2-3 内気な演奏家

 日曜日は結朋堂ゆいほうどうは休業日だ。休日に休むとかやる気がないのかと思うが、さして影響もないのだろう。いつもの空きようを考えれば、開けている方がむしろ損をすることになるかもしれない。もっともこの店の存在自体が、もはやあってないようなものだが。

 だからカナトは、日曜は脇の勝手口からこの建物の中に入る。

 二階の洋間には休業日でもいつものように月影つきかげさんがいる。窓際の椅子に腰かけて、いつものように本を読んでいる。

 でも、この日は違った。

 扉を開けて部屋の中に入ると、月影さんは椅子から立ち上がってバッグを肩にかけた。そして机の上に置いてあった白いつば広帽子を頭にのせながら元気よく言う。

「さあ、行こうか」

 カナトは瞬きをしながら首をかしげる。

「どこへですか?」

「公園だよ」

 そして彼女は両手を口元に持っていって、オカリナを構えるジェスチャーをした。

「公園でちょっと吹いてみようと思うんだ。付き合ってよ」

 カナトはあまり外で活動するのは好きではない。スポーツもしないし、登山やハイキングなどもしない。陽の下で楽しそうに活動している人々の中にいると、なんとなくいたたまれない気持ちにさせられるから。晴れの日は人並みにうきうきするし、お日様の下にいるのが嫌いなわけでもないけれど。

 だからカナトは月影さんの提案にとりあえず反抗を試みた。

「どうぞお一人で行ってください。僕は留守番しています」

「あれえ? そんなこと言っていいの? 誰のおかげでここで勉強できるんだっけ?」

 月影さんの目が意地悪そうに細められる。

「お菓子もコーヒーも、ご馳走してるよね。あれ。私のとっておきだよ」

「うぐ。そうでした」

 軒を貸している恩を振りかざされると一言も返せない。はかない抵抗をカナトはすぐにあきらめた。じゃあ、少しだけ。すぐに帰ってきましょう。未練がましい提案を言いかけ、それが言い終わる前に彼の手は月影さんに引っ張られていた。

 彼女が向かったのは、駅前の丘を越えて谷間の桜並木の道をしばらく行ったところにある公園だった。住宅地と繁華街の間にひろがる美術館の敷地で、結構広い。一応市民の憩いの場になっているのだが、あまり人はたくさんいない。

 休日の午前の静かな公園に、ただ明るい光が降り注いでいる。浅緑の葉が優しくささやき、その音に合わせるように地面の木漏れ日が眠たげに揺れていた。

「公園はいいねえ。癒されるねえ」

 そんなことをつぶやきながら公園の遊歩道を歩く月影さんは、時々ちょっと上を向いて深呼吸をする。白い帽子のつばのしたにほのかな笑みが浮かぶ。柔らかな風が吹いて彼女の髪がゆれ、その頬にかかる。

 芝生広場を突っ切り、杉の木立を抜けたところで、ようやく月影さんは立ち止まった。そこはもう、公園の隅だ。人の気配はどこにもなく、ただ小鳥のさえずりが楽しげに響いている。そんな遊歩道の真ん中で、木漏れ日を踏みながら仁王立ちになり、彼女は辺りをゆっくりと見渡す。左側は新緑の広葉樹の林。頭上では大きなケヤキの枝が、光を散らしながら揺れている。右側は小さな草原。低い木の柵が申し訳程度に立っていて、その先に、ひょうたん型の池が空の色を映して広がっていた。

 彼女はひとつうなずくと道から外れて林の中へ入っていき、歩道からは見えないイチョウの木の陰で足を止めた。

「よし。ここで吹こう」

「え。こんなところで?」

 バッグから楽器を取り出そうとする彼女を、カナトは慌てて制止する。林床は整地された土で草はあまり生えておらず、木と木の間もあいているのであまりうっそうとした感じではない。でもあまり日も差し込まず、遊歩道よりもちょっと薄暗くて、寂しいところだ。人だってあまり通らないだろう。

「ここじゃあ。誰からも見えませんよ。いいんですか」

「だって、人から見られると恥ずかしいし」

 人に見られるのが嫌なのに、なんで公園なんかに来ようとしたんだろう。そんな疑問を抱きつつも、まあどうでもよいやと、カナトは彼女の好きにさせる。そうしたいというのなら、そうすればいい。自分には彼女にとやかく言う筋合いはないのだから。

「じゃあ。僕はそこのベンチに座って勉強してるので、飽きたら言ってください」

「えー。私をここに独りにしておくの? 誰かに襲われたらどうするのよ」

「襲われませんよ」

「じゃあ、何かあったら叫ぶね」

「お好きにどうぞ」

 そんなやり取りをしてからカナトはすぐそこの遊歩道沿いにあるベンチに腰掛け、英語のリーダーを開いた。

 ほどなくして林の中からオカリナの音がただよってきた。とても悲しい調子の曲だ。悲痛といってもいい。何かを失った者の、絞り出すようなうめき声が聞こえてきそうだ。

 思わずカナトは顔をあげる。午前の明るい光が顔に当たり、心地よい風が首筋をなでてゆく。緑の葉の揺れの間から、小鳥のさえずりが流れてくる。

 不釣り合いだ。

 カナトはそう、つぶやいてしまう。彼女の奏でる音楽と、この五月の休日のうららかな空気が、まったく釣り合っていない。確かにオカリナの音は美しいし、曲自体は良い曲なのだと思うけど。晴れた日は明るい曲を吹かねばならないなんてことは、決してないと思うけど……。でも、カナトは思わずにはいられない。もっと他に吹く曲はないのかと。

 小さな子の手を引いて遊歩道を歩いてきた母親が、不審そうな表情で木立の方に顔を向けた。眉をひそめた彼女は広場の方へ進路を変え、娘をかばうように林から離れていく。

 しばらくして曲がやみ、少しの間をおいて別の曲の演奏がはじまった。しかしそれもまた、さっきと同じような雰囲気の曲。その次も、そのまた次も。彼女が奏でるものはどれもこれもが、悲しみの淵に沈む者の心をえぐるような音楽だった。その間何人かの市民が林の脇の遊歩道を歩いてきたが、みんな初めの母親と同じ行動をとった。犬の散歩のおばさん。子連れの家族。カップル……。その誰もが彼女の音楽を耳にすると、顔をしかめてこの界隈を避けてゆくのだった。

 実際は悲しい曲が好きな人だっているだろう。だけど薄暗く人気のない木立の中から寂し気な音色が漂ってきたら、たいていの人が気味悪るがって逃げ出すのは無理ないことかもしれない。もっともおかげでこの林の周囲は静かだ。月影さんが通行人を追い払ってくれるので、カップルや子供に邪魔されることもなくカナトは勉強に集中することができた。

 そんなふうにして時間を過ごし、気が付くと昼を回っていた。

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