2-5 演奏活動開始!

「よーし。じゃあ、これから私は、頑張って演奏活動するよ。そして最終的には、幸学ゆきがくの会での演奏を目指しまーす」

 次の週の日曜日、同じ公園の同じ林前の遊歩道上で、いきなり月影つきかげさんはそんな宣言をした。

 幸学の会? 一体何だそれは。

「何ですかその……、なんとかの会って」

「知らないの?」

 知らない。とカナトが答えると、月影さんはその会について解説をしてくれた。

 幸学の会。正式名称、幸ノ丘学園ゆきのおかがくえん芸術の会。芸術の振興を目的とした、幸ノ丘学園に住む有力者による集いである。不定期にこの幸ノ丘学園のどこかで、豪勢なパーティーを催したり、演奏会をしたり、絵画の鑑賞会を開いたりしている。会員の顔触れは様々だ。資産家、芸術家、議員、作家、大学教授など。入会には厳しい審査があって、会員になることは大変な名誉とされている。

「会員になんかとてもなれるもんじゃないけど、招待されて演奏するのは一つの夢だな」

 解説を終えた月影さんはそう言って、うっとりと目を細める。

 そんな月影さんの話を、カナトはあまり本気に受け取ることができなかった。本当にそんな会があるのか。あったとして、ここで何となく演奏しているだけでお呼びがかかったりするものなのかな。

 いろいろ疑問はあるけれど、とりあえずカナトはそれは放置しておくことにした。まずは吹くことが肝心だろう。そして、演奏会うんぬんより先に、問題がいろいろある。

「とりあえず……。物陰から出て演奏しませんか」

 カナトはまず、月影さんにそう提案した。

「それと……。なんて言うか、もっと楽しそうな曲も吹いた方がいいと思うんですが」

 すると月影さんは不服そうに唇をすぼめた。

「えー。だって、好きなんだもん。岡哀子おかあいこの歌」

「岡哀子?」

「知らないの? 彼女の失恋ソングは名曲ぞろいだよ。チョー泣ける」

 あまりよく知らない。っていうか、あれらの曲は失恋ソングだったのか。道理で……。

 納得しながらカナトは改めて月影さんの姿を眺めてみる。そういえば、服装だって今日も先週と同じようなコーディネートだ。白いブラウスの上に黄色いカーディガン。淡い緑のフレアスカート。白いつば広帽子をかぶって。お気に入りの服を着て、好きな曲のみ演奏する。きっと食べ物も、好きなものしか食べないんだろうな。まあ、誰しもそうだとは思うけど。

 でも、人に聴かせて喜ばせたいなら、好きなものだけとはいかないだろう。なにかこう、もっと一般受けを狙うことも必要なんじゃないだろうか。聴く人にはいろんな人がいるんだし。

 その考えを伝えてみると、月影さんも渋々といった様子でうなづいた。

「うーん。しょうがない。じゃあ、どうしようかな。ドレミの歌でも演奏してみるか」

 彼女の選曲にカナトは思わずずっこけそうになる。確かに名曲だけど、いきなりそれかい。まあ、一般受けするかはわからないけど、失恋ソングオンリーよりはいいか。少なくとも子供を恐れさせることはない。

「じゃあ、今日はそこで吹いてみましょうよ」

「えーっ。遊歩道から丸見えじゃない」

 カナトが指さしたベンチ脇の空間を見て月影さんはあからさまに嫌そうな顔をした。

「せめてあの木の根もとじゃダメかしら」

「しょうがない。じゃあ、そこからはじめましょうか」

 ずんずん林の奥へ行こうとする彼女を引き留めて、カナトは遊歩道に一番近いケヤキの幹の傍らに彼女を連れて行った。そして遊歩道側に向かって立たせる。

「わかった。じゃあ、ここで吹くね」

 そう言ってオカリナを手にした月影さんは、しかし足を少しずつ横に移動させて木の幹の影に隠れようとする。

「だめですよ。見えるところにいてください」

 カナトのダメ出しに月影さんは口をすぼめてうなずき、しかし遊歩道の正面には出ず、そっぽを向くように横向きに立った。そして問うようにカナトを見やる。どう? これでいいでしょ。とでも言いたげに。

 まあ、いいか。林の奥にいられるのよりはましだ。カナトは苦笑いしながらうなずく。すると彼女はやれやれといった感じで吐息をつき、バッグからオカリナを取り出した。

 ドレミの歌はミュージカル「サウンドオブミュージック」の中で歌われる曲の一つだ。我々はこれを子供のころから何度も聴き、学校などでも散々歌うから、白米のように珍しくもなんともないものに感じがちかもしれない。しかし間違いなく名曲だと、カナトは思っている。初めて音楽というものに触れた子供たちの喜び。そしてマリア先生の、子供たちに音楽を愛してほしいという想い。音楽に対する賛歌のような曲。しかるべき技量を持った人がその技を惜しみなくつぎ込んで演奏するならば、とても感動的なのだ。

