1-6 結朋堂の洋間にて

 結朋堂ゆいほうどうは今日もすいている。

 今日は月影つきかげ薬剤師は非番なのだ。彼女の代わりにカウンターの中にいたのは、バイトの子だった。

 その子は学生だろうか。カナトと同年代くらいの女の子。カウンターに頬杖をついて本を読んでいた彼女は、カナトたちの気配に顔をあげると、口を開けたまま少しの間ぼんやり二人を見つめていた。

岩崎いわさきさん。お疲れ様」

 月影薬剤師が声をかけてようやく我に返る。彼女はあわてて立ち上がり、ショートボブの髪をゆらしてちょこんと頭を下げた。

「お疲れ様です。月影さん。ところで……」

 ちょっと口ごもってから、岩崎さんと呼ばれたそのバイトの子は、レトロな感じの丸眼鏡のレンズを光らせながら困惑げな視線をカナトにおくった。

「ところで、その人は?」

「常連のお客さん。受験生なの。二階使うね」

「カナトといいます。お世話になります」

 カナトがぼそぼそした声で挨拶すると、岩崎さんもまたぼそぼそと聞き取りにくい声で返事をする。

「あ……。えっと、よろしく」

 まだ何か言いたそうにしていたが、彼女の挨拶は結局それだけだった。

「さ。こっちよ」

 月影薬剤師の声に促され、カナトはカウンターの中に入る。読書を再開した岩崎さんの後ろを通り、奥へと続く扉を開くと、冷気が流れだしてきて彼の頬をなでた。

 月影薬剤師に続いて足をその扉の向こうに踏み出そうとしたとき、背後で岩崎さんの声が上がった。

「休憩室の棚に……」

 さっき言おうとしたことだろうか。カナトが振り向くと彼女もこちらを向いて、鋭い目つきで彼を見つめた。

「シフォンケーキがあります。それを食べたら、ぶっ飛ばします」

 りょ、了解です。

 頬をこわばらせながらうなずくカナトを一瞥し、ようやくほっと表情を和らげて、彼女はまた本に視線を戻した。

 カウンターの奥はもちろん初めて入る。

 扉の奥は土間のようになっていて、右側は一段高くなった畳敷きのお茶の間。ちゃぶ台と棚とテレビが置いてある。お茶の間と向かい合った土間の左側に二階へと上がる階段があった。

 階段を上りきった先に待ち受けていたのは、板チョコを大きくしたような木製の両開き扉。その扉を開くと、中にたまっていた光があふれ出て、カナトは思わず目をすぼめた。洋間だ。けっこう広い。店舗部分と同じくらいの広さがあるみたいだ。意外と清潔な白い壁に黒光りする柱の色が映えている。木組みの模様がおしゃれな天井からは、スズランの花のような形の電灯が三つ吊り下げられていた。

 部屋の奥の壁にはアーチ型の窓が三つ並び、そこにかかった白いレースのカーテンが午後の光を透かしながら物憂げに揺れている。カーテンの隙間からのぞくのは桜の枝だ。中央の窓際には大きな木製の丸テーブルが鎮座し、机上の中心に置かれたガラス瓶に小さな花が一本、活けてあった。

「どうぞ。その席つかって」

 窓際のその丸テーブルを指さして月影薬剤師は言い、自分は部屋の隅の小さな角テーブルについた。

「私もここにいていい? 邪魔しないから」

「ああ。どうぞ」

 カナトがぶっきらぼうに答えると、彼女は遠慮がちに微笑んで本を開き、読書をはじめた。もの音ひとつさせずに。その姿を完全に部屋の風景に溶け込ませて。

 時間はあっという間に過ぎた。

 気が付くともう部屋の中は薄暗くなり、窓の外に広がる空は茜色に染まっている。差し込む光も弱々しく、窓ガラスのところどころに浮かぶ橙色の瞬きが、一日の終わりの近いことを知らせているようだった。

 やがて、薄い闇の幕の覆いかけたテーブルにぱっと明るい色彩がもどった。

 みあげるとスズラン型の電灯に柔らかな黄色い光が灯っている。振り向いた先には月影薬剤師の姿があって、入り口のスイッチから手を離した彼女は、一瞬カナトのそれと合った視線を少し下げて言葉を発した。

