第2章 公園でオカリナを

2-1 カナトの疑問

 四月はあわただしく過ぎて、あっという間に五月の連休がやってきた。

 幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんの街に点在する雑木林も鮮やかな浅緑の葉に彩られ、さわやかに吹く風が、軽快なリズムで枝々を揺らめかせている。高く澄んで晴れ渡った空にホトトギスの鳴き声が響き渡り、坂を上るカナトの足を軽くさせた。

 鼻歌を歌いながらカナトは、すっかり緑の葉に覆われた桜の枝の下を通り、木漏れ日を踏んで結朋堂ゆいほうどうのガラス戸を開ける。

「こんにちは」

 カナトが奥に向かって挨拶すると、カウンターの奥で背を丸めて本を読んでいた岩崎さんがもっさりと顔をあげた。彼女は面倒くさそうに背後の扉を目で示し、また読書を再開する。どうぞ、入って。という意味だ。

「そうだ。休憩室の棚にバナナロールがあります。それを食べたら……」

「ぶっ飛ばされたくないので、食べませんよ」

 すれ違いざまにそう言葉をかわして扉を開く。

 はじめは岩崎さんの態度に戸惑ったが、何度か来るうちにすっかり彼女にも慣れた。彼女は幸ノ丘大学の三年生。カナトより二歳年上だ。読書が好きで基本的に人見知り。読書の次に好きなことは食べることと寝ること。北国出身で生活費の足しにするためにここでバイトをしている。意外にも彼氏がいる。

 もっとも、彼女がこれらの情報を教えてくれたわけではなく、みんな月影つきかげさんから聞いたことだが。

 カナトは岩崎さんの読書の邪魔をしないようにそっと扉を閉めると階段を上がった。二階のあの洋間に今日も月影さんはいるだろう。今は土曜日の午後だから。木、土曜日の午後と日曜は彼女は休みなのだ。あの日以来、その曜日のその時間はあの部屋で彼女と過ごすようになっていた。

「お邪魔します」

 ノックをしてから洋間の扉を開けると、窓際の椅子に腰かけて本を読んでいた月影さんがこちらを向いて微笑んだ。

「やあ。今日はずいぶんと楽しそうだね。何かいいことがあったの」

「いえ。別に何も」

 カナトもまた窓際にすすみ、丸テーブルの月影さんの向かいの席に座る。

「ただ、連休がはじまったから」

「お休みが好きなんだね。それとも五月が?」

「どちらも」

 今日予定している分の勉強道具を机上に出しながらカナトはうなずき、そして付け加える。

「あと、実力試験も終わったので」

「本当に試験が嫌いなんだねえ。あの薬効いた?」

「ええ。まあまあ、よかったです」

 先日彼女にすすめられた漢方薬のおかげか、今回はあまりひどい腹痛にはおそわれずに済んだ。今日気分が良い理由の一つでもある。

「そっか。よかった」

 そして月影さんはそよ風が吹くようにして笑った。その笑い方は初めのころより少しだけ柔らかいような気がする。

 このひと月で、ほんの少しだけ、月影さんとの距離が縮まったようにカナトは思う。

 はじめ部屋の隅で本を読んでいた月影さんは、次に来た時には隣のテーブルで音楽を聴いていた。五回目からは同じテーブルに座るようになって、今ではこうしてカナトが勉強している向かいで本を読んだり外の風景を眺めたりしている。

 英文の訳を解答用紙に書きながら、カナトはちらりと目だけで彼女を覗き見る。

 頬杖をついてぼんやりと窓の外に視線をなげる月影さんの横顔を、物憂げな午後の光の幕がおおっている。視界のどこかに宝石のきらめきを一瞬見つけたような気がして、カナトは息をのむ。神秘的だ。ほとんど困惑と言っていい感情で彼はそう思う。これは現実のことではないのではないかと錯覚してしまうほどに。

 彼女のことはわからないことだらけだ。

 とりあえず分かったのは彼女の年齢。カナトが年をきかれて「十八です」と答えると、「じゃあ、私は君より十歳も年上なんだ」とちょっと寂しげに言った。あとは本が好きなことと音楽が好きなこと。左手の薬指に指輪はついていないこと。

 そういう表面的なこと以外は、ほとんどわからない。当然といえば当然だ。ひと月前に出会ったばかりの他人なのだから。ほかのだれかのことを何も知らないように、彼女のことだってわからないのは当たり前だ。

 そういえば、彼女がカナトが受験生であることと友達がいないことをどうして言い当てたのかも謎のままだ。まさか本当に超能力ではあるまい。カナトの生年月日も血液型も出身高校もわからなかったから、それは確かだ。見た目でなんとなくと言われてしまえばそれまでだが、理由があるなら薬剤師らしく科学的に説明してほしいものだ。もっとも彼女はそんなことを話題にもしないのだが。

 そもそも、なんで彼女は自分をここに連れてこようと思ったのだろうか。常連客とはいっても素性のわからぬ男を。彼女はそれも話そうとはしないし、カナトも聴こうとしないので、それもわからないまま。

 いいさ。とカナトはいつも途中でそれについての思考を投げ出す。きっとこれは彼女の気まぐれ。そして自分も何となくその気まぐれに乗ってみた。ただ、それだけだ。深く考えまい。何せ僕は、自分のことしか考えない、感動もできない人間なのだから。落ち着いて勉強できれば、僕はそれでいいのだ。

 だけど、こうやって向かい合っていると時々思う。

 二十八歳の彼女は、今までどんな人生を歩んできたのだろう。どんな人と出会い、別れてきたのだろう。どんなことに悩み、どんなことに喜びを感じるのだろう。もちろんそんなこと、僕にかかわりないことだとはわかっているけれど。

「また、どこかでマンション造ってるね」

 ふと、月影さんが外に目を向けながらつぶやいた。耳を澄ませば確かに、カーンカーンと、金属をたたくような音が遠く響いている。休日の午後の眠たげな光の中で聞くとそれもなんだか牧歌的なものに感じられるが、その音をしばらく聞いていた月影さんはわずかに眉をひそませた。

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