私はそこで演奏しようと思う」

 カナトと同じように目を閉じて沈思していた月影さんは、薄く目を開けると、テーブル上に組んだ己が手を見つめながら言った。

「あの子が何を考えているかわからないけど、子供ひとりにできることなんてたかが知れている。それに……」

 口を挟もうとするカナトを視線で制して、彼女は続ける。

「私の演奏が人の心を打つものなら、どんなたくらみも無力にできると思うの」

 カナトを見つめた月影さんの、その目が優しく細められた。練習するよ、私。もっと練習してうまくなって、そして憧れの演奏会に出るんだ。

 反論しようとしたカナトは、開きかけたその口をすぐに閉じた。もはやどんな言葉も月影さんの想いを覆すことはできぬだろうと思えたから。自分にできることは、ただ、見守ることだけだ。いや、見守ることすら……。

「私。これから練習日を増やそうと思うんだ。君は……」

 月影さんの瞳が、逡巡の色を宿してゆれる。彼女はまた視線をテーブル上にさげると、手をこねくり回しながら言った。

「君は、ここで勉強していていいよ。受験生だもんね」

 そして顔をあげ微笑んで見せる。その笑顔がふと、記憶の中の綾子のそれと重なったような気が、カナトにはした。

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