1-5 嫌な奴

 土曜日は予備校の授業がないので、カナトは自分のアパートの部屋で勉強している。駅前の丘をひとつ越えた谷すそにある住宅地の一角。坂道の途中の、ちょっと古いアパートの一室だ。裏は丘の斜面で竹林が茂っている。

 このアパートの二階に、カナトは父と二人で暮らしている。だが、彼ひとりでいることが多い。今もひとり。父は今日も仕事だ。毎日、朝から晩まで仕事。休日も勉強会や講演会。家にいてもあまり話しらしい話しをすることはない。朝の挨拶やちょっと言葉を交わすだけ。もっとも、父と息子なんて、そういうものかもしれないが。

 自分の将来のことも、ちゃんと父と話し合ったことはない。カナトは一応医学部を目指していることになっているが、実際医師になりたいのかというとそうでもない。なれそうだとも思っていない。ただ、父や先生の説く「人の命を救う仕事を目指すことは素晴らしいじゃないか」という大義に流されて、なんとなく医学部志望になってしまった。それにカナト自身も反抗はしなかった。そういうものだといわれれば、従うだけだ。ただ、反抗はしないが、納得はしていなかった。だから最近勉強する意味を失いかけている。努力して勉強して、その結果なりたくもないものになるのなら、今していることに何の意味があるのだろう。カナトはだから、知識を得るという意味での勉強は好きでも、受験は嫌いだった。

 母は、彼が中学生の時に病気で亡くなって、今はもう、いない。

 カナトは机から顔をあげて窓外に広がる街の景色を眺めた。この住宅街の家並みを、ここからはよく見渡すことができる。すり鉢のような谷に所狭しと家やマンションが軒を連ね、そこに春の午後の光がさんさんと注いでいる。今日もとても静かだ。鳥のさえずりが聞こえ、羽音が窓外をよぎる。向かいの家の庭の茂みが一瞬ざわめき、裏の竹林のさざめきがそれに重なる。さざめきがおさまったあとは、また静寂が辺りを包む。耳が痛く感じるほどに。アパートの狭い部屋に独りでいると、この静かさがカナトを時々いたたまれない気持ちにさせる。

 カナトは椅子を回転させ、部屋の中に目を向ける。何もない部屋だ。ベッドとクッション。壁際には本棚。本棚の脇に縦長のケースが立てかけてある。以前やっていたヴァイオリンのケースだ。

(たまには風に当ててやった方がいいかな)

 そんなふうに思うが、ここ数年指一本触れていない。

 面倒くさい。いいや。また今度で。そんなことを考えながら彼は立ち上がり、テキストを鞄に詰めると部屋から出ていった。


 駅前のカフェには、昼過ぎということもあってあまり人がいなかった。

 カナトはカウンターでコーヒーとサンドイッチを買って、定位置にしている窓際の奥の席にむかう。白い光の這う小さなテーブルにトレイを置いて座り、一口コーヒーをすすってから、文庫本を開く。気分転換と昼食を兼ねてのカフェでのひと時。彼の趣味の読書タイムでもある。

 読書は趣味のひとつだが、受験にも有用だ。どんな教科でも、文を読解したり回答文を書く力は、やはり読書で身につくものなのだ、と思っている。もっとも読んでいるときはそんなことは考えてはいない。本を開いて文字を追えば、たちまち彼の心は物語の中へと入ってゆく。今読んでいるのは歴史もの。中国の古代のある人物の物語だ。砂塵の舞う戦場の大パノラマが彼の目の前に広がっている。

「よお。カナトじゃねえか」

 甘ったるいねばつくような声に呼びかけられて、空想の空間は霧散し、彼は現実に引き戻された。

 顔をあげると、背の高い目鼻立ちの整った男が彼を見下ろしていた。片方の手を連れている女の肩に馴れ馴れしくまわして。もう片方の手で気障ったく髪をなでながら。

 小学校から同級生だった、聡一そういちだ。友達ではない。親しくもない。なのに何故か時々彼に話しかけてきたものだ。好意からではないだろう。表情や態度を見ればわかる。鼻であざ笑うかのような話し方。口はにやついていても目は決して笑ってはいない。常に上から見下すような視線で、その眉間や頬には時々残忍な影が差す。今も威圧するように胸をそらし、顎をあげてカナトを見下ろしている。

 カナトの腹に、いつもの鈍い痛みがはしった。

「やあ。久しぶりだね」

 内心舌打ちしたいのを我慢して、努めて穏やかにカナトが声をかけると、聡一は大きな声をその語尾にかぶせた。

「お前。浪人したんだってな。ダッセ」

 嘲りをにじませて吐き捨てるように言い、そして彼は笑った。女も一緒になって笑う。やだー、カワイソー。とか全然同情もしていない口調で舌足らずにさえずりながら。

「俺は受かったぜ。K大の医学部。うらやましいだろ」

 聡一は声を低めてそう言い、真顔になってカナトをにらんだ。カナトの反応をうかがうように彼の顔を覗き込む。その眉間と頬にさす影が一瞬残酷な冷気をまとう。やがて満足そうに笑みを浮かべると、彼は女を促して別の窓際の席へ去っていった。

 カナトは本に視線を戻すが、物語の中に戻ることはもうできなかった。自分の顔が熱くほてっている。頭も熱い。頭の血管が脈打っているのが分かる。だけど手先は冷たくて、本を持つ指がふるえている。

