第82話 閑話 月夜の美酒
静かな夜空を仰ぐ人影が一つ、そこにあった。
精悍な顔つき、
その男——クレイウス・アグドノイアは、窓から望める美しい満月を見ながら、静かな晩酌のひと時を堪能していた。
理事長室の窓は、とても大きく作られていて、昼であれ夜であれ、空の光をしっかりと取り入れることが出来た。実は数十年ほど昔の校舎の再工事の際に、クレイウスが頼んだものだったのだ。
元々夜空を見渡すことが好きだった彼にとって、そこは楽園のひと時を味わえたのだが——先の激戦でほぼ完全に倒壊してしまった。
新校舎の図面を書き起こすのはアルーゼが請け負っているので、その大窓が再び見られるかは定かではない。だがそこまで気を回せるような人間でもないので、絶望的だろう。
そして恐らく、いや間違いなく、何かを企んでいるだろう。そんな予感のするクレイウスは、窓辺の注文も諦めた。
元々緊急時で多くの貴族から融資を募っている状況で、無駄な出費を嵩ませることは賢いとは言い難い。
そんな訳なのでクレイウスは、慣れ親しんだ場所での最後の月見酒を堪能すべく、瓦礫の山に腰を下ろしているのだ。
不意に、後方から魔力の流れを感じ取った。気配も足音も完全に消し去っているが、敵意は感じない。
これは、暗殺者が行動を起こす際のものだが、そこまで念入りに消しているわけでもない。つまり、獲物を狙っているわけではない。
加えて、魔力の流れを隠していないあたり、本気で隠れようとしているわけでないのは明白だ。
となれば、自ずと答えは出てくるわけで。
「どうしたんだい、イデア? 気配を殺しながらやってくるなんて」
死角に隠れる自身のメイドに、優しく声をかける。
「あら。バレてしまいましたか。やはり私の《陰踏》は大分鈍ってしまったようです。よよよ……」
軽口をしつつ、酒瓶を持ってやってきた。自慢のメイド服ではなく、最近クレイウスが買ってやったラフな私服を纏っている。
仕事で酌に来たわけではない様子だ。となると、酒を持ってくる理由ならば一つだけ。
「どうだい、一緒に一献。今宵の満月は絶景だよ?」
「ええ、頂きます。今宵は私も、少々酔いたい気分でしたので。ご相伴に預かります」
そう言って、彼女はクレイウスの隣に腰を下ろした。
その右手に握られた酒瓶には、見慣れない文字の書かれたラベルが貼られている。
クレイウスは、興味半分で問いかけた。
「それ、なんて書かれているんだい?」
「これですか? 私もよくは知りませんが、確か『虎ころし』と読んだはずです」
そこに書いてあったのは、完全な日本語だった。もちろん、二人がそれを知る由もない。
「よく知らない? それ、帝国産の酒だろう?」
「これは皇室で飲まれているお酒で、確か製造を一任されている酒蔵があります。このラベルの文字は、『皇与文字』と言って、皇帝陛下がお認めになった証でもあります。帝国で用いられる言語は、ここと同様にレヴィアス語ですよ」
もちろん、クレイウスがそれに興味を持つはずはない。ただ、アルーゼなら面白いと思うのではないかと、クレイウスが気を利かせただけである。
ともあれ、イデアは酒瓶を軽く傾け、小さなグラスに入れると、コクリと一口飲んだ。クレイウスもそれに続くようにグラスを傾け、氷によって冷えた酒を流し込む。
初夏も近い今日この頃、まだ少しだけ寒さの残る夜風が二人を擽る。月光に照らされる中、イデアが慎重に口を開いた。
「あの……クレイウス様は、私が帝国の生まれだと知って、どのように思いましたか?」
「うん? どう思ったかだって?」
イデアが頷く。
王国の北方、アウローン樹海を抜けた先に存在するリーンガルド帝国は、非常に強固な中央集権国家だ。
帝政を敷き、独裁政権を擁立しながら、他国とは武力で張り合うというスタンスで長らく君臨し続けている。しかも帝国内でも、皇帝本人の姿を見た人間はほとんどいないといわれ、かなりの圧政が敷かれている、と予想されている。
