5. 遺されたのは
せっかくの休みを潰されたと吐き捨てた淳士は、妹が呼び止めるのも聞かずにアトリエから出て行く。
即座にエンジン音が部屋まで響く行動の早さでは、桂木も肩を
兄が怒るのは当然だと、誰に話すのでもなく恵が擁護した。
芸術以外を
「屋敷を売ってくれる業者を探します。家が作品だと言っても、価値は変わりませんよね?」
「屋敷は舞台です。作品ではない」
「え?」
「一階へ移動しましょう」
歩き出した矢崎の後を、怪訝な面持ちを浮かべつつ、恵と桂木が追う。
階段を下りたところで、矢崎は椅子を持つように桂木へ指示した。蓮周が踏み台に使った丸椅子だ。
「この丸椅子はアンティークでもない、無骨な造りだ。屋敷には似合わないし、第一大人が座るには座面が小さい」
「だから踏み外したんだろうが……。椅子じゃないのか?」
「用途も気になるけど、どこから持ってきたかが重要なんだ」
廊下を進んだ矢崎はキッチンへ入り、皆へしゃがむように言う。
目線を丸椅子の高さまで下ろした二人へ、彼がヒントを出した。
「食器棚。隙間にあるだろ?」
「……あっ、穴が!」
先に見つけたのは、恵だった。
そうと知って探さなければ見逃す、極小さなピンホール。
片付けられた皿とカップの間に、穴の空いた壁が覗く。
「アトリエには箱があり、鏡とガラス板もあった。天板としてガラスを
「瑛は和紙で代用したわけだ」
「そう。なのに、カメラ・オブスクラを作るには大事なパーツが一つ足りない。これが矛盾だ」
桂木たちにも、矢崎の言いたいことが分かった。
矢崎製なら黒く塗った厚紙――それと同じ役目を果たす、穴の空いた板材が必要なはずだ。
「恵さんには悪いが、喜瀬蓮周は金に頓着しない人物だったようです」
「事実ですから、怒りませんよ」
「彼はフェルメールを具現化するのに、何部屋も試行錯誤を繰り返した。アトリエは失敗作なんです」
窓や入り口の位置を計算して改装しても、出来映えが気に入らなかった蓮周は舞台に選ばなかった。
家財の中途半端な配置具合が、その説を裏付ける。
唯一、ほぼ完璧に仕立ててあったのがキッチンだった。
「ここが舞台の完成形だ。モデルとした人物に気づかれないように、隠し穴で観察したんでしょう」
本来は食堂であったのに、現在のキッチンはやや狭い。これは間取りを変更したためだと、矢崎が壁をコンと叩く。
妙に軽い打突音は、壁厚が薄いことを示していた。
矢崎に連れられ、今度は隣の書斎へと移る。
改めてキッチンと区切る壁を見れば、確かに本棚が前に迫り出しているように感じた。
本棚は前後二重の構造で、手前の棚はスライドさせて動かせる。
とっくに見当をつけていたらしい矢崎は、左端の棚のロックを外して右へ引いた。
ポッカリと開く暗い入り口が、本棚の奥に出現する。
「隠し部屋か!」
「かなり狭苦しいけど、ここが本当のアトリエだよ」
入ってすぐの壁にあったスイッチを入れると、裸電球が一つ頭上で点いた。
畳を縦に三枚並べたくらいの細長い部屋だ。中程で壁の穴が光り、その下にアトリエで見たのと同型の箱がある。
「箱は最初から一面が無かった。壁にくっつければ、機能するからね」
「あの丸椅子は、じゃあ――」
「箱を乗せる台だな。電球が切れたと知った蓮周が、咄嗟に思い浮かべた
話す二人の脇を抜けて、恵は箱の奥へ進む。
腰を屈めた彼女は息を詰めて、イーゼルに立てられたキャンバスに見入った。
後ろから矢崎が静かに話し掛ける。
「それが正真正銘の遺作です。見たところ、未完成で描き込みが甘い」
「母です。朝ごはんの準備をしてる」
「フェルメールも、こうやってカメラ・オブスクラを利用して描いたと言われています」
十七世紀オランダの画家は、克明かつ正確な描写を実現するために、カメラの元祖を活用した。
民衆の日常を静寂な筆致で描き、後年のヨーロッパ画壇に大きな影響を与える。
「この絵は確かに、フェルメールの特徴をよく表している。しかし、完成していない上に模倣とも取られかねない。美術的な評価は得にくいでしょうね」
「そうですか……。でも」
この絵は好きだと、恵が
どの父の絵よりも、おそらく他のどんな絵よりも。
桂木は不思議そうに首を捻った。
「奥さんが亡くなって二年も経つのに、ずっとここで描いてたのか?」
「蓮周には見えてたんだろう。一生を画業に捧げた画家だからね」
「そんなもんなのか」
やはり屋敷は売るものの、絵は手元に置きたいと恵は申し出た。
桂木や矢崎が許可するような話でもなく、実際に彼女が引き取ることだろう。
矢崎が額装を請け負う職人を紹介し、それをメモすると彼女も玄関へ向かった。
「最低な父でした」
「ボクからは何とも」
「だけど、誇りに思ってもいいのかもしれません。絵を見ていれば、許せようになるでしょうか?」
「誰にも答えられない質問です」
恵はそれ以上喋らず、何かを考え込んだまま矢崎たちへ頭を下げる。
軽自動車で去る彼女を見送ったあと、背伸びをした桂木が、からかうような口調で感想を述べた。
「瑛らしいけどな。もう少し気の利いたアドバイスは出来なかったのか?」
「人を直すのは、ボクの仕事じゃない」
「そうかよ。ま、昼飯にしよう」
ポンと矢崎の肩を叩き、桂木は自分の車へと歩み始める。
歴史を刻んだ洋館も、いずれ取り壊されるであろう。
少しの間、屋敷を見上げたあと、矢崎も友人の背を追いかけた。
了
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