 だからカナトは、ちょっと月影さんの演奏が楽しみだった。この曲を、彼女はどう奏でるのだろう。音楽への賛歌を、彼女はどういうふうに表現するのだろう。

 音楽への賛歌……。

 しかしカナトの頭の中に浮かんでいたその文字は、流れてきた月影さんの音を耳にしたとたんに、ひび割れ崩れ落ちてしまった。

 下手だ。

 まったく気持ちが入っていない。ただ、楽器に音を吹き込んでいるだけだ。これではまるで初心者だ。夢やぶれてや岡哀子の曲を吹いていた時の気合は一体どこへ行った。

 カナトがあっけにとられているうちにドレミの歌は終わってしまった。しばらく間が開いて、次に何を演奏するのかと思っていたら、次もまたドレミの歌。そのまた次も。

 へたくそなドレミの歌を三回続けてから、月影さんは脱力して木の幹に寄りかかり空を仰いだ。

「あー、ダメだ。気分が乗らない」

 月影さんは大きく伸びをすると、ベンチの脇に突っ立っているカナトを不思議そうに見た。

「どうしたの? 勉強しないの?」

 カナトはハッとして、慌ててベンチに腰を下ろす。ハラハラして、すっかり勉強することも忘れていた。

 英語のリーダーを開いたところで、背後からさっきとは別物のような音色が流れてくる。ドレミの歌に飽きた月影さんが岡哀子の曲を演奏しだしたのだ。

 同じ人の演奏とは思えないクオリティの高さ。オカリナの音色は時に太く時にか細く、まるで生き物のようにカナトを包みこみ、その胸を締め付けようとする。透明な手に頭や頬を優しくなでられ、鳥肌が立ち、息をするのも忘れてしまう。

 確かに名曲だ。

 曲が終わるとカナトは、月影さんに気づかれないようにそっと顔をそむけた。今のしんみりした表情なんか見られたら、きっと彼女に得意がられる。それがなんだかちょっと悔しかったから。

 もう昨日と同じ路線でいくのかな。そう思って耳を傾けていたら、次はまったく違う調子の旋律が流れてきた。

 ああ、これも知っている曲だ。アラジンの「ア・ホールニューワールド」。これも知る人ぞ知る名曲。ああ、でも……。

 カナトはがっくりと首を垂れる。

 まったくこの人は、名曲を台無しにして。ドレミの歌と一緒じゃないか。全然気持ちが入っていない。

 子供の描いた絵のようないびつな音符が周囲で踊っているような気がして、カナトはそれらを必死に振り払おうとした。右の四分音符をひとはらい。左の二分休符もひとはらい。

 そんなことをしているうちに音は途切れて次の曲へ。今度はジブリ音楽だ。おいおい。ジブリの曲をそんなにつまらなそうに吹かないでくれ。やっぱり気持ちが入ってないからか、音は綺麗なのだけど、どうしても上手くは聴こえない。そのせいか、彼の勉強の方も全くはかどらなかった。英文を読むことに集中したくても、周囲に寄ってくるいびつな音符どもが気になって。

 ポンポン跳ねてくる音符どもを追い払おうとやみくもに空気をはらっていたら、月影さんから声をかけられた。

「どうしたの。虫でもいた?」

「あ、ああ。いいえ」

 ちょっと頬を赤くしてカナトは手を膝の上に戻す。彼女にどうしてそんなことをしているか詮索されたら、正直にいうべきだろうか。そんなどうでもいい心配をしながら。

 しかし月影さんは何も追求せず、満足げな笑みをひとつ浮かべて大きく伸びをした。

「うーん。吹いた吹いた。疲れたねえ。もう、お昼食べようか?」

 賛成だ。昼にはまだ少し早いけれど、これ以上ここでこうしていてもろくな勉強はできそうにもない。はやく結朋堂に戻った方がいい。そんなことを考えながらカナトが同意すると、月影さんは嬉しそうに目を細めた。

「よーし。じゃあ、ピクニックだ」

「え? でも、お昼なんて、持ってきてないですけど」

「用意はしてあるのさ」

 月影さんは得意そうに口の端をあげて、バッグから布の包みを取り出して掲げて見せた。

「私の手作りだよ」

 ありがたいような、ありがたくないような。うれしいようなうれしくないような……。ひょっとして午後もこの演奏会が続くのかな。苦笑いのような中途半端な笑みをつくって、カナトは月影さんの後について遊歩道を歩いていった。

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