2-4 月影さんの危機?

 木々のさざめき。小鳥の声。それに混ざって、腹が鳴る。

「よし。やっとできた。そろそろお昼に……」

 苦戦していた数学の問題をようやく解き終わり、ほっとして顔をあげたカナトは、出しかけた声を押し込んで口を閉じた。

 オカリナの音はしていない。しばらくそうして耳を澄ませていたが、葉づれの音が降り注ぐばかりで彼女の曲が流れてくる様子はなかった。問題を解くのに夢中で気づいていなかったが、そういえば、音楽はいつから途切れていたのだろうか。

「月影さーん」

 カナトはベンチに背を預けたまま振り返って彼女を呼んでみた。風がそよぎ、頭上に覆いかぶさる木の枝が波のようにさざめいて揺れる。風が通り過ぎると静寂が林の中を包む。返事はない。ただ木漏れ日が音もなく林床のところどころを照らしている。

「月影さん?」

 今度はもうちょっと大きな声で呼びかける。カナトのその声は林の中の静寂に力なく吸い込まれるだけだった。

 急にカナトの胸が締め付けられ、大きく鼓を打った。

「月影さん!」

 今度は祈るように叫びながら、彼は立ち上がる。それと同時に林の中から短い悲鳴が聞こえた。

「大丈夫ですか? 今行きます!」

 言うや否やカナトは駆け出す。慌てたせいで足を滑らせ地面に手をついた。しかし彼はひるまずにすぐ立ち上がり、膝と手の土をはらいもせず林の中へ入っていく。木の根につまずき、幹にぶつかりそうになりながら、彼女がいるはずの木陰に向かう。

 どうしたんですか。大丈夫?

 目的のイチョウにたどり着いたカナトはそう言いかけて、しかし口を閉じた。荒い息を吐く彼の視界には、何事もなくそこにたたずむ月影さんの姿があった。彼女はイチョウの幹によりかかって、ぼんやり空を見上げていた。

 緩やかな風がとおりぬけ、彼女の髪とスカートをかすかになびかせた。足もとに置いてあった帽子が浮いて転がり、カナトの目の前で止まる。それを拾い上げた彼の方を向いて、月影さんはニヤリと微笑んだ。

「ひっかかったな」

「なっ……」

 数秒してから、カナトはあの叫びは月影さんの演技だったことを理解した。彼女にからかわれていたのだ。

 たちまちカナトの頬がほてり、首筋に汗が伝う。

「ひどい。割と本気で心配したのに」

「ごめんごめん」

 月影さんは微笑みながら柔らかい声でカナトにあやまる。

「君がそんなに本気になってくれるとは思わなかったから」

「ほ、本気じゃないです」

「そう?」

 月影さんの視線がカナトの土のついたままの膝に向けられる。彼が慌ててその土をはらうと、月影さんは優しく目を細めた。

「ありがとう。うれしいよ」

「それは、どうも……」

 うれしい、とか、ありがとう、なんて言葉を言われたことは今まであったろうか。なれない言葉にカナトはなんだか体のあちこちがむずがゆくなって、それを紛らわすために、ぶっきらぼうに帽子を彼女につき返した。

「ところで、どうだった?」

 帽子を受け取った彼女が突然カナトにきく。その意味が分からなくて首をかしげる彼に、月影さんは帽子のつばをいじりながら言った。

「お客さんの反応よ」

「お客さん?」

 何のことをききたいのかカナトは大体察したが、さっきの仕返しにとぼけて見せる。すると月影さんはムッと頬を少し膨らませて、そしてその頬をわずかに染めて、言い直した。

「私の演奏……。誰か聴いてた? 聴いた人はどんな様子だったの」

 目をわずかに伏せ、消え入りそうな声で問う月影さんの表情を眺めながら、カナトはどう答えたものか迷った。みんな逃げだしました。なんて言ってしまったら、彼女はどんなにか落ち込むだろう。かといって、嘘をつくのもはばかられる。あれで公園の人々を大喜びさせたなんて思われたら、皆さんに申し訳ない。

 カナトが黙っていると、月影さんは察したようにひとつうなづき、そして少し寂しそうに言った。

「そっか。やっぱりうまくいかないか」

 帽子を目深にかぶった彼女は、足もとのバッグを拾って肩にかけた。

「そろそろ帰ろうか」

 そして彼女は歩きだす。二三歩すすんでからはたと立ち止まり、振り返ってカナトを見る。その顔には先ほどまでと同じ微笑が浮かんでいた。

「来週もまた来ようね」

「なぜ……」

 先に進もうとする月影さんを、思わずカナトは呼び止める。振り返った彼女の、黒い穏やかな瞳を見つめながら彼は思う。彼女は他人だ。何を考えているのか詮索するのは分を越えているかもしれない。そんな義理も筋合いもないかもしれない。でも、やっぱり知っておかなければいけないような気がする。いや、聞いておきたいと思う。

「なぜ、オカリナを吹くんですか。なぜそれを、ここで吹こうと思うのでしょう」

 月影さんはカナトを見つめる目を細めた。ありがとう、と、さっき彼に言ってくれた時のそれと同じ、優しいまなざしで。

「それはね。昨日、君が私の演奏を聴いてくれたことが嬉しかったから。その時の君の表情が、とてもよかったから。私の演奏が、聴いてくれる人の表情にこんな光をともすことができるのなら、とても素晴らしいことだと、思ったの」

 公園の遊歩道を歩き去る月影さんの背の上を、明るい光の輪がいくつも流れてゆく。その小さな背中と白い帽子を見つめながら、カナトは思う。まいったな、と。これは、彼女につきあってあげなくてはいけなくなったな。僕には彼女にその気持ちを灯した責任があると思うから。


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