2-10 雨の日のアクシデント

 夏休みを控えたこの日は、雨が降っていた。

 土曜日は昼を結朋堂ゆいほうどうで食べることにしていたので、カナトは正午よりも少し早く店を訪れた。異変に気づいたのは、店の戸を開けて中に入った瞬間である。

 男の怒声が響いている。聴き慣れぬ声。しわがれてとげとげしくて、汚い声だ。店の奥を覗くと、カウンターの前に中年の男がいて、そいつが月影つきかげさんにいろいろと怒鳴りつけていた。

「だからさぁ。……って言ってんの!」

「すみません……」

「すみませんじゃなくて。どうにかしてよ」

「ですから、……するか、……してですね。落ち着かないようなら受診を……」

「はあ? それだけ? それでも薬剤師なの」

「すみません……」

「あんた、すみませんしか言えないの? 勉強不足なんじゃない」

 多分四十代くらいの、汚れたシャツを着た小太りの中年男は、高圧的な態度で月影さんを叱り続ける。

 何でもめているのかはわからない。ただ、男のヒステリックな声が一方的に月影さんを責めているのはすぐにわかる。月影さんは誠実に対応しようとしているのに。その返答が気に入らないのか。

 それでも月影さんは何を言われても礼儀正しく両手をスカートの前で合わせ、謝りながら何度も何度も頭を下げていた。しかし何度頭を下げても、男は月影さんを許そうとはしない。すみません。すみません。ついにはそうとだけしか言わなくなった彼女の声が、次第に小さくなっていく。

 その光景を見ていたカナトの胸や頭に、言い知れぬ激しいものが突然こみあげた。沸騰したといってもよい。これはおそらく怒りの感情。いや、怒りを通り越していたかもしれない。そのエネルギーに突き動かされて、彼はカウンターへと突き進んでいった。

 あのカウンターの前でわめいている男は彼の最も嫌いなタイプの人間だった。自分が絶対優位の立場にいることを知っていて、それをいいことに反撃のできない相手をいたぶる。自分が正義と信じきっていて、だから相手をどんなに傷つけても構わないと思っている。何があったかは知らない。だけど、カナトは確信をもって思う。何があったとしても、あんなふうに人を傷つけようとするのはダメなことなんだ。自分の意に沿わないことや気に入らないことがあっても、それが人を傷つける理由になんて決してならないんだ。なってはいけないんだ。誠実に生きている月影さんを傷つける理由にはならないんだ。

 おい、離れろクソ野郎! これ以上月影さんを傷つけるな。そう、胸ぐらをつかんで言ってやるくらいの声音で、カナトは男に声をかけた。

「あの。後ろ詰まってるんですけど。どいてもらえますか」

 調子に乗ってねちねちと月影さんを責めていた男は、驚いた顔をして振り向いた。

「は? まだこっちの用が済んでないんだけど」

「もう、やめてください。あんた、うるさいんですよ」

 男の顔が醜くゆがんで、今にも噛みつかんばかりににらみつけてきた。それに対しカナトもにらみ返してやる。男は威圧するために睨んだのだろうが、カナトのそれは威圧なんてものではなかった。お前を眼光で射殺してやる。それくらいの覚悟と殺気。彼のすべての力を込めた視線は、すぐに居丈高な男の心を粉砕した。

 カナトは殺気を込めたまま男に一歩にじり寄る。すると、動揺した男の額に汗がにじむ。

「ふん。こんな店、もう二度とこねえよ!」

 男は二三歩後ずさってから、そんな捨て台詞を残して店から出て行った。

 自分で言った言葉は忘れるなよ。その言葉通り、本当に二度と来るな。男のいなくなった空間に、お祓いをするようにそう念じてから、カナトはようやくカウンターの中にいる月影さんの方を向いた。

 月影さんは柔和な表情で目を細め、苦笑いしていた。

「こらこら。ダメでしょ。お客さんにあんなこといっちゃあ」

「でも……」

「上手に答えられなかったのは確かだし。悪いのは私だよ」

「そんなことないです」

「ごめん。格好悪いところをみせちゃったね」

 月影さんはかすれた声で言ってわずかにうなだれる。その表情には疲労の影が色濃くにじんでいた。背を丸め、身を縮こまさせて頭を下げ続ける彼女の姿がよみがえり、カナトの胸を刺した。

「全然、格好悪くないです。僕は、月影さんはいい薬剤師さんだと思います。月影さんのおかげで最近腹痛もあまりおこらないし。あんなの、気にすることないと、思います」

 まだ高校を卒業したばかりの浪人生風情が、十歳も年上の社会人に慰めみたいなことを言うのは不遜かもしれなかったけれど、カナトは月影さんにそう、声をかけた。あなたは間違えてはいない。ダメな人でもない。そう訴えたくて。打ちひしがれた様子の彼女に立ち直ってほしくて。

 月影さんは目を大きく見開き、そしてすぐにそれを長いまつ毛の下に隠すと、踵を返してカウンター奥の薬棚の整理をはじめた。

「社会人だからね。いろんな目に遭うさ」

 そう言って黙り込み、しばらく棚から薬の箱を出しては置き、おいては出すことを繰り返す。やがて両手をだらんと下げた彼女は、カナトに背を向けながらうつむいた。その背がピクリと動き、鼻をすする音が聞こえる。

「ごめんね。……ありがとう」

 目のあたりに人差し指をあててから振り向いた月影さんの表情は、いつものちょっと控えめな微笑だった。ただその目じりにはまだ、濡れて光るものが残っていた。


 昼ご飯の間中、月影さんは黙り込んでいた。カナトが何か話しかけても、うんとうなずくだけだったり、軽くかすかな笑みを漏らすだけだった。食欲がないのか彼女は弁当を出そうともせず、テーブル上にはかわりに本棚から持ってきた厚い本を置いているが、それを開こうともしない。古ぼけた表紙に浮かぶ『多摩の郷愁』という文字を、ただその白い指先でなでるばかりだ。

 やがて食事を終えてカナトが勉強をはじめると、月影さんはテーブルに片肘をついて、窓の外をぼんやりと見つめた。彼女の頬はこわばって生気がなく、その眼はまるで暗く深い穴の底をのぞくかのように打ち沈んでいる。いつもの彼女の表情とは全然違う。いつもはもっと、窓外の景色を愛でるような微笑をどこかにたたえているのに。

 雨音が室内に響いている。窓の表面を雨水が流れ落ち、それを見つめる月影さんの青白い顔の表面で水影がゆれる。まるで彼女が泣いているように見えて、ふとカナトは、以前も似たような表情を見て似たような感想を持ったことを思い出す。そうだ。彼女の演奏の感想をはじめて伝えた時だ。悲しい曲ばかりがうまい。そう伝えた時に彼女が見せた表情。五月の公園の、池のほとりの東屋で。

 勉強の手をとめて唖然と見つめるカナトの視線に気づいたのか、窓を見つめたまま月影さんは一言つぶやいた。

 一言。ずっと我慢して溜めていた水を一滴、こぼすように。

「本当は、薬剤師になんか、なりたくなかったんだ。私」

 そう、彼女は言った。

 降り続く雨の音が、薄暗い洋間の沈黙を包んでいる。それとは違うリズムで時々、ピチャン、ピチャンと、雨滴の音が窓のすぐ外で鳴る。

 その雨滴の音に促されるように、雨滴が零れ落ちるように、月影さんは彼女の想いを途切れ途切れに漏らした。

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