2-7 薬をください

 六月。今年の梅雨はよく雨が降る。月影さんは晴れの日にしか公園で演奏しないので、この月は結朋堂ゆいほうどうにいることの方が多い。

 今年二度目の実力試験が終わって結朋堂を訪ねたその日も、雨が降っていた。

 頭を使いすぎたからか、なんだか頭がくらくらする。よろけながら店の奥に向かうと、月影つきかげさんはカウンターに頬杖をついてつまらなそうに天井を見つめていた。

「さぼってないで仕事ちゃんとしてください」

 カナトが声をかけると、

「ちゃんとしてるもん」

 そう言って、彼女は不貞腐れたように頬をふくらませる。

 カナトは思わず苦笑いした。何だかこの人は時々子供みたいだ。そんなことを思いながら。十歳年上とはとても思えない時がある。だからこそ気安く話せるのかもしれないけど。でも、今日は仕事をしてもらわないと。

「あの。薬がほしいんです」

「どうしたの?」

「なんだかだるくて……。風邪薬ありますか」

 月影さんは急に真剣な表情になり、立ち上がってカナトの顔を覗き込んだ。

「咳は出るの?」

「いいえ」

「痰とか鼻水は?」

「いいえ」

「熱はあるかな」

「どうでしょう」

 すると月影さんはカナトの額に手を当てた。そしてその姿勢のまましばらく考え込む。彼女の手のひらは少し冷やりとしていて気持ちよかった。

 月影さんがじっと自分を見つめている。何だか頬がほてってきて、額にも汗がにじむ。彼女の手に自分の汗がつくのが何だか恥ずかしくて、カナトは慌てて身を引く。

「ふむ。熱はちょっとだけあるようね」

「あの。風邪薬飲めば大丈夫ですから。ほら。よく宣伝でやっているでしょ。パパロン総合風邪薬。あれください」

「ダメだよ」

 月影さんはまじめな表情でカナトを見つめたまま、諭すように言った。

「薬はね、むやみやたらと飲むものじゃないの。あの風邪薬はいろんな成分が入っている。今の君には必要のない成分が。だから飲んでも、害になるだけだよ」

「では。どうすれば?」

「うーん。そうだな……」

 あごに指を当てて少し考える様子をみせてから、彼女は後ろの薬棚のほうをむいた。がさごそと棚の中をしばらくあさり、小さな箱を取り出してカウンターの上に置く。パッケージには小難しい漢字が並んでいる。

「これがいい。これを飲みなさい」

「また、漢方ですか」

「滋養強壮の薬だよ。君みたいな人にはピッタリ。体力回復するし、身体も温める。解熱作用だってあるのよ。さ。飲みなさい」

「でも……」

 カナトは薬の箱を手に取り、しげしげと裏に書いてある成分表を眺めながらぼやく。漢方って飲みづらいんだよな……。

 視線をあげると月影さんがもうレジを片付け始めている。

「今日はもう店じまい」

 そう言って顔をあげ、カナトにほほ笑みかける。

「きっと疲れたんだよ。頑張っているもの。それ飲んで、二階で少し寝ていきなよ。ソファと毛布、使っていいから。あとでおかゆも作ってあげる」

 ね、そうしなさい。そう言って目を細めた彼女の表情が誰かに似ている気がすると、カナトは思った。どこか懐かしくて、胸の底に沈んでいた何かがゆさぶられるようで……。その感情にうながされて、素直にうなずいた彼は洋間へと向かった。


 ソファに寝そべってぼんやりしているうちに、雨はやんでしまったらしい。薄暗かった洋間の天井や隅に、柔らかな白い光が浸透して、輪郭の定かではない明るさに視界が満たされる。

 窓辺の方から食器の触れ合う音がする。天井ばかり見つめていたので気づかなかったのか、いつの間にか月影さんが来てくれていたようだ。

「あの。ありがとうございます。でも僕、まだあまりおなかすいていないから……」

 顔だけ動かして窓の方を向きながら、カナトは彼女に声をかけた。

 彼女はこちらに背を向けたまま器におかゆを盛っている。

「だめよぉ、カナト。ちゃんと食べないと治らないよ」

 諭すような、でも笑みを含んだ声。その声をきいたとき、ようやくカナトは気づく。

 月影さんの声ではない。この人は月影さんではなかったか。でもこの声はよく知っている。優しくて柔らかくて、まるで歌っているようで……。ああ、この声は。この声の主は……。

「ねえ。おかあ……」

 そのとき、その女の人が器をもって振り返った。それと同時に部屋を包む光が強くなり、カナトの視界全体が白一色に覆われてしまう。

 まだ、見ていないのに。彼女の顔をちゃんと確認していなかったのに。

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