1-2 不愛想な薬剤師

 その女の人には、なかなか追いつくことができなかった。

 走っているわけでもないのに、やたらと足が速い。様々な方向に流れる大勢の人に遮られて、なかなか差を縮めることができない。 

 人とぶつかりそうになりながら改札を抜け、階段を駆け下り、駅前に出てもカナトは追いつけない。彼は必死にに足を動かしつづける。とにかく急いで彼女に追いつかなければ。見失ってしまったら大変だ。あの鞄の中には大事なテキストやノートが何冊も入っているのだから。

 黒い髪をコスモスの飾りのついた髪留めで縛った女の人。彼女を追ってカナトは普段は行かない方角へと足を向ける。

 カフェ。菓子屋。銀行……。それらを横目に見ながら人の間を縫い、駅前の商店街を抜ける。後ろで縛った黒髪を見失わないように。コスモスの髪留めを見失わないように。いつの間にか住宅も途切れ、たどりついたのは線路沿いの坂道だった。片側はうっそうとした雑木林で、若葉の生えたケヤキや竹の枝がゆっくりゆれている。坂道の上には、線路側の道端に三本の桜の老木がたたずみ、桃色に染まる大きな枝から、午後の陽に輝く花弁を路上に散らしていた。

 その坂を、女の人はどんどんのぼってゆく。そして彼女は坂の上でいったん立ち止まり、雑木林の方に姿を消した。

 彼女の目的地はどうやらあそこにあるようだ。あともう少し。そう自分を鼓舞して、息を切らしながらカナトは坂をのぼった。

 坂をのぼりきると、道はそこで終わっていた。この丘の向こう側は人の立ち入れない緑地のようだった。

 坂の上にあったのは、古めかしい建物だった。

 桜の木の、道路を挟んで向かい側に、周囲を雑木林に囲まれてぽつんと一軒、静かにたたずんでいる。

 店先におかれた木製のベンチに老人がひとり座っていた。彼は桜の枝を見上げながらラムネをちびちびと飲んでいたが、カナトに気が付くと、長く垂れた白い眉をさらに垂らした。

「やあめずらしい。お客さんか」

 カナトの上気した頬が少しこわばる。ひょっとして、怪しい何かではあるまいか。

 しかし老人からは少しも人を忌避させるものは感じなかった。彼はカナトの緊張を察すると、それをほころばすように笑った。誠実な笑い方だった。

「ここは薬屋じゃよ。薬屋、結朋堂ゆいほうどう」 

「あの……。女の人が、ここに入っていきませんでしたか」

 かすれた声でカナトは問う。歩き続けて、坂も上って、のどがカラカラだった。

「ああ、入っていったよ。ラムネも、あるよ」

 カナトは老人に礼を言って、店の戸を開け中に入った。

 小さな薬屋の店内には他に客の姿はなさそうだ。内装もかなり年季が入っている。いったいいつからあるんだろう。そんなことを考えながら、カナトは左右の棚に並ぶ日用雑貨に視線を向けつつカウンターへと向かう。あ、そうだ。下痢止めも買おう。不安と緊張に襲われたので、少し腹に痛みを感じていたのだ。途中適当に手にした清涼飲料水をカウンターに差し出しながら、彼は中の人物に言葉をかけようとする。

「これと。あと、すみません。えっとここに女の人が……」

 カウンターの中の人物に声をかけながら顔をあげたカナトは、言いかけた言葉を飲み込んだ。こちらに背を向けて薬の棚を整理している、その人物の髪を束ねる髪留めには、コスモスの飾りがついていた。

 カナトの声に反応して、その人はけだるそうに振り返る。若い女の人だ。黒縁のメガネをかけて黒い髪を後ろで束ねた、色白の、無表情な若い女の人。

「えっと、リュックを……」

 自分が今手にしているリュックを掲げて見せると、彼女はきょとんと首を傾げ、少し間を開けてから「ああ」とうなずいた。にこりともせずに。何だか無関心な表情で。眼鏡のレンズを光らせて。

 何か言葉をかけてくれてもいいだろうに。よく店員が務まるな。そう思いながら名札を見ると、そこには薬剤師と書いてあった。「薬剤師 月影静乃」。……「つきかげ しずの」と読み仮名がふってある。

 彼女はいったん奥に姿を消し、すぐにカナトのリュックを持って戻ってきた。

「どうりで重いと思ったんだ。ごめんね。ありがとう」

 たいして悪くもありがたくも思っていないような調子でそう言って、リュックをカナトの差し出したそれと交換する。

「いえ。いいんです。あと、これください」

「はい。百四十円です。ありがとうございましたー」

 機械的にそう言って、彼女は淡々とレジを打った。

「袋。入れますか?」

「あ。いいです」

 あ、あと、薬も……。

 言おうとして、しかしカナトは彼女にそれ以上声をかけることができなかった。ちょっと下に向けられた彼女の視線は、もうカナトには向けられていない。

「どうじゃった静乃しずのちゃん。映画は?」

 入り口の戸の方からした声に、ようやく彼女は視線をあげた。カナトも振り返る。店の中に入ってきた先ほどの老人が、杖をつきながらカウンターに向かいつつ、にこやかにきいてきた。

「今日の午前はそれで休みを取ったんじゃろ。今日が最終日だからと、あのバイトの娘に誘われて。ほれ。なんじゃったっけ。今話題の青春映画」

「ああ。あれですか」

 一瞬視線を宙に泳がせた月影つきかげ薬剤師は、ため息のように言葉をこぼす。

「岩崎さんには悪いけど、死ぬほどつまらなかったです」

 

 薬屋を出たカナトが駅前のカフェで勉強をし、家への帰路についたときにはもう夕方になっていた。

 谷筋の住宅街の桜並木を歩いていると、淡いピンクの桜の花びらが、幾片もカナトの顔に降りかかった。頭上には、柔らかな暮れ時の光を散らして揺れる桜の枝。それを見上げながら彼は、あの薬剤師の声と言葉を思い出す。

 袋、入れますか?

 死ぬほどつまらなかったです。

 不愛想な奴。でも、嫌な感じがしなかった。それどころか、なぜかほっとした。意外と優しげな、ちょっと甘く、ふるえ気味な声。

(薬、買えなかったな。また今度、行ってみようかな)

 そんなことを考えていたとき、ふと、どこかから笛の音のような音楽がきこえてきた。

 まただ。

 カナトは立ち止まって耳を澄ませる。去年あたりから夕方になると、この街の辻々に、寂し気な笛の音がどこからともなく流れてくるようになった。

 音はすぐに消えたが、疑問は彼の胸に残った。あの音楽を聴くたびに、花が降り積もるように少しずつ、胸に積み重なっていった疑問。

 誰が吹いているんだろう。どこで吹いているんだろう。

 薄桃色のたそがれどきの大気に沈みはじめた風景を見渡しながら、漠然とそんなことを考えるカナトは、ふとこの街に伝わるある昔話のことを思い出した。


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