試合

 キュッ、キュッ、キュッ。バーン、バーン、バーン、バーン。バッシュが床をこする音やボールをつく音、それに時たま上がる選手たちのかけ声が、体育館に反響している。外は激しい雨が、他の全ての音を飲み込んでいるのに、この体育館だけが湿った空気を震わせていて、なんだか別の世界のようだ。

 私たちは体育館二階の細長い通路(ギャラリーというのだと最近知った)に置かれたパイプ椅子に座り、練習中の選手たちを見つめている。ゴリラは黒いジャージを着て、スキップステップやロールターンでのドリブル練習をしていた。どうやらかなり上手いらしく、本当にボールが手に吸い付いているみたいだ。動きにも緩急がある。特に、ついさっきやった、大きめのドリブルからいきなり小刻みに切り替えて詰め寄るような動きは見事だった。その真剣な眼差しは、普段白い歯を見せて爽やかスマイルを振りまいている時より数倍かっこよく見えた。友だちだから、とかそういうひいき目ではなく、つい目で追ってしまう。

 でも、心配なこともあった。相手チームには、この間私たちが叩きのめした三人組がいるのだ。彼らのうち茶髪とピアスはスタメンらしい。ピアスはまだ体も温まっていないだろう頃から上着を脱いでいて、ウォームアップしながらチラチラゴリラを見ていた。

「ゴリラ、大丈夫かな?」

 あと数分で試合が始まるという頃、私はリッキーに話しかけた。

「あの三人組、いるけど……」

 私の声の後、嫌な感じの沈黙があった。体に少し変な力が入る。

「大丈夫だ」

 リッキーは真顔でコートを見つめたまま答えた。

「ゴリラは強いし、みんなが見てる試合中に妙なことはできないだろ」

 でも、ファウルに見せかけて何かひどいことをするかもしれないよ。喉元まで上がってきた言葉は、でも、声にはならなかった。リッキーの横顔があんまり深刻に張り詰めていたから。もやみたいに心へ不安が広がった。

 両チームのジャンパーが、センターサークルで向かい合う。相手チーム――郷城中のベンチでは、「とーべ! とーべ!」とコールが起こり、ゴリラチーム――東鴨野中からは、勝てるぞ! しっかり! などそれぞれに応援する声が上がっている。会場全体が審判の構えるボールに集中しているのが分かった。でも、私はボールを見つつも、意識は視界の隅のゴリラへ向けていた。本当に大丈夫かな……?

 トスアップ。

 ボールが宙へ上がった瞬間、周囲の雰囲気がザワワっと揺らいだ。私も目の前の縦格子の柵を両手で掴んでいた。

 郷城中のジャンパーが弾いたボールは、まっすぐチームメイトの方へ飛んでいった。ピアスだ。今にもキャッチしようかという時、

 ゴリラが横から飛び出してきてスティール。彼は一直線にゴールへ向かっていった。ドリブルが速い。相手をくるりとかわすロールターンと自分の股下にボールを通すレッグスルーを使い、あっという間に二人を抜き去った。そしてゴール下からジャンプシュート。シュパッといい音が体育館に響いた。わっと歓声が上がる。始まってものの十秒で先取点を決めた。すごい。

「いいぞー、ゴリラー!」

 せーので合わせたのか、リッキーと宮崎くんが揃って声を上げた。チームのベンチからもゴリラコールが起こっている。本当にみんなからゴリラって呼ばれてるんだ……。

 なんて思いつつ、ゴリラのいきなりの活躍に、私もつい気持ちが高まっていた。胸がワクワクしている。けれど、すぐにその鼓動が狂った。ピアスがものすごく険しい表情でゴリラを睨んでいたのだ。

 私はリッキーの肩を叩き、ピアスを指さした。

「あれ、かなり怒ってない? 本当に平気かな?」

 リッキーは、私へ向けていた目を、一度ピアスの方へやり、また私を見た。

「分かってるよ。ちゃんと見てる。それに、なんかあったらこっちだって――」

 言いかけた時、地鳴りみたいに底から響くすごい音がした。とっさに音のした方を見ると、ゴリラが仰向けに倒れている。すぐそこに茶髪が立っていた。

 ピィィィッ。

 鋭い笛が空気を切った。

「オフェンス、チャージング。白、六番」

 茶髪のファウルが告げられた。ゴリラはチームメイトに手を貸されて立ち上がる。

 ガタン、と横から音がした。見るとリッキーが立ち上がっている。

「下、行こう」

 つっけんどんに言うと、リッキーは答えも待たずに荷物と傘を担いで、すぐそこの階段を走った。私たちは、みんなで顔を見合わせてから、すぐに彼を追った。

 ギャラリーから下る階段はステージ裏の用具倉庫に繋がっている。リッキーはそこからステージに出て飛び降りると、一直線に東鴨野中の控えベンチに向かった。続く私たちも、同じように走っていく。しんがりの清水さんがステージから飛び降りられない様子だったから、仕方なく手を貸してあげた。

「相手の茶髪とピアス、ゴリラのこと潰しに来るぞ」

 私たちが追いついた時には、リッキーはチームのメンバーに話し始めていた。みんな揃ってきょとんとしているのに、リッキーはそれが目に入っていないようにまくし立てている。

