2-9 報酬はコスモスの造花

 夏になる前の季節はそうやって、週に二三日はカナトは月影つきかげさんと時を過ごした。

 晴れた日曜は公園で月影さんの独り演奏会につきあい、雨の日や木土曜の午後は結朋堂ゆいほうどうの二階で勉強したり、コーヒーを飲みながら談笑したり、読書をしたりした。

 公園でそして結朋堂で過ごした場面が、一コマまた一コマと、カナトの胸の中に積み重なっていく。

 向かいの席でコーヒーをすすりながら本を読む月影さん。

 三時のおやつに出てきたケーキを選ぶとき、じゃんけんに負け、チョコレートケーキをとられて悔しそうにする月影さん。

 頬杖をつき窓を流れ落ちる雨水をぼんやり見つめている月影さん。

 勉強のアドバイスをしてくれようとカナトの化学のテキストを開き、すぐにそれをほおりだした月影さん。

 ときどき岩崎さんも参加して、好きな小説について語り合ったり、オセロやトランプゲームをしたりもした。

 そのどの場面もが、思い返せば必ず優しい微笑と陽だまりのようなあたたかさとに彩られていた。窓辺に穏やかな光さす日も、鈍色に沈んだ曇りの日も、雨音がしとしとと響く日も。あの結朋堂の洋間の窓辺に向かい合う二人の口元には、いつもそよ風のような笑みがこぼれていたように、カナトは思う。

 公園での演奏も、月影さんは進歩をみせていた。

 あの日以来、もう無理にポピュラーな曲を奏でることはしなくなった。しかし、気分が乗った時だけ演奏するちょっと明るめの曲は、回を重ねるごとに岡哀子のそれにせまるくらいのレベルまで高まっていった。それはカナトの知っている曲の時もあれば知らない曲の時もある。どの曲でも、ときどき通行人を立ち止まらせもするし、拍手をもらうことさえあった。

 

 公園から結朋堂に帰り着くと、月影さんはうれしそうに一輪の花を窓辺のテーブル上の花瓶にさした。薄紫の、コスモスの花。造花だ。あの公園にはコスモス園もあって、売店で花や造花も売っている。演奏を聴いた女の子が手にしていた造花から一本ぬいて、わたしてくれたのだ。今日の、月影さんへの報酬。多少季節外れのような気がしないでもないけれど、カナトはこれを気に入っていた。他の大勢と一緒に咲けないところが、なんだか自分たちに似ていると思えたから。

 夏の造花のコスモスを気に入ったのは月影さんも同じようだ。テーブルに頬杖を突いてその花を眺めながら、彼女は嬉しそうに鼻歌を歌っている。

「どう? 最近私すごいでしょ」

「ええ。もとからすごかったけど、最近は特に。今日も何人も聴いていたし。子どもなんか、目を輝かせていたし」

 カナトはお世辞抜きにそう言ってあげる。基本的にはそばで勉強しているだけなのだが、彼も最近では勉強の手を止めて彼女の演奏に聴き入ったり、彼女のために飲み物を買いに行ったりはするようになった。そのうち観客がもっと増えたら、アシスタントの真似事もするようになるかもしれない。それも悪くないかもしれないと、彼は思いはじめている。

「それにしても、今日演奏したあの曲は、何の曲です。えらく子供たちが喜んでましたが」

「ああ、あれ。アニソン」

「月影さんにはそんな趣味が?」

「あれ。言わなかったっけ」

 初耳だ。だけど、確かにいい曲だった。スピード感があって劇的で、人の悲しみに寄り添いながら、そして励まし背を押してくれるような曲。曲の良さだけではない。月影さんの紡ぎだす音色の美しさ、テクニック、込められた情感。その全てがその曲の魅力を最大限に引き出して、その場にいた人の心を見事につかんでいたと思う。そんじょそこらの愛好家では、今の彼女にはかなわないんじゃないかとさえ、カナトは感じている。

「どお? これなら、ひょっとしたらそのうち幸学の会から声がかかかるんじゃない」

「どうでしょう」

「かかるよ。きっと」

「認識されてたとして、それって、どういう方法で連絡が来るんでしょうね」

 ふと、カナトは疑問に思っていたことの一つを口にする。まさか、「当選しました!」なんて葉書で来るわけではあるまい。

「そうねえ。いったいどんな方法かな。やっぱり招待状かなあ。それとも燕尾服を着た紳士が口頭で伝えに来たりして。馬車に乗ってさ」

 月影さんはテーブルに頬杖をついたままうっとりと天井を見上げた。

「そう。それがいいな。そして演奏会の夜。ドレスに身を包んだ私はお供付きで馬車に乗って、優雅に会場へと向かうんだ」

 そして寝言のように彼女はぶつぶつと妄想をつぶやきはじめる。きっと素敵だろうな。豪勢な食事。きらめくシャンデリア。着飾った紳士淑女の前でスポットライトを浴びながら演奏する私は、皆から拍手喝さいを浴びてほめたたえられるの……。

