第80話 巨悪胎動
堂々と、自らの生存に唖然としているサイラスの前へ、クレイウスは無防備に歩み寄る。
サイラスの足元には、《
理解不能なクレイウスの能力を警戒しながら、サイラスはジリジリと後退していく。
「君の今の攻撃——《
納得した様子のクレイウスに、サイラスは額に汗をかきながら、懸命に抵抗を見せる。
「たった一撃を見ただけで、僕の攻撃の原理を見切ったとでも?」
「あぁ、見切ったとも。君の今の攻撃は、斬撃の直前という時間軸に存在する自分に時間を固定して、今に遡行したんだろう?」
サイラスが目を見開いて停止する。それだけで、クレイウスの見切りが正しいものであることの証明になる。
そこで更に、クレイウスが追い討ちをかける。
「付け加えるのなら、僕を斬ってからの時間軸で遡行しなかったのは、おそらく能力上の都合なんだろうね。斬撃によって相手の時間軸に乱れが生じれば、恐らく時間流に上手く乗れずに遡行が困難になるのかな?」
「——ッ!!!」
悔しげな表情を浮かべるサイラスが、クレイウスを睨みながら問いかける。
「……なら、貴方のアレは一体何なのです? 二人のクレイウス・アグドノイアが同じ場所に存在しているなんて、あり得ないはずでは?」
「あり得るんだよ。何故ならアレは、僕であり僕でないからだ」
パチン、と指を鳴らすと、そこに頽れていたクレイウスの死体が消滅する。跡形もなく、まるでそんなもの無かったかのように消えてしまった。
「《
無茶苦茶だ。
その場にいた二人が思ったことは、それだけだった。あるいはアルーゼならば理解できようが、サイラスたちにすればあり得ないことを平然と口にしている。
同一世界上に存在する無数の並行世界から、特定の事象があり得た未来の自身を結果として入れ替える。
爆弾に例えるなら、爆発した爆弾と入れ替えることで、「その爆弾が爆発した」というようなもの。
だが、原理は同じでも、簡単に口にできるようなものではないのだ。
「貴方……それはまるで、自分で自分を殺しているようなものですよ!?」
それが、自分とは異なる存在だと言い張ることはできるだろう。
だが、それでも彼が身代わりにしたのは彼自身なのだ。
およそ通常の人間には理解出来ない感覚。だがクレイウスは、堂々と答えた。
「それがどうかしたのかい?」
その反応には、絶句しか浮かばない。
超然とした合理主義。戦いに勝てるのなら、どれだけ自身を犠牲にしようと構わないという、死すら恐れぬ超越した視線。
そこにいるのはまさに神。神羅万象を俯瞰し、人並外れた実力と精神を持ったモノ。
およそ人の理解から外れた、人の形を模した何か。一切の無駄を排斥する合理性の塊。
クレイウス・アグドノイアとは、そういったものであることを、サイラスは知ることとなった。
しかし——
「フヒッ、アハ」
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
糸の切れた人形のように、壊れたような乾いた笑いをあげた。
怖気の走るその声に、クレイウスの顔に歪みが生まれる。その不自然な反応に、得体の知れない恐怖を覚えたからだ。
「何が可笑しいんだい? 君が笑うようなところはなかったように思えるのだが」
「アハハハ……いえ。とても滑稽に思ってしまったからですよ」
「滑稽? 道化に徹し、王宮からも雲隠れし続けたサイラス・クライス伯爵の仰ることではないと思うのだがね?」
「いえいえ。むしろそれ故に、僕は笑わざるを得ないのです」
呼吸を整えながら、ようやっと嗤いを鎮めたサイラスは、冷ややかな笑みを浮かべた。
「自らを犠牲にすることは、時に美徳と揶揄されます。それは、自らの力を信じ切っている証なのだから」
「何が言いたい?」
「実に愚かだということですよ、クレイウス・アグドノイア。貴方は、自らの力を過信するあまり、あっさりと僕の罠に嵌った。ハハッ、まったく……」
そう言って、額に手を当てて天井を見上げる。
「貴方相手に時間稼ぎなんて、皮肉にも程があるでしょう?」
「——ッッッ!!! 小僧ッ!!!」
全てを理解したクレイウスが台座を見るも、そこにはめられていたはずの《櫃石》は既に、そこには無かった。
首を振ってサイラスを振り返れば、そこには妖艶な美女が一人、彼の肩に寄り添うように飛んでいた。
「守備よく事を運んだか?」
「当たり前じゃない。あの御方に重用されているからといって、あまり調子にのらないでもらえないかしら?」
サイサスの確認の言葉に、女は憎らしげな表情を浮かべて反論する。
側頭部から小さな角が生え、エルフのように鋭く尖った耳介。背からは体格に比例して小さめな蝙蝠の羽を生やし、空中に存在している。黒を基調とした露出部の多い服装から溢れでるような肉付きだが、その瞳は猫のように縦に伸び、その色は紫紺だ。
そしてその右手には、青く輝く八角形の宝石が握られている。
「《
「あら。たった一瞬幻覚であることを理解しただけで、もう見えるようになるだなんて……折角の美丈夫が台無しよ?」
《
この異常な瘴気は、呼吸によって体内に運ばれると、意識、理性、認識を乱し、一つの催眠状態にしてしまう。
「ただ、貴様の《
「あら。私を普通の《
そう口にした途端、空間に突如穴が開き、そこからドス黒い瘴気が吐き出され始める。魔界の門だ。
サイラスと《
「覚えておきなさい。私の名はレイチェル・アーデリッヒ。《
サイラスは、その自己紹介を聞き届けると、さっさと門の中へと入っていく。
「待て!」
その様子に、クレイウスが慌てて飛び出そうとする。
しかし——。
「足が、動かない……!」
「ああ、忘れていたわ」
その様子のクレイウスたちを見て何かを思い出したのか、レイチェルがくるりと踵を返す。そして左の手を翳すと、笑みを浮かべた。
「さようなら。できれば金輪際会いたくないわね」
レイチェルの手から、膨大な魔力が発射される。咄嗟に結界を発動しようとするも、先ほど同様に全く動かない。ガードをとろうにも、その体も全く動かなかった。
そして二人に、紫の光が降り注いだ。
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