ちょっと未来のあなたと

久保田すこし

第1章 不思議な薬屋

1-1 泣けない少年

「おい。彼女、今日が最後の日だろ。見送りに行ってやらないのか」

「……」

「あんたたち仲良かったじゃない。行きなよ」

「……いいよ」

「彼女は喜ぶんじゃない。きっと待ってると思うけど……」

「でも、そんなことしたって、意味ないよ。彼女が戻るわけじゃないし……」

 沈黙するクラスメイトを押しのけて彼は机に座り、窓の外を眺める。そんな彼の背に、クラスメイトの声が投げつけられる。

「あんたって、本当に冷めてるよね。つまんない人」

「お前って、自分のことしか考えていないよな」



 轟音に夢を破られて、カナトはハッと顔をあげた。

 大勢の人間がいるだけで醸し出される騒音。

 車輪の振動。

 ブレーキの音。

 駅に着くたびに流れるアナウンスと列車のドアの開け閉めの音。

 そしてそれに続く人の出入りの気配……。

 吊革をつかんだ手に力を込めて崩れそうになる姿勢を保ちながら、カナトは片方の手に握りしめていた参考書のページをめくった。

「……この和歌の作者は伊勢。彼女は中宮温子に仕えた女官で……」

 ぶつぶつと文章を口ずさみ、しきりにページをめくって独り言をつぶやく。目の前に座るサラリーマンが眉を顰めるが、見えないふりをする。そんなことを気にしている暇はない。この後は文法の再確認。古典単語も暗記カードでチェックだ。

 ちょっと息をついて顔をあげると、窓の外に流れるビルとマンションの風景が途切れた。ああ今、川を渡っているな。あと二十分くらいはできるな。大丈夫。今年は大丈夫。寸暇を惜しんで勉強すれば、今年はきっと大学に受かる。

 カナトは単語の暗記カードを取り出しながら、言い聞かせるように胸の中でつぶやく。勉強することは好きだ。昨日知らなかったことを今日は知ることができる。分からなかったことが分かるようになる。その知識と経験が自分の中に積み重なっていく感覚が心地よいから。勉強で得た知識は逃げてゆかない。知識は僕を責めたりしない。勉強を続けている限り、知識は僕から離れていったりしないから。

「ねえねえ。あの映画観た?」

「観た観た。ちょー感動したよね。私、泣いちゃった」

「私も。やばいよねー」

 背後の女子高生の二人組のさわがしい話し声が耳に入り、カナトは思わず顔をあげた。座席の上に張られた映画の広告がはからずも視界に入る。

『この春、きっとあなたは、切ない恋に涙する』

 今しきりに宣伝している映画だ。僕も観たぞ、とカナトは心の中で話しかけてやる。つまらなかったじゃないか。どこが泣けるんだよ。

 彼はついさっき新宿のシアターで観た映画の一こまを思い出しながらため息をついた。つまらない映画だった。ありきたりのハッピーエンドの物語。ちっとも泣けはしなかった。感動しなかった。感動することが、できなかった。周囲の人々はみな泣いていたのに。その中で自分だけが冷めていた。

 何かに感動して涙をこぼしたのは、いつが最後だったろうか。

 謳い文句につられて入ってしまったシアターのスクリーンをぼんやり思い出しながら、彼は記憶をたどろうとする。

「あんたって、本当に冷めてるよね。つまんない人」

「お前って、自分のことしか考えていないよな」

 中学生のころ、クラスメイトから言われた言葉がふいに胸をよぎる。幼馴染が遠く四国へ引っ越してゆく日、見送りにもゆかずに一日中教室の机にかじりついていた彼に投げかけられた言葉。そうだ。あの時だ。カナトはふいに思い出す。あの時、雲一つなく晴れ渡った空を見上げて、僕は一筋だけ涙を流したんだ。母を失って、わずか二カ月後のことだった。

 桜の花の舞う広告を見つめながら、カナトは思わず自嘲する。

 僕はもう、泣くことができない。本や映画を観ても、感動することを拒否してしまう。僕はいつの間にかそういう感情を捨ててしまった。だって、つらいじゃないか。ふられたり、別れたり、失ったり……。その感情のせいで苦しむのなら、何も感じない方がいい。僕は去る人を追いかけたりしない。追っても、虚しくなるだけだから。

 誰かのことを考えて悩んだり、苦しんだり、傷ついたり……。そんなことはまっぴらだ。友達も、恋人も、いなくたっていい。そんな余裕は今の僕にはない。僕は僕のことで精いっぱいだ。

 そう。今は勉強をしなくては。そうでなければまた、「桜散る」なんて不合格通知をもらってしまう。今は街中が花盛りで浮かれているけれど、自分にだけは咲いていない。

 目の前を流れる風景が途切れ、窓外が灰色一色になる。

 トンネルだ。これを抜ければすぐに電車はカナトの住む幸ノ丘学園ゆきのおかがくえんに到着する。

 電車がスピードを緩めながらホームに流れ込む。

「幸ノ丘学園前~。お降りの際は、お忘れ物に……」

 アナウンスとともに扉が開く。

 ぎりぎりまで古典単語の暗記をしていたカナトは、単語帳を閉じながらあわてて足もとに置いたリュックを拾い上げホームに降りた。


 カナトが異変に気づいたのは、ホームの階段をのぼりながらテキストをリュックに入れようとした時だ。

 リュックの中からファンデーションがでてきた。なんで僕のリュックにこんなものが? そう首をかしげながらリュックをしげしげ確認してみると、チャックにつけていたはずの金閣寺のストラップが付いていない。代わりについていたのは、不細工なペンギンの人形だった。

(しまった。ひとのと間違えた!)

 一緒に降りた人だろうか。彼は立ち止まり周囲を見渡す。額に冷や汗が浮かべながら。だれか。だれか僕のを持っていないか。僕はあなたのを持っているよ。

 ふと、同じリュックが視界に入る。階段を今上り終えようとしている女の人の背中。チャックに金閣寺のストラップがゆれている。

「待ってください!」

 カナトは彼女を追って階段を駆け上った。

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