 なんで。

 カナトは思う。なんで、お前が僕にそんなことを言う必要があるんだ。

 こみあげる悔しさに耐えようとカナトは歯ぎしりをする。

 さっきの女の甲高い声がする。高校三年の時に聡一が付き合っていたのとは別の女だ。

(女たらしめ)

 聡一は中学生のころから、常に女に関するうわさの絶えない男だった。高校三年間だけで何人の女子と交際していたかわからない。二股、三股とかけていたなんて話も聞いたことがある。中学生の時にはカナトがひそかに思いを寄せていた娘とつきあっていた。彼女は彼の、幼馴染だった。

 聡一の笑い声がする。

「夜景は、ニューヨークのそれが最高だよ」

 気取った、自慢げな声。カナトはえらに力を込める。ギリッと奥の歯が音を立てる。もっと強く。彼は本の紙面を睨みつけながら念じる。強く抑えるんだ。そうでないと、僕は自分が何をしてしまうかわからないから。

 カナトのふるえる手の片方が本から離れ、テーブル上のナプキンを衝動的につかんで握りしめた。その時だった。

 向かいの椅子に誰かが座る気配がした。

 顔をあげると、それは月影つきかげ薬剤師だった。

「やあ、受験生君。今日は読書?」

 当たり前だが白衣は着ていない。今日の彼女はブラウスの上に黄色いカーディガンを羽織って、髪もおろしている。相変わらずの白い顔に黒縁眼鏡をかけているのはいつもどおりだが。でも普段着のその表情は店にいる時よりも幾分柔らかく感じられた。

「ねえ。私もここで本読んでもいい?」

 そう言って彼女は、カナトの返答も待たずに文庫本を取り出し、コーヒーカップを口元にあてながら読みはじめた。セミロングの、少しカールのかかった髪の先が、さらりと彼女の胸にかかる。

「あの……」

 困るんですけど。僕はひとりで勉強したいんです。そう言おうとして、しかしカナトは開きかけた口をつぐんだ。月影薬剤師は難しい顔をして読書に没頭している。なんだかとりつくしまもない。

 まあいいや。しかし何なんだろうこの人は。

 カナトは一つため息をつくとナプキンを握っていた手から力をゆるめた。まだ食べかけだったサンドイッチにナプキンから離した手を伸ばし、もう片方の手で文庫本のページをめくる。

 ほどなくして聡一と連れの女は店から出ていき、それと入れ替わるように四五人の高校生の一団が入ってきてワイワイと雑談をはじめた。

 カナトは文庫本をしまうと生物のテキストを取り出して問題演習に取り掛かった。今日の課題は、進化の分野の苦手を洗い出すことだ。彼はシャーペンを握り、黙々と問題を解いてゆく。

 目の前に座っている月影薬剤師の存在はすぐに気にならなくなった。すぐそばの駅からアナウンスの声が流れてくる。踏切の遮断機の警報音。電車の走行音が遠くで響く。街の雑踏。車のエンジン音。みんな混ざり合って溶けてゆく。

「ねえ」

 彼女から声をかけられたのは、どれくらい時間がたってからだろうか。きりのいいところまで終えて、小さく「よし」とカナトが声を発するのとそれは同時だった。

 視線をあげると月影薬剤師が頬杖をついて彼を見つめていた。いつぞやのように口の端を少し上げただけのほほえみかたで。

「こんな騒々しいところで、よく勉強できるね」

「ええ。まあ」

 憮然と返答して、しかしそれでは少し不愛想すぎるかと、ちょっと間をおいてからカナトは付け足した。

「静かな方が勿論集中できるけど。でも、家も図書館も時々気詰まりだから」

「ふーん」

 月影薬剤師は目を細めて、それから思いついたというふうに姿勢をおこした。

「そうだ。うちにくる?」

「うち?」

「あの店。二階つかってもいいよ」

 カナトは答えに詰まって、月影薬剤師を見つめたまま口ごもった。何だか人の家にあがるのは気が引ける。でも、今家に帰る気にもならないし、図書館はきっと空いた席はないだろう。考えながら彼は周囲に視線を走らせる。さっきまで聡一たちが座っていた席が視界の中に入る。彼らはもうとっくに出ていって今座っているのは別のカップルだが、楽しそうに話す男の表情や口に手を当てて笑う女の髪を見ていると、胸がチクリと痛んだ。店内に充満するざわめきが急に耳元に押し寄せ、息が苦しくなった。

「ここより落ち着いているよ。変な人もいないし」

 そう言って、彼女はフフフとささやくように笑った。いやな笑い方ではなかった。乾いた肌を潤すような、優しい声だった。カナトを見つめる黒縁眼鏡のレンズの向こうの目も、その声と同じ柔らかな光をたたえていた。

「きなよ。おいしいお菓子もあるよ」

「僕は子供ですか」

 思わず言い返してから、カナトはハッとして口をつぐみ、そして頬をゆるませた。いつの間にかすこしだけ軽くなっている自分の気持ちに気がつく。

「じゃあ、お邪魔します」

 胸に沸いた気安い気持ちに後押しされるように、カナトはそう返事をした。行ってみてもいいような気がした。聡一と会った後の殺伐とした心をこのように和らげてくれる世界が、ひょっとしたらそこにはあるのかもしれないと思えたから。

 月影薬剤師は満足そうに一つうなずくと、バッグを肩にかけてさっそく席をたつ。鞄に急いでテキストを詰めたカナトは、彼女の後にしたがって店を出た。

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