2-6 池のほとりの東屋で

 月影つきかげさんがランチの場に選んだのは、林の前に広がるひょうたん池のほとりの、古びた東屋あずまやだった。

「それで、どうだった」

 木造りのベンチに座って膝の上に昼食を広げた月影さんは、カナトにサンドウィッチを渡しながらさっそく感想を求めてきた。

 カナトはサンドウィッチを一口ほおばり、それを咀嚼そしゃくしながら視線をあげる。水影みずかげが緩やかに揺れる木組みの軒の、板の隙間から陽光が漏れて瞬いている。

「あ。美味しいですね。これ」

「違う。演奏の感想よ」

 ドレミの歌とかは下手でした。というのはなんだか失礼な気がしたので、カナトは別の返事を考える。もう一口サンドウィッチを口に入れ、ゆっくりとかみながら今度は視線を池の面に向ける。

「ギャップが、ありますね」

「ギャップ?」

 月影さんがわずかに体をカナトの方に向ける。

「なんていうか……」

 カナトは月影さんの方は向かずに池の水面を見続ける。白い光の玉が無数に浮かび、まぶしくきらめきながら、でも物憂げにたゆたっている。それがなんだか彼女のオカリナの音色のようだと思いながら。

「なんていうか。悲しい曲ばかりがうまいです。それ以外の時はまるで身が入っていないのに。悲しい曲を奏でるときだけ、月影さんは神がかっている」

 どうしてですか。と、聞こうとして月影さんを見ると、彼女も池の方を向いて目を細めた。彼女の頬の輪郭に沿って、新緑の葉のそれを思わせるエメラルドグリーンの光が、水のように瞬きながら流れてゆく。

「そっか……」

 短い沈黙の後、何か言おうとしてしかし彼女はまた口を閉じる。その眼もとに水影が揺れていて、それが一瞬、涙のようにカナトには見えた。

 カナトはもう何も聞けなくて、黙ってサンドウィッチをほおばる。

「本当においしいです。これ」

 小さくつぶやいて黙る。

 静寂が降りてくる。風が吹き、林の木々のさざめきが小さな東屋の中を満たす。

 ふと、そのさざめきに混ざって、葉を踏む音がした。人の足音だ。

 カナトが振り向くと、東屋の後ろに人が立っていた。彼が眉をひそめたのは静寂を邪魔されたからではない。そこにいたのが聡一そういちだったから。

 聡一は今日も女連れだ。この前カフェで一緒にいたのとは別の女。小柄な、おとなしそうな女の人だ。

 聡一もカナトたちをみて驚いたらしい。はじめあっけにとられた表情をしていたが、しかしすぐにいつものように口をいやらしくゆがめる。そして、女を林の中においてひとりで近づいてきた。

「なんだあ、カナト。今日はお勉強休んでデートかよ」

 そして月影さんを一瞥して、また意表を突かれた顔をした。

「おいおい。このオバサンはねえだろ」

「失礼な子供ね」

 月影さんは横目で聡一をひとにらみすると、すぐにフンとそっぽを向く。

「知ってるの」

 カナトは月影さんに聞いたのだが、答えたのは聡一だった。

「ああ。一度あの薬屋に行ったからな。不愛想な店員だぜ。二度と行かねえ」

 そして何を思い出したか不機嫌そうに顔をしかめて舌打ちをした。

「あんな気味の悪い建物も、早く取り壊されちまえばいいのになあ」

「ちょっと!」

 月影さんのあげたその声が、あまりに鋭かったので、カナトは思わず息をのんだ。

 彼女はいったん口を閉じて息を吐く。そして息を吸ってから振り返り、今度はしっかりと聡一をにらんだ。そして彼に向かって言う。努めて感情を抑えた声で。大人が子供を諭すような口調で。

「あなたにとっては価値のないものでも、別の人にとっては大事なものだったりするのよ。そんなことを言ってはダメ」

 聡一も彼女の剣幕に返す言葉を失ったようだ。顔を引きつらせ視線を宙に迷わせていた彼は、「フン」とだけ言って踵を返す。逃げるように女の元に戻っていくと、また馴れ馴れしく彼女の肩に手をかけて遊歩道の方へと去っていった。

 聡一たちがいなくなると、また静寂が戻った。東屋に差し込む光がタイル張りの床を這い、林の木々のさざめきが首筋をなでながら流れてくる。耳を澄ますと、どこか遠くで金属をたたく音がかすかに聞こえる。マンション建設の音だろう。

