2-11 月影さんの告白

   * * *

 私はね、薬剤師になりたいわけではなかったの。

 薬剤師になることをすすめてくれたのは私の両親。

 私みたいな愛想のない不器用な人間は、資格でも取っておいた方がいいって。そうすれば仕事に困らないからって。

 親が言うからそれに従った。

 でも、私は納得できなかった。

 学生時代は勉強に興味が持てなかったし、将来に希望も持てなかった。

 就職してからも、仕事に熱意を感じることができなくて。

 やってみてわかった。

 薬剤師に向いてないんだ。私。

 人と接するの苦手だし。

 愛想よくないし。

 うまく話すこともできないし。

 性に合わないんだよ。

 だから私はずっと、自分が生きている気持ちがしなかった。

 この勉強を、この仕事をずっとしていかなければならないなんて。興味なんかちっともないのに。

 でも、だからといって別の道を歩む気概も私にはなかった。

 何となく働いて、気が付いてみれば三十手前。

 やり直そうにも、私にはもう、この仕事しかできることはない。

 もちろん親には感謝してるよ。頑張って私を学校に行かせてくれて、資格とるまで面倒をみてくれた。

 いくらしても感謝し足りないと、思ってる。

 でも、その両親もいなくなってしまった。

 まだ全然恩を返していなかったのに。

 そしてひとりぼっちの今、時々思ってしまう。私の人生って、何なんだろう、って。

 なんてつまらない人生なんだろうって。

   * * *

 月影さんは立ち上がると壁際の棚に向かい、その最上段に置いてあるオカリナのケースを手に取った。

 ふたを開け、しかし中の楽器は取り出さず、じっとケースの中に視線を落としている。その表情はカナトの位置からは見えない。ただ、雨の粒の落ちる音が鳴っていて、それが彼女の心に落ちる涙の音のように、カナトには思えた。

「だから、私は、逃げていたんだ」

 月影さんは絞り出すように、かすかな声で言った。

「他の何かになりたかった。オカリナを吹くことで、なれるんじゃないかと、思った。でも、分かってたんだ。ただ、逃げてるだけだって」

 そして彼女は振り返り、そしてかすかな笑みを頬に浮かべる。細めた目の端で、小さな光の粒が一瞬きらめいた。

「ごめんね」

 謝って、それに続けた言葉はもう、注ぎ続ける雨音に消え入ってしまいそうだった。

 ごめんね、こんな大人で……。

 気分悪いよね……。

 希望、なくしちゃうよね……。

 雨音が響いている。口を閉じうつむいた月影さんと、カナトの間を、雨音だけが埋めている。その音に身をゆだねていると、なんだか自分の身体が浮き上がってしまいそうな錯覚に襲われる。その感覚とともに、今までの思い出と、ある思いが彼の胸の底から湧き上がってくる。

 それは月影さんが危惧したような、嫌な気持ちでも希望の喪失でもなかった。少しも嫌ではなかったし、少しも希望をそぐものではなかった。

 月影さんの告白したことが、カナトには分っていた。そんなことは、ずっとわかっていた。

 彼女は口数が少なくて。人が苦手で。仕事熱心ではなくて……。

 そんなことはずっとわかっていた。

 それでも、一緒にいたいと思うようになっていった。

 ずっと彼には不思議だった。どうして月影さんは僕が受験生であることがわかったんだろう。僕に友達がいないことがわかったんだろう。どうして僕はここに来るんだろう。どうして僕は、彼女と一緒にいたいと思うんだろう。そして彼女がそれを受け入れてくれるんだろう。

 今なら少しわかる気がする。

 その気持ちを抱きながらテーブルの上に視線を落とし、カナトはつぶやく。

「僕は、医学部志望なんです。でも、本当は、医学部になんかいきたくないんです」

 そして口を閉じた彼は思う。僕たちは似ているんだ、と。医学部なんかいきたくなかった。医者になりたいわけではなかった。もし万が一医者になれたとしても、きっと僕は将来そう言うことだろう。そして、そういう未来をどうやって生きていけばいいのか知りたくて、ここに来ている。月影さんの傍でその答えを探している。自分の未来のように謎だらけの月影さんの傍で。でも、どこか自分と同じ匂いを持っている、月影さんの傍で。そしてきっと……。

 カナトは顔をあげ、再び彼女に視線を向ける。そしてきっと、僕はそんな彼女にあこがれているんだ。自分よりずっと大人でしっかりしていて、でもどこか弱くて頼りのない彼女に。その、彼女のときどきみせる悲しさや弱さが、たまらなく魅力的に思えるから。それが僕に、知りえぬ未来の一瞬を垣間見せてくれているような気がするから。

「あの……」

 カナトは椅子から立ち上がると、一歩月影さんに歩み寄って、声をかけた。何と言おうか考えてはいなかったけれど、口を開くと言葉は驚くほど自然に流れ出した。

「僕は、月影さんの吹くオカリナが好きです。月影さんと話すことが好きです。月影さんと一緒にいることが好きです」

「好き」という単語を口にするたびに鼓動が高まる。

 月影さんが顔をあげてカナトを見る。その大きな目を見開いて。目が合って、カナトの胸はさらに大きく鼓をうつ。彼女の目も口も、眉の形も髪も、彼女のすべてがそうさせる。その胸の高まりを全身で感じながら彼は思う。ああ、そうか。そうなんだ。僕は本当は……。

