ただ小銭のために
マーケット・メレイアのオープンから間もなく、ルーイン商会の若き会頭を迎えたのは、夢にまで見た“アタシのお店”だった。
繁華街から離れた隠れ家的な場所。小さいけど居心地が良くて、品数は少ないけど飛びっきりの物だけをお出しするの。前世からずっと思い描いていた理想が、ここにある。
「いらっしゃいませ、ルーイン会頭。あなたは我が“
「光栄です。本日はお忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
「とんでもない。
「もしかして、国外との商取引は
「それはそうよ、
◇ ◇
巨大な市場を開くにあたって、まず
商品はある。価格も決まっている。販売員も調理担当も揃えた。加工や展示や提供の準備も済んだ。でも、お客さんからお金をもらって、釣銭は?
魔王領には、王国貨幣の手持ちがない。一見さんや振りのお客さんに、ツケなど論外。値段ちょうどの支払いでしか買えないのも話にならない。一応仮にも水商売経験者として信じられないほどの有り得ないミスだ。
「レイチェルちゃん、鹵獲品のなかに帝国貨幣があったわよね」
「魔王城に保管してありますが、そのまま使うわけには」
「わかってる。あれを全部、すぐこっちに運んで」
商取引で帝国貨幣など出せば、客である王国民から魔王領が帝国経済圏にあるという印象を持たれてしまう。行軍用に嵩張らないよう高額貨幣ばかりで釣銭として使えないというのもある。そして何より単純に、釣銭が外国通貨などお客さんが困るだろう。
「パット、出番よ大至急!」
「はいはーい?」
アタシは急遽王国にパットを向かわせた。幸い国境城砦での補給業務を終え王都に戻るところだったルーイン会頭を確保、メレイアでの面会を取り付けたのだ。
「緊急に両替をお願いしたいの。期限は3日、可能な限り小額硬貨中心でね。こちらの支払いは帝国の金貨と銀貨。帝国軍からの鹵獲品で、額は750とちょっと……単位は知らないけど」
「ケアンズです。王国通貨クラウンとほぼ等価ですね」
自然に話しながら考える素振りもなく、ルーン会頭はあっさり結論に達する。
「ご用件はわかりました。それは、商用準備金ですね?」
「その通りよ、お恥ずかしい話なのだけど。受けてくれたら今回の手数料はお任せでいいわ。保証金として、いま半分までなら渡せる。そちらさえ良ければ、今後も王国通貨の取引はルーイン商会を通すわ。その際の手数料は10%が上限。メレイアで任意の商材2件について、最優先交渉権も付ける。……どう?」
「硬貨を集めること自体は、簡単です。額は大きいですが、商人なら……いえ、目端の利いた人間なら誰にでも出来ます。問題は時間と、王国政府との交渉ですね」
「それは……ええと、金銀の流出? でも今回の場合は逆よね」
「ええ。金貨と銀貨が入ってきて、銅貨が出て行く。それ自体は問題とされませんが、その額と
「
「ご依頼、お受けいたします。紹介状はありがたく使わせていただきますが、保証は不要です。手数料は今回も10%で結構です。遅くとも2日後にはお持ちいたします。引き渡しはそのときに」
「いいわ、お願い」
「では急ぎますので」
握手もそこそこに飛び出して行ったマーカス・ルーインの背中に、彼の覚悟が伺えた。ルーイン商会はアタシに、魔王領の発展に賭けたのだ。
その気概に応えなければ、魔王の名が廃る。
◇ ◇
「じゃあ、乾杯しましょうか」
出来たてのグラスに、出来たての新酒。出来たての関係には良く合う組み合わせだ。注がれた酒を光に透かし、ルーイン会頭は液面を食い入るように見つめる。
「実に、見事な器です。これほど薄く歪みなく透明度を出すとは、それにこのお酒も……魔王領の特産ですか?」
「
「ありません。流通していないんです。木灰と石英で作られるという共和国産の
「会頭?」
笑みを含んだアタシの視線に気付き、ハッと我に返った彼は慌ててグラスを捧げ持つ。
「すみません、つい……」
「いいのよ、優秀な商人は皆そうだもの。優れた音楽家には全ての音が音階に聞こえるらしいけど、商人は世界を数字で見るのね」
「……では、我らが美しき数字たちに」
「乾杯」
いってる傍からルーイン会頭は口に含んだ酒を値踏みし始めた。悪いことじゃない。宙を見つめ目を輝かせた少年のような表情も嫌いじゃない。彼もまた、自分の手で未来を切り開けると信じているひとりなのだ。
「後ほど、
「え? ああ、無理ですね」
すまなそうな顔で首を振られた。アタシもお酒を口に含む。魔王領で取れた果実酒。7種類作ったなかで最も上質と思われる貴腐ワイン。口当たりが上品で悪くないと思うんだけど。
「考えてもみてください。こんな高額稀少品を受け入れる市場はない。需要は王侯貴族だけ、さっきの硝子と同じで……ぶふッ! し、失礼しました、わたしはまた……つい」
「
「す、素晴らしいです。本当に、驚愕するほどですね。これだけの甘さを、しかも気品ある香気とともに醸し出す美酒など、味わったことどころか聞いたこともない。極論をいえば、お伽話にあるような絵空事です。例えば王城晩餐会で語っても、信じてはもらえないでしょう」
「褒めてるのよね?」
「ええ、もちろん。そして半分は呆れています。魔王領が作り出す商品の豊富さと不可思議さに」
「いいわ、ついでだから残りの試作品も飲んでいただこうかしらね。味の感想と、今度こそ商品としての御意見もね」
アタシがカウンターに並べてゆく色も形も大きさも違う6種類のボトルと、それに合わせた6種類のグラスを、ルーイン会頭はキラキラ光る目で見つめる。そこに宿っているのは、期待と不安と好奇心と推察と皮算用。
貴腐ワインを含めた7つのグラスに、7つの新酒が並ぶ。それぞれに素材と色と風味と
「ああ、なんて素晴らしい……全部試したい、みんな持って帰りたい……」
「感想を伺った後でしたら、いくらでも。それで足りなければ、他の商品もあるわよ。新開発の食材に調味料に塩……」
「塩?」
なんとか情報を聞き出したいと商人モードの笑顔で見つめてくるが、アタシも商人モードの笑顔で躱しながらグラスを勧める。
「さ、どうぞ?」
「あの、ハーン陛下。ご厚意は大変有り難いのですけれども、実はわたし、酒は弱くて、ですね。あまり飲んでしまいますと、頭が回らなくなるのですが……」
「大丈夫よ、どうせ仕事の話は、またいらしたときになるでしょうから。今日は、祝杯よ?」
7杯目を飲み干し、それぞれの市場価値と味の評価を的確かつ雄弁かつ情熱的に語った後、目的の塩と調味料と食材と新酒の試供品を手に、ルーイン会頭は子犬のような素の笑顔で帰って行った。
「ぼくぁ、ですね、魔王陛下。いま、とても幸せでふ」
「アタシもよ、ルーイン会頭。そしてアタシたちは、これから、もっと幸せになるわ。……そうならなければ、いけないのよ」
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