「あ、あの……。月影さんは、聡一を知っていたんですね」

 さっきの月影さんの怒りの余韻がまだ静寂の中に残っているような気がして、カナトはそれを振り払おうと彼女に問うた。

 背を曲げて伏し目がちに池を眺めていた月影さんは、一つため息をついて答える。

「四月にね。二三回ほど店に来たことあるよ」

「一回じゃないの」

「ううん。三回は来たな。寝言みたいな、歯の浮くような気持ちの悪いこと言って口説いてきたから、無視してたの。そしたら来なくなったわ」

 なるほど。それで聡一はあんな不愉快な顔をして舌打ちしたのか。いくらモテるといっても、たしかに月影さん相手では歯牙にもかけられないのは当然だろう。でもプライドの高いあいつからしたら、屈辱だったのだろうな。まあ、あいつにはいい薬だ。

 ふられたときの聡一の顔を想像して、カナトは思わず頬をにやけさせた。

「なに、ニヤニヤしてるのよ」

「いや。自信満々で月影さんを口説こうとして無視されてるあいつの間抜けな姿を想像したら、おかしくなっちゃって。月影さん。いい仕事しましたね」

「なによ。ちょっと怖かったんだから」

 ちょっと頬を膨らませて言ってから、月影さんもおかしそうに息を吹きだした。カナトと顔を見合わせ、そして彼と一緒に小さく笑いを漏らす。

 月影さんと一緒に笑っているうちに、カナトの胸には陽だまりのようなぬくもりがうまれた。聡一に会った時の緊張感はいつの間にか溶けて消えてゆく。

「それにしても、驚きましたよ。月影さんも怒るんですね」

「だって、あの建物なんか壊れろって、言うんだもの。冗談でも、聞き捨てならないわ」

 風が吹き、林のさざめきに混ざって、また遠くから金属をたたく音がきこえてきた。その音にしばらく耳を傾けていた月影さんは、急にしんみりとした表情になって池の面に視線を落とした。

「どんどん新しい家やマンションが建っていくね。あのお店の建物も、そのうち壊されてなくなっちゃうのかな」

 そんなことないですよ。とは言えなかった。古い建物はどんどん壊されていく。いつかはあの建物もなくなると思うのが自然だろう。でも、そう言ってしまうのも残酷な気がして。だって、あの建物が彼女にとって大事なものであるということが分かるから。

「東京は、常に変化していますからね」

 カナトも池に視線を向けながらやっとそれだけ言う。すると月影さんは小さくため息をついた。

「でも、嫌だなあ。変わってしまうのは」

 そしていったん口を閉じてからもう一度、かみしめるように言う。

「見慣れた、思い出深い景色がなくなってしまうのは、嫌だなあ」

 差し込む光の中にさっと影が通り過ぎる。小鳥の鳴き声がそれと同時によぎり、池にかかるカエデの枝の新緑がささやきながらゆれる。遠くからホトトギスの歌声が流れてくる。

 月影さんはカナトの方に向き直り、何かをいとおしむように目を細めた。

「私ね。ここの出身なんだ。生まれも育ちもこの、幸ノ丘学園」

 彼女は目を伏せ思い出をたどるように語ってくれた。通った学校も小中高と幸ノ丘学園で、大学も、同じ町の端にある薬科大だった。だから、この街にはいっぱい思い出が詰まっているの。何気ない辻の風景、雑木林、あちこちの階段や坂道それぞれのたたずまいや、街路樹にも。だから、あんまり変わると、寂しいんだ。

「ねえ。あの建物。以前は何屋さんだったか知ってる?」

 突然の彼女からのその質問に、カナトは返答にきゅうして思わず頬を赤らめた。女の人に向かって言えるわけがないじゃないか。エロビデオ屋さんだったなんて。

 視線をあげてそんなカナトの様子を見た月影さんは、いたずらっぽく微笑んだ。

「エッチなビデオを売る店になる前よ」

「し、知りません」

「本屋さんだったの。十五年くらい前までは。よくあそこに連れてきてもらって、本を買ってもらった。二階が喫茶店で、買ってもらった本をあそこで読んで……。あの店で過ごす時間が、とても好きだったの」

 彼女はまた視線を下げる。そうすると、その表情に寂しそうな影が差す。

「残ってほしいなあ……」

 ため息まじりにつぶやいて、月影さんは口を閉じた。続けて何か言うのかと思っていたが、何も言わなかった。

 外で小鳥がさえずりあっている。新緑の枝が揺れ葉擦れの音が軽やかに鳴る。どこか遠くで槌を打つ音が響いている。

 東屋の中は静かだ。残ってほしいな。月影さんの発したその言葉の余韻だけが、静けさの中にいつまでも残っていた。その悲しい響きを、差し込む光の中に溶け込ませながら。


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