「僕にそういう気持ちを抱かせてくれる人を、僕はダメな大人とは思えません。逃げたっていいじゃないですか。逃げましょうよ。僕はもっと月影さんのオカリナが聴きたい。僕は……」

 カナトは口を閉じる。顔がほてっている。呼吸が苦しい。でも、この勢いで言えるような気がする。何を? 今自分の胸に湧いた、自分でも今やっと気づいた、大事な言葉を。

 呼吸を整えようとカナトは大きく息を吐く。その時、月影さんの身体が動いた。カナトに歩み寄る、その目の優しい表情と笑みの形になった唇が一瞬彼の視界をよぎり、なびいた彼女の髪が彼の頬をなでた。

 カナトが息を吸った瞬間、金木犀の香りが鼻先をかすめ、優しく柔らかな衝撃が彼の身体を包みこんだ。

「月影さん? 何を」

 戸惑うカナトの耳元で、彼に抱き着いた月影さんは、一言ささやく。

「うれしいこと言ってくれちゃって。未成年のくせにさ」

 熱い息がカナトの耳にかかる。そしてその直後に柔らかい何かが頬に押し当てられた。

 カナトの身体から離れた月影さんは、急ぎ足で窓際のテーブルまでいって座ると、そこに置いてあった『多摩の郷愁』を開いてテーブルの上に立てた。自分の表情を隠すように、前のめりになってその紙面を覗き込む。その大きな本の表紙の影から垣間見える彼女の頬は、水影のゆれる薄暗い空間の中でもわかるほど、紅く染まっていた。

 今自分の身に起こったことをカナトがようやく理解した瞬間、パッと、黄色い光が頭上に灯った。

「あー、コホン」

 振り向くと、部屋の入り口に眼鏡を光らせてショートボブの女の人が立っていた。岩崎さんだ。彼女が捧げ持つ盆の上には三皿のショートケーキと紅茶がのっている。

「あー、お取込み中のところすみませんがね」

 苦虫をかみつぶしたような顔をして部屋に入ってきた彼女は、テーブルの上に盆を置くと、その隣に一通の封筒を差し出した。

「なんか、男の人が持ってきました。招待状だそうです」

 カナトと月影さんは身を乗り出してのぞき込む。薄いピンク色の、おしゃれな封筒だ。白い花柄が捺してあって、その真ん中に達筆な文字で「月影様へ」と書いてあった。

「なんだろう」

 首をかしげながら月影さんは封を切り、折りたたまれた中の紙を出してそれを開く。紙もお洒落な感じだ。やはり薄いピンク色で、花か何かの模様が紙面を取り囲むようにして印刷されている。

 その紙に視線を落としていた月影さんの手が、次第にふるえだした。そしてなんともヘンテコな声を発する。それが喜びの声だと分かったのは、紙面から顔をあげた彼女の表情を見た時だった。

「やった。やった。……やった!」

「どうしたんです」

「これ。みて!」

 彼女の差し出したその紙に書いてある文字を見て、カナトも思わず声をあげる。

「これって。幸学の会」

「そうよ。招待されたんだ。ホントに、本当に、招待された!」

 カナトと月影さんは顔を見合わせ、そしてお互いの表情に喜色をはじけさせる。その傍らで岩崎さんがひとり憮然とした顔でぶつぶつと愚痴をこぼす。

「なんか、いいことがありそうだから今日はみんなで食べようと思ったのに。私のショートケーキ。それなのに二人でいい雰囲気になっちゃって。虫唾が走るとはまさにあの光景……」

 そんな岩崎さんの両手を、とつぜん月影さんが握って踊りだした。二歩、三歩と下手くそなステップを踏む。転びそうになって彼女から離れると、次は机上のケースからオカリナを取り出した。

「お祝いしよう。私、何か吹くね」

 何がいい? と訊く月影さんに、カナトよりも早く岩崎さんがこたえる。

「えっと。じゃあ、アラジン」

 あ。それはやめてくれ。そうカナトが言う前に月影さんが吹き始めてしまう。ちょっとたどたどしい、でも以前よりはずっと上手な旋律が室内に流れる。

 岩崎さんが嬉しそうに手をたたく。雨粒が窓の外で跳ねる。さっきまでは涙の音のように感じたそれが、妙に楽し気に、ステップでも踏んでいるように思える。

(ああ。悲しみだけじゃないんだ)

 月影さんの演奏する姿を見ていて、カナトは当たり前のことに今さら気が付く。彼女は決して悲しみだけの人じゃない。悲しみだけなんてわけがないんだ。悲しみも喜びもちゃんとあって、きっともっといろんな感情が複雑に絡み合っていて、それを時に隠したり時にさらけ出したりする。だからきっと神秘的で、不思議で、魅力的なんだ。

 ふと金木犀の香りがまた鼻先をかすめた気がした。月影さんの音色に耳を傾け、雨音をきき、岩崎さんのケーキに舌鼓をうちながら、カナトは改めて思う。僕はやっぱりそんな月影さんにあこがれている。あこがれていて、そして好きなんだと。


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