「あの……、月影さん」

「なんてすばらしい演奏だ。君は天才オカリナ奏者だ。社交界の花だ。ぜひ今度は国立劇場で……」

 膨らみすぎた妄想に踊らされて立ち上がり、おかしな手ぶりで演技まではじめた月影さん。それをしばらくほおっておくのも面白いかとカナトは思ったが、もう時間も遅いので適当なところで止めてあげることにした。

「月影さん。もう、閉店時間じゃないですか」

 カナトが電灯をつけて言うと、月影さんはピタリと動きを止めて、照れくさそうに頭をかいた。

「ああ、そうだったね」

 そう言ってあわてて窓のカーテンにしがみつく。カーテンを閉めようとして、しかしその手をとめると、彼女はポツリとつぶやいた。

「やっぱり一人じゃ、心細いかな。君も、何かやってくれたら……」

「以前、ヴァイオリンをやっていたけど」

 そう、思わず答えてしまったのは、ひょっとしたら心のどこかでまた弾いてもいいかもしれないと思い始めていたからかもしれない。だが、カナトは言ってしまってから己の発言に動揺し、すぐに訂正してしまう。

「でも、もうずいぶん楽器に触ってもいないから無理です。もう全然弾けなくなってるだろうから」

 振り返った月影さんと思わず目が合う。彼女の眼鏡越しの瞳の、一瞬さした輝きは、すぐにその長いまつ毛に隠された。

「そっか。それは、残念」

 微笑みながらわずかに伏せたその表情が、なんだかとても寂しそうに、カナトには見えた。


 その夜は珍しく父がいて、二人で夕食をとった。

「どうだ。最近……。勉強は、はかどっているか」

 黙々とご飯を口に運び咀嚼するだけの時間。長い沈黙の後ようやくためらいがちに口を開いたのは父だった。

 カナトは野沢菜を長い時間をかけてかみ、それを飲み込んでから短く返事をする。

「うん……。まあまあ」

「志望校は、いけそうか」

 志望校。その言葉を聞いて、カナトの胸はざわつく。そのざわつきが反感によるものだということを彼は知っているが、あえて表には出すまいとした。表には出さず、心の中でだけ、彼は父にうったえる。

 志望校だって? そんなものはないじゃないか。学校じゃなくて医学部。そうじゃないのか。そして僕は、別にそれを志望しているわけではない。僕が自ら志し望んでいる大学なんて、本当はないんだ。

「ごちそうさま」

 カナトは反感と言葉を飲み込んで手を合わせ立ち上がる。ダイニングから出ようとする彼の背に、また父の言葉がかけられた。

「喜ぶと思うんだ。母さんも」

 カナトは立ち止まって振り返る。父は手に持った茶碗を見つめながらつづけた。

「お前が医者になれば、母さんも天国できっと喜んでくれる。母さんを苦しめた病の治療法を、お前が見つけるんだ」

 カナトは返事をせずにダイニングを後にして自室へと駆け込んだ。閉めた扉に背をあずけ、乱れた息を落ち着けようと目を閉じる。

 やめてくれよ。

 荒い呼吸を繰り返しながら鼻をすすって、彼は頭を抱える。

 やめてくれよ。そんなストーリーを勝手に創らないでくれ。そんな立派な人生のストーリーを勝手に創って、押し付けないでくれ。そのとおりになれない僕は、その道を望むことができない僕は、まるで冷酷非情な、ひどい悪人みたいじゃないか。

 目を開け暗い部屋の中を見渡す。まるで彼の将来のように輪郭も色もよくわからない空間。本棚の脇に置かれたヴァイオリンのケースのシルエットに目をとめた彼は、近寄っていってそのケースを手に取った。

 母の形見のヴァイオリン。小さいころから母に教えてもらって、中学生の時に譲り受けた。当時すでに病に侵されていた母は、カナトが弾くこのヴァイオリンの音が好きで、彼が演奏しているときはいつも幸せそうに目を細めていた……。

 カナトは暗闇の中で床に置いたケースのふたを開ける。気のせいか、ひんやりとした空気が立ち上ってくるような気がする。

「僕は……。冷徹な人間かな」

 そのつぶやきに対し返事はない。

 カナトは自嘲してすぐにその蓋を閉じた。その瞬間、ふと月影さんの姿が脳裏に浮かんだ。彼女は窓際のテーブルの向かいの席に頬杖をついて彼を見つめている。

「ねえ。弾いてみせてよ」

 彼女は目を細めながら言う。

「ダメだよ。僕は……」

 月影さんの幻影に力なく答えて、カナトはヴァイオリンのケースを抱え、うなだれた。

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