2-2 笛の音の主

 この幸ノ丘学園は交通の利便性と適度な自然に恵まれた環境の良さから、最近移住してくる人も多いときく。ここ数年、いくつもの大きなマンションが建ち、そのたびに緑地が消え、風景も一昔前とはかなり変わりつつあるのだった。古くからの宅地の道端に、「マンション建設反対!」と書かれた上り旗が掲げられているのをたまに見るようにもなった。

 カナトは向かいに座る月影さんのまねをして、テーブルに頬杖をつき、アーチ型の窓に顔を向けた。

「嫌いですか。マンション」

 カナトが問うて横目で見ると、月影さんは毛先を指でいじりながら視線を少し下げる。

「まあね……」

 そう、気のない返事をして彼女は本を開いた。大きめの、分厚い本だ。何の本かと思いながら覗き込むと、白い紙面には細かい字と一緒に風景画がのっていた。

「こらこら。あんまり覗かないの」

 そう言いながら月影さんは中を隠すように本をたてる。表紙には『多摩の郷愁』と、はげかかった文字で題が書いてある。作家のそれと思しき名も書かれているが、それはカナトの知らない名だった。

「画集ですか」

「うん。そうみたい」

 月影さんは短く答えて、すぐに本に没頭していった。

 相変わらずそっけないな。カナトは肩をすくめながらテキストに視線を落とす。でも、それでいいと彼は思う。時々どちらかが何かをきいて、それに短く答える。会話はすぐに途切れる。お互いあまりたくさんは答えないし、根掘り葉掘り詮索しようとはしない。答えたければ答えるし嫌なら何も言わない。それがきっとこの空間の居心地の良さをつくり出しているのだろう。近くに座っていてもお互いがお互いを邪魔しない。気を使ってそうしているわけでもなくそれが成り立っている。静かだがそれでいて寂しくないし、息苦しくもない。話すときは話すし、自分のことに集中したいときはそうする。二人でいるこの部屋はそういう空間だった。だから、カナトはここに通うし、月影さんもそれを許すのだろうと思う。

 英語のテキストを片付け、カナトは肩をもみながら首を回した。正面を見ると、いつの間にか本を閉じた月影さんが、頬杖をつきながら彼を見つめていた。

「熱心だね。そんなに勉強して、何になるつもりなの」

 口を開きかけて、しかしカナトはすぐに閉じる。「医師」とはどうしても言えなかった。そんな偽りをこの部屋で、彼女の前でまでしたくはない。そんな気持ちがふっと彼の胸に湧く。正直な気持ちを、ここでなら言ってもいいような気がした。

「実は、よくわからないんです」

 月影さんはその大きな目をさらに広げてぱちくりとまばたきした後、遠くを見つめるような表情をした。

「そっか。そんなもんだよね」

 そしてまた読書を再開する。カナトも彼女にききたいことがあったが、それはやめて化学のノートを取り出し、テストの復習にとりかかった。

 やがて日も暮れ、閉店の時刻がおとずれる。

「閉店だよ」

 月影さんの言葉とともにスズランの電灯に光が灯り、テキスト類を片づけたカナトは、いつものように礼を言って部屋をあとにした。


 駅前商店街までおりてきたところで、筆箱を結朋堂においてきてしまったことに、カナトは気づいた。

 リュックを担ぎなおした彼は、とっさに踵を返す。

 本当は今日どうしても必要というわけではなかった。筆箱なら家にも他のがあるので、勉強に支障はない。それでも戻ろうと思ったのは、ちょっと興味があったからだ。

 自分が帰った後の結朋堂に。

 あの洋間に残って月影さんが何をしているのか。

 決して悪いことではないけれど、なんだかいけないものをみようとしている気がする。その背徳感のような気持ちに促されて、カナトは商店街を走り抜けた。

 三本の桜を見上げ息を切らしながら坂をのぼっているとき、彼の耳元を、またあの笛のような音が吹き抜けていった。夕方になるとどこからともなく街に流れる、あの音楽だ。相変わらずの、どこか寂し気な音楽。駅前の商店街で、谷筋の並木道でよく聴いたその音は、坂を駆け上がるにつれ、よりはっきりと輪郭をもち、心なしかテンポを速めてゆく。予感がカナトの胸の鼓動を高める。息を切らしながら坂を登り切り、その勢いのまま彼は結朋堂の勝手口の戸を開いた。


 結朋堂に入ったとたん、その音の響きは外にいた時とは段違いの厚みを持ってカナトの身体を包み込んだ。春の宵の空気を震わせるその繊細で美しい音は、二階から流れてくるようだ。

 ああ。月影さんが奏でていたんだ。

 それにしても何の楽器だろう。カナトは立ち止まって耳を澄ませる。昔よく吹いたリコーダーに似ている。でも、自分がかつて奏でたリコーダーよりも、より深く落ち着いた音色だ。

 曲も気になる。この曲は何という曲だったかな。目を閉じて彼は記憶をたどるがどうしてもその題名を思い出せない。でもききおぼえがある。哀し気な旋律。美しくて、伸びやかで、でも切ない感情が波のように次から次へとおしよせてくる。それは糸のように彼の心をからめとって、戸惑う彼を一歩一歩二階へとひきよせる。

 洋間の前に立ったカナトは一瞬の逡巡の後、思い切って部屋の扉を開いた。

 彼が部屋の中に入ると同時に、音はやんだ。月影さんが目を丸くして彼を見つめている。息をのんだまま開いた口を閉じるのも忘れて。その頬が若干ほてって紅くなっているような気がする。手に持っている楽器はオカリナ。そうか。オカリナだったか。

「えっと、ごめんなさい。あの……」

 どうやら思った以上に彼女を驚かせてしまったようだ。動揺したカナトは「忘れ物をして」という言い訳を思わず脳から消去してしまう。それは本心ではなかったから。しかしこの時になって、彼は自分がここにもどって何を彼女に伝えるつもりだったのか、何も考えていなかったことに気づく。ただ、もどってきた。本当にただそれだけなのだが、彼女にしたらまったく意味不明だ。気持ちの悪い男と思われたらどうしよう。

 何か言わなければ。特に気の利いた格好いいセリフも考えつかないまま、焦りに背を押されて彼は口ばしる。

「あの。その曲、聴かせてください」

 沈黙が数秒流れた。

 月影さんはまだ頬を紅くしながら何事かを考えるようにしていたが、やがて一つうなづくと、オカリナを口元に持って行った。

 悲しげで伸びやかな旋律が室内に流れ、響き渡る。

 それは外で聴いているよりもより太く、豊かにカナトの胸の中へと染みこんでいった。橙色のきらめきをちりばめた窓辺の光の中で、月影さんがリズムに合わせてその細い体をかがめ、小さな楽器に息を吹き込む。そのたびに色彩豊かな音色が室内に生み出され、カナトの胸のどこかが細かく震えるのだった。

 演奏が終わった時、カナトは自分の脇と首筋に汗をかいていたことに気づいた。思わず拍手をしながら彼女の傍に歩み寄る。素敵でした! そう言おうとして、でも何だか恥ずかしくなって、彼は別の言葉を口にする。

「この曲は、なんという曲でしたっけ」

「夢やぶれて」

 頬を上気させて息を切らせていた彼女は、白い歯を見せてそう答えた。


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