厳密には、フレイヴィール王国とはほとんど国交を持たないため、国情がどうなっているのかは商人たちから伝え聞く程度である。
そして、王国内での帝国民へのイメージは、まさに最悪の一言に尽きる。暴力的、短絡的といった、粗暴なイメージが根強い。
それを気にして、神妙な面持ちになっているのだろうが……。
「アハハハハハハ!」
高らかに笑い飛ばした。その反応は予想外だったのか、イデアが言葉に詰まる。
それを見て、クレイウスが続ける。
「いいかい? 自分よりも弱い人間に、恐怖なんかを持ったりはしないよ」
恐らくアルーゼも、同様の回答をするのだろうな、と思いつつ、グラスに酒を移す。
「帝国生まれ? 暗殺者? それの何が悪いんだい? そんなことは、僕は気にしないよ。
恐怖とは無知への嫌悪から生まれる。だからこそ、僕が君を恐れる理由は何もない。何しろ僕は、帝国人と言う未知であっても、それに恐怖する道理がないからだ。生まれも育ちも関係ない。大事なのは、今の君だろう?」
さも当然のように語る様に、イデアは唖然とした。
クレイウスたちにとって、帝国人だから危険、とはならない。危険なのはむしろ自分たちの方なのだから。
だからこそ、どう思ったかと問われれば、返す答えはただ一つだ。
「『ああ、そうだったのか』。何を思ったのかと問われるならば、これ以外には存在しないよ」
ぐいっ、とグラスを呷る。月光に照らされながら、ロックのウィスキーを流し込む姿を、イデアはまじまじと見つめた。
先の戦闘時、信じ難いほどの膨大な魔力をその身に宿し、時を司る神の如き魔法を振るう様は、圧巻の一言だった。
昼にアルーゼと話した際には、自身が負けたように話していたが、イデアからすればそうは思えなかった。
最後の《
敵の異能によって受けた幻惑の中、完全な直感だけで、自身以外の空間全てに魔力を放出し、時間の壁を作り出したのだ。
壁自体は時間が停止し、あらゆる変化の影響を受けず、そして敵に防御がバレないよう、自身だけは攻撃を受ける。つまり、夢の中から自分の体を動かすということをやってのけた。
衝撃によって、イデアの幻惑は解け、しかも無傷で守り抜いた。
そんなことを為せる人間など、一体何人いると言うのだろうか? あの咄嗟の状況で、無理やりに肉体を動かすなど、およそ人の成すものではない。
アルーゼならば、ゼルクレアの魔力で催眠など意味を成さないのだが、ゼルクレアについてはイデアは知らされていない。そのため彼女からすれば、クレイウスの行った行動は、自身の理解の範疇を軽々と超えてきていた。
それに、敵の策にはまったというのは、それだけ敵が念入りに準備してきたということだ。
クレイウスの《時詠の魔眼》は、「未来を先読みする」ものではなく、「未来に自身の目で見る光景を先に見る」というものだ。
そのため、クレイウスの見た未来の光景は、幻惑にかけられた状態のクレイウスが見る光景だったという訳である。
つまり敵は、クレイウスの《時詠の魔眼》を最も警戒していた訳だ。これほど悪魔たちから警戒を向けられるのは、本当に人間なのだろうか?
一体何が、クレイウスを強くしたのか。イデアがそれを知る由はない。
だが。
「クレイウス様。私を、ありのままの私を受け入れてくださり、ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。僕の成すことは僕が決めるだけ——」
そこで、クレイウスの言葉が止まる。
振り向くと、イデアがグラスを持っていた。月光に美しく映える彼女の姿は、とても優美で、思わず見つめてしまうほどだった。
グラスを掲げる意味を察し、クレイウスもグラスを持ち上げる。
「まったく……。とりあえず、先日の戦いの勝利と今宵の月に、ってことで」
「ええ。乾杯」
カチン、と小さな音を立て、二人はグラスを打ち合った。
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