ゴリラの怒り
同じくらいの高さの住宅が並ぶ中、一つだけ背の高い家。オレンジや茶色のかわらがランダムに並べられた屋根に、白い外壁、温かみのある木製のドアが、ヨーロッパのおとぎ話に出てくるお家のようで、かわいらしい。
リッキーと言い争いになってしまった、そしておばあさんの話を聞いた翌日は土曜日で、私は再びゴリラの家の前にいた。この間来た時は夜だったけれど、明るい日差しの中で見ると、この家のおしゃれな雰囲気はさらに増す。
インターフォンを押す。少しドキドキした。深呼吸して、波立つ心を平たくする。
ゴリラは詮索しないでやれと、私に言った。そっとしておいてやれと。でも、私はどうしてもリッキーのことが知りたくて、知ることが彼のためになるとも思った。おばあさんに話したことも、後悔はしていない。それより、リッキーが心配だった。
あの後、宮崎くんと一緒に戻ってきた彼の様子はいつも通りだった。きっと、いろんなことを飲み込んで、心の底に埋めて、平気な顔をしているのだと思うと悲しくなった。そうやってリッキーが一人で全部抱え込んでしまわないようにしてあげたいと思った。彼が隠そう隠そうとして、どんどん辛くなってしまうのではないかと、それが怖かった。おばあさんもリッキーも、お互いに辛いところに触れないようにするばっかりに見える。それじゃあ、二人とも、悲しさを積み上げてくだけじゃないか。だから、おばあさんに話したことも、リッキーのことを知ろうとすることも、悪いことだとは思っていない。ゴリラの言葉を無視したことだけが、少し後ろめたかったけれど、逆に言えば、それだけだった。だから、多少の緊張はしても、こうして堂々と彼に報告しに来れた。きっと、ゴリラは分かってくれるし、どうするべきか、いいアドバイスをくれるに違いない。
『はい』
スピーカーから、尖った声が聞こえた。ゴリラのお母さんだ。あの、山崎です。この間来た、力也くんの友だちの――。そこまで言うと、ああー、とお母さんの声に伸びやかな表情が生まれた。
『力也はもう自分ちに帰ったよ。うちのバカならいるけど』
「あ、はい。知ってます。リュウキくんに用があって」
『ああ、そうなの』
その声の後、お母さんがゴリラに呼びかける、かなり強い語気の声が聞こえてきた。リュウキー! こないだ来た力也の友だちの女の子、あんたに用だってよ!
それからしばらくすると、急にドアが開き、ゴリラのお母さんが現れた。小走りにこっちへやってくる。
「ごめんね。あいつ、部活休みだから勉強するとか、真面目臭いこと言って、今、机にかじりついてんの。あと一問問題解くとか抜かしやがって。すぐ来ると思うから、とりあえず上がんな」
はい、と門扉を開けて入ろうとした時、お母さんの後ろにゴリラの姿が見えた。
「終わった」
ゴリラは不機嫌そうに目を細めてお母さんに言い、私へ視線を向けた。
「外でいいよな? 今、妹もいて家だと話しにくいから」
「うん」
答えた私に、ゴリラのお母さんは、にっこり笑って、じゃあ、またおいでと言ってくれた。そして、ゴリラには、おせぇんだよ、と低い声で文句をつけて中へ入っていった。
「ちょっと歩くか」
開きかけた門扉を押して、ゴリラが出てきた。
「うん」
私たちは、この間と同じように、私の家の方向へ歩き始めた。
「力也のことか?」
「うん、そう」
私が言うと、ゴリラは息をついて、何かあった? と聞いてきた。
「ううん。そういうわけじゃないんだけど、ちょっと、話しておいた方がいいかなって思うことがあって」
そこで私は大きく息を吸い、肺を空にするくらい深く吐く。よし、言うぞ。心に決意を固めて、ゴリラの顔を見た。
「私、この間、リッキーのおばあさんと会って、それで、自分がおばあさんの子どもだってリッキーが知ってるってこと、話したんだ」
ゴリラは目玉が飛び出るのではないかと思うほど目を見開いて私を見た。
「は!? え? 話した? ばあちゃんに?」
「そう」
