2-8 似た者同士

 気がつくと、ひっきりなしに降り注ぐ雨音が、薄暗い洋間に響き渡っていた。スズラン型の電灯に、黄色い光が灯っている。カーテンをかけた窓の傍には月影さんが立っていて、テーブルに置いた鍋からおかゆをすくっていた。

「やあ。目覚めたね」

 彼女は湯気の立つお椀を手に、ソファの傍らにやってきて、枕元におかれた椅子に腰掛けた。

「具合はどぉ?」

「まだ少し、ぼーっとします」

「食べさせてあげよっか」

 そう言って月影さんは匙でおかゆをすくい、ほほ笑んだ。はい、あーん。そうとでも言いだしそうな感じに口を開けて。

「いえ。いいです」

 慌てて起き上がり、カナトは椀を受け取った。おかゆを口に含んでゆっくりと咀嚼する。優しい味。そしてあたたかい。飲み込むと、その熱とエネルギーが全身に染みわたっていくかのようだ。

 食べ物を口にして、ようやくカナトは自分が空腹であったことに気づいた。

「そういえば、今、何時でしょう」

「九時だよ」

 もう、そんなにたっていたのか。カナトはいそいでおかゆを口にかきこむと、むせながら椀を月影さんに返した。

「もう帰らないと。ありがとうございました」

 そう早口で言って、立ち上がろうとする。しかしふらついてまたソファに体をうずめた。まだ全快とはいかないようだ。吐息をついて視線を向けた先に、月影さんの優しい、でもちょっと寂しそうな表情があった。

「おうちには連絡したんだけど、誰も出なかったよ」

 カナトを見つめて彼女はいったん口を閉じ、そしてまた問う。

「お父さんは、まだお仕事?」

「ええ」

 カナトも月影さんを見つめながら、わずかにうなずく。

「いつも、遅いんです」

 そして少しの間をあけて、付け加えた。

「母は、何年も前に亡くなりました」

 その言葉を吐き出して口を閉じると、あとには沈黙が降りた。

 月影さんは口を開きかけて、しかし何も言わずに目を伏せる。そんな彼女とカナトを包む沈黙が、彼に問いかける。なんでこんなことを言ってしまったんだ、と。月影さんには関係のないことなのに。言われても困るだけだろうに。

(ごめんなさい。でも……)

 カナトは月影さんに謝りながら沈黙に答える。でも、言わないといけないような気がしたんだ。言わずにはおれなかった。さっき夢に見てしまったから。そして覚めてしまった夢の跡に、月影さんがいたから。

「……私も、いないんだ」

 長い沈黙を破って、月影さんがぽつりとつぶやいた。

「お母さん。私が国家試験に受かった翌年に亡くなった。お父さんも、その翌年に……。ねえ……」

 床に視線を落としながら語っていた月影さんは上目づかいにカナトを見た。

「私たち。一緒だね」

 そう言って、かすかに笑みを浮かべた。

 正確には一緒ではない。月影さんには父もいないのだ。その心細さは、カナトの比ではないだろう。でも、確かに共有するものがあるのだとカナトも思う。きっと今、自分も、彼女と同じ寂し気な笑みを浮かべている。

 カナトは目を閉じて思い浮かべる。薄暗いアパートの部屋の隅でひざを抱える自分。そして同じ時間、やはり薄暗い部屋の窓辺でうつむいている月影さん……。自分は傍らにあるヴァイオリンのケースを一瞥し、すぐにそれから目を背ける。彼女はオカリナを取り出してそれを口にあてる。紡ぎだされた音が二人の間の闇の中に落ち、波紋を広げる。ああ、そうだ。ひとつ、違うところがある。

「ええ。僕たち、よく似た境遇ですね。でも、僕は楽器を演奏しない。ねえ、月影さんはどうして……」

 カナトは目を開き、薄暗い天井を見上げながら問う。そこにあの公園でオカリナを吹く彼女の姿を思い描きながら。趣味の範疇をはるかに超えた技量で熱心に演奏をする、まるでプロを目指している人のような彼女の姿を。

「どうして、オカリナだったの? なぜそんなに上手になるまで続けられたの?」

 僕はヴァイオリンだった。母がやっていたから。でも母が亡くなって挫折した。どうしても弾くことができないんだ。

「小学校六年くらいの時かな。授業でオカリナをやって、上手だねって、褒められたの」

 月影さんも天井を見上げながら、もっと遠くを眺めるような表情で話してくれた。

「クラスで一番だって。人より優れたものなんか持ってない私だったから、それがとってもうれしかった。はじめて自信が持てるものに出会えた。そんな気持ちだった」

 その時のことを思い出しているのか、そう語る月影さんの声はいつもよりなんだか高くて明るくて、そしてちょっと湿っていて……。

「ずっとその言葉を宝物にしてきたんだ。吹奏楽部に入って、ほかにもいろんな楽器をやったけど、でもやっぱりオカリナはやめられなかった。一番好きだったのはあの音で、一番私を表現できるのはあの楽器だったから」

「だから、今まで続けられた」

「そう。学校出て、社会人になっても。いや、社会人の今の方が子供のころよりかけがえのないものかも。だってほら、この仕事って、何も生み出さないから。表現することに飢えているんだね。私、恥ずかしくてサークルとかに入れないし。独りで思い切り吹けるところもないし。家じゃあ、吹けないしね」

 小さくうなずきながら話を聞いていたカナトは、月影さんの最後の言葉に首を傾げた。あれ? 家って、ここじゃないの?

「月影さんは、この結朋堂に住んでるんじゃ、なかったの? 月影さんの家って、どこ?」

 すると彼女はきょとんとして、目をぱちくりさせながらカナトを見た。二人の視線が合う。彼女の頬がゆるみ、白い歯がこぼれる。

「ちゃんと自分の家はあるよ。小さな家に、ひとり暮らし」

 カナトを見つめる目が、何を妄想しているのか半分くらいに細められた。

「なあに? 私の私生活に興味あるの? ダメだよ。未成年の君を、部屋に入れたりしないんだから」

「なっ。きょ、興味なんかありませんよ」

 しかしはからずも月影さんの寝間着姿を想像してしまい、カナトは頬を赤らめる。その心の内を見透かそうとするかのように月影さんの目がますます細められ、笑みが深まる。その視線から逃れようとそっぽを向くカナトを見つめながら、彼女はクククっと、こらえるように笑い出した。

「なんですか」

「照れちゃって。かわいいねえ」

「うるさいなあ。照れてますよっ」

 思わず正直に言ってしまった、彼の口からも笑いがこぼれた。それにつられて月影さんの笑いも大きくなる。

 歌うように。まるでデュエットするかのように。

 二人の笑い声は交差しあい、鳴り響く雨音と溶け合いながら、古い洋間にしのぶ静寂にいくつもの波紋を浮かべた。

 その波紋の合間に、彼女のささやきがふるえる。

 表現したいなあ。哀しみだけでなく。喜びも。そしていつか、愛情も。


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