「そろそろ、閉店だよ」

「ああ。そうでしたか」

 カナトは腰をあげて、テーブル上に散らかしたテキスト類を急いでまとめ、片づけを始める。その間に窓際までやってきた月影薬剤師が、カナトの正面の席に座り頬杖をついた。

「君って……。楽しそうじゃないね。勉強しているとき」

 カナトの胸が一つドキッと鼓をうつ。彼は再び椅子に腰を下ろして、

「お……。大きなお世話です」

「勉強は嫌い?」

「嫌いじゃないけど。テストは嫌いです。緊張するから」

 すると彼女は口の端をあげてささやくように笑った。カナトはその態度にふくれっ面で応える。失礼な。これは結構切実な問題なんだぞ。

「緊張して、おなかもいたくなるんです。薬が必要なくらいなのに」

 抗議の意思を込めて鼻から大きく息を吐くと、月影薬剤師はなだめるように口もとの笑みを広げた。

「深呼吸だよ」

 そう言って、彼女は目を閉じ、ゆっくりと時間をかけて息を鼻から吐き出した。十数秒ほどかけて吐ききってから大きく息を吸い、目を開け、そしてカナトを見て微笑む。

「こうするの。すると副交感神経が優位になって落ち着くわ」

「副交感神経?」

「緊張するのは交感神経が過剰に興奮しているから。副交感神経も働かせて自律神経のバランスを保たないと体を壊すわ」

 そして、得意げに指を一本立てて付け加える。

「まあ、自律神経なんて自分の意志ではどうにもできないのだけれど。でも、長く息を吐くことで副交感神経を優位にすることができるといわれている」

 本当かな。あやしいな。カナトは疑わしげな目つきで月影薬剤師を見る。

「気休めなんじゃないですか。本当にそれだけでよくなるのかなあ」

「疑い深いね。いい薬もあるよ。漢方の薬」

「じゃあ、次来た時にもらいます」

 そして今度はカナトが細い笑いを口から漏らした。

「初めてです。えっと、あなたから……」

「月影、でいいよ」

「月影さんから、それっぽい話を聞くの。ちゃんと、薬剤師なんですね」

 月影薬剤師が一瞬表情を曇らせる。あ、失敗したかな。カナトの胸に後悔の念が生じる。ちょっと調子に乗りすぎたかな。部屋を貸してもらってお世話になったのに失礼だったかな。なにかとりつくろった方がいいだろうか。でもフォローの仕方が分からない。そんなことを考えながら戸惑っていると、彼女はおどけたように舌をちょっと出して見せた。冗談でーす。そう、からかうかのように。

「動揺しちゃって。かわいいねえ」

「ごめんなさい。調子に乗りました」

「いいよ。そんなに偉い大人じゃないんだ。私」

「あ……。ありがとうございます。それじゃあ、僕、もう行きます」

 カナトは胸をなでおろして頭を下げ、立ち上がった。

「今日はありがとうございました。さようなら……」

 扉の前でもう一度挨拶をし、頭を下げる。踵を返して扉の取っ手をつかんだその時、カナトの胸がふと、苦しくなった。

 ここから出ていくと、僕はどうなるのだろう。

 カナトはなぜかそんなことを考える。

 本当に、さようなら? 

 明日からはまた、ただの常連客のひとりになるのだろうか。

 嫌だな。理由はうまく言えないが、そんなのはなんだか嫌だな。

「あ。あの……」

 取っ手から手を離したカナトは振り返り、衝動的に声を発した。テーブルに頬杖を突きながらこちらを向いた月影薬剤師……月影さんが、首をかしげて問うようにまばたきをする。さっき教えてもらった呼吸を一つして、カナトは恐る恐る言ってみる。

「また来てもいいですか。ここに」

 身をおこした月影さんが、きょとんとした顔のままゆっくりとうなずく。

「いいよ。いつでも、遠慮なくここを使って」

 そしてその目が少しずつ、優しげに細められていった。背後の窓に浮かぶ橙色の光の粒が、そんな彼女を囲むようにして無数にきらめいている。その光のひとかけらがカナトの胸に入り込み、明滅しながら落ちてゆく。彼はほっと頬をゆるませてもう一度頭を下げ、扉を開けた。


 結朋堂前の桜の通りにでて坂を下ろうとしたとき、どこからともなく寂し気な音色が流れてきた。あの笛の音のような、いつもの不思議な音楽だ。寂しそうだけど、細く、伸びやかで、美しい音。すぐに聴こえなくなったが、その音の余韻はしばらくカナトの中で瞬きつづけた。結朋堂二階の窓にきらめいていた橙色の残照のように。先ほど胸の中を流れ落ちていった、光の粒のように。



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