ゴリラの顔が大きく歪んだ。眉間、それに鼻にまでシワが寄り、ピッタリ閉じられた口が曲がる。彼は足を止め、少し視線を下げて言った。
「お前、マジで言ってんの?」
聞いたことがない、低く、暗く、怒りのこもった声だった。私は急にみぞおち辺りが苦しくなり、ゴリラの声や視線が、矢のように体のあちこちに刺さるような感覚を覚えた。
うん、と喉をしぼった。何とか出た声は、小さく、かすれていた。
「なんでだよ? なんでそんなことしたんだよ?」
なんで? 私はなまりみたいに重くなった頭で考えた。さっきまで、はっきりしていたはずのその答えを探す。リッキーのためだ。私がリッキーのことをもっと知れれば、おばあさんがもっとリッキーのことを知れれば、彼が抱えているものが軽くなるんじゃないかと思っていた。けれど、揺るぎなかったはずのその考えは、ゴリラの言葉で急におぼつかないものに変わってしまった。
「リッキーの、リッキーのためだよ。だって、リッキーは誰にも相談しないで一人で全部抱えて、絶対苦しいじゃん。おばあさんだって、リッキーが知ってるって分かってた方が、リッキーの気持ちをもっと理解しやすくなると思ったし」
ゴリラは何も言わずに、ただ細めた鋭い目で私を見ていた。無言の重さが迫ってきて、私の声は尻すぼみに小さくなった。
リッキーのため。そうだと確信していたのに、今は本当にそうか分からなくなった。さっきまで持っていた自信の根拠を見つけたくて、ぐるぐるぐるぐる考える。確かに、リッキーが自分の気持ちを隠して隠して余計に辛くなっていくことが心配だったのだけど、でも、何よりも大きかったのは、それとは別の感情だった。心の底で燻っていた、あの気持ちだ。
私は、悔しかった。リッキーのことを全部知れないことも、おばあさんがリッキーの辛さを知らないことも。だって、リッキーがどれだけ辛い気持ちでいても私はそれに気づくことさえできないなんて、嫌だ。リッキーがどんな苦しいやりきれない思いを抱えておばあさんと暮らしているのか、当のおばあさんが知らないなんて、納得がいかない。リッキーはたくさん辛い苦しい思いをしているのに、それをみんなが知らずにいるのが、たまらなく悔しかった。リッキーが苦しいんだということを、私も知りたいし他の人にも知ってほしかった。何にも知らないで、リッキーがただの嫌な奴だとか、脳天気なバカだとか、勘違いされたくない。リッキーが辛いのに、それを隠してるからって「元気にしてる」なんて思われたくない。
ゴリラは鉄みたいな態度のまま、口を開いた。
「どれだけ理屈こねてもな、力也が二年間、必死で隠してきたこと、お前が全部無駄にしたのは、変わらないからな。あいつがどんな気持ちで隠してたと思ってんだよ。あいつには、あいつのタイミングがあったんだよ。ばあちゃんだって、力也から聞きたかったに決まってんだろ。なんで関係ねぇお前がしゃしゃり出てんだよ」
だって――と言いかけて、けれど言葉は続かなかった。何も言えることがなかった。なんだか情けなくて泣き出したい気分になった。
ゴリラは喧嘩腰に聞こえるくらい、乱暴な口調で言った。
「力也には、もうお前に何にも話すなって言っとく。和真に話してた方が、よっぽど良かったな。あいつはおしゃべりだけど、詮索なんてしないし、力也が一番隠したがってる相手に話したりもしない」
そうしてゴリラは、もう話ないなら、オレ、帰る、と言って、確認するように私を見た。私はそっと首を縦に振った。そうするしかなかった。
ゴリラは、挨拶の言葉もなしに背を向けた。離れていく彼の後ろ姿が、この間、家まで送ってもらった時のそれと、重なった。そして、あの時の感情がまたせり上がってきた。私はやっぱり自分のことばかりで、自分の気持ちばかりで、リッキーの辛さとか悲しさとかを、きちんと受け止めて考えてあげられなかったんじゃないかと、思った。
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