「オレら、あいつらと喧嘩したんだ。そん時、ゴリラも協力してくれて。その仕返しする気――」

「ちょっと待てよ」

 「10」の背番号をつけた人が、リッキーを遮った。

「なんかよく分かんないけど、お前ら小学生だろ? 小学生相手にした喧嘩、試合に持ち込まないだろ」

「違う! さっきのファウルだって、絶対わざとだ。次はもっとひどいことしてくるぞ」

 「10」の人は肩をすくめた。

「どうしろってんだよ?」

「ちゃんと見ててやってくれよ。もし、なんか変に強く当たってきたら、そういうことされないように他のメンバーで守ってやって、あんまりひどかったら交代とか――」

「だから、そんな必要ないって」

 「10」の人が言うと同時に、またピィィィッと笛が鳴った。みんな揃ってコートへ目を向ける。またゴリラが倒れていた。今度はピアスがすぐ近くにいる。

「ディフェンス、プッシング。白、八番」

 審判は手のひらを開いて前に突き出すシグナルを示して告げた。

 リッキーは不満を全部眉間にかき集めたみたいにシワを寄せて「10」の人を見る。「10」の人は、肩をすくめた。

「たまたまだ――」

「あっ!」

 宮崎くんが大きな声を出した。みんな一斉に彼を、それからその視線の先を、見る。

 「今、八番のピアス、ゴリラにパンチ入れてたよ。オレ、はっきり見た」

「言っただろ」

 ピアスと茶髪へピッタリ視線を貼り付けたまま言ったリッキーの声には、ありったけの苛立ちが込められていた。「10」の人は困ったように眉を下げた。その時、

「審判! 白八番見て!」

 ベンチの他のメンバーがコートに向かって声を上げた。彼はチラッとリッキーを見て頷くと、チームメイトたちに言った。

「ほら、みんなで声出すぞ。逆に八番退場させようぜ」

 途方に暮れたようだったメンバーたちの表情へ、決意の色が差した。

「八番、卑怯だぞ! 審判はよく見ろ!」

「八番、押してる!」

 一人が声を張ると、別の一人がお腹の底から出したような野太い声で叫ぶ。みんなの声が重なるにつれて、ベンチの熱気も高まってきた。リッキーの険しかった顔つきが、ほどけていった。すると、

「白八番!」

 今度はすぐ近くから声が上がって、リッキーも私もビクンと肩をはね上げてしまった。見れば、「10」の人が、手でメガホンの形を作り、ピアスへ向けて叫んでいた。

「いい加減にしろ!」

 彼はそう声を張ると、リッキーを見て、口の端をちょっと上げて肩をすくめた。リッキーも満面に笑みを広げてピアスへ叫んだ。

「白八番! 退場だ!」

「そーだそーだ! 退場だ!」

 宮崎くんも声をかぶせる。

「審判! 今ひじ入れた!」

 私も叫んだ。

「ディフェンス、プッシング。白、八番」

 ピアスは黙って憎々しげな目をベンチに向けてきた。

「白八番、手を上げて」

 審判に促されて、ピアスはやたらと重そうに手を上げた。こっちを睨みつけたまま。

 スローインから試合再開。やはりこっちのエースはゴリラのようで、みんな彼にボールを集めている。パスが回ってくると、ゴリラは腰を落とし、小刻みにボールをついてディフェンスを、ピアスを、たかみたいにじっと見つめた。ピアスも守ると言うより攻めるみたいにグイグイ前に出てくる。抜くことを諦めたのか、ゴリラがすっと腰を高くし、パシリとボールを手に取った。

 ピアスが抜き去られたのは、その直後だった。ゴリラは油断したピアスとの間合いを一気に詰めて右へドライブし、風のように走り抜いていった。すぐさまピアスは後を追ったけれど、どれだけ速く走っても致命的な一瞬の遅れは取り戻せない。あと数センチという距離のところで、ゴリラがシュート体勢に入った。

 あっ、とこっちのチームの控えメンバーと私たちが、揃って声を上げた。ピアスがゴリラのユニフォームをつかんで後ろへ引っ張ったのだ。ゴリラは仰向けに倒れた。バタンと大きな音がした後、彼の手を離れたボールが床に落ちてバウンドした。

 ピィィィッ! 笛が鳴った。当たり前だ。

「ディフェンス、ホールディング。白、八番」

 審判がピアスのファウルを告げる。こっちのベンチからは、再びピアスへのブーイングが次々飛んだ。でも、ピアスは肩で息をしながら、ピクリとも表情を動かさずに、ただ手を上げた。

 ゴリラは与えられたフリースローを二本とも決めた。ゴリラチームのボールで、またゲームが動きだす。ゴリラにパスが回ると、チームのみんなは一斉にピアスへの野次を飛ばした。

「白八番、きたぇぞ!」

「反則野郎! 退場しろ!」

 ピアスの硬い表情へ、一瞬、ピシッとひびみたいな歪みが差した気がした。

 ピアスは真剣な眼差しでゴリラを見つめている。獲物のすきを窺う肉食獣を思わせる目つき。その鋭さに、私の肌は粟立った。

 ピアスがボールへ手を伸ばした。

 が、ゴリラはふいっとボールを体の後ろに回してつき、反対の手でキャッチ。ピアスが片側に寄ってできたスペースへ切り込んで抜いた。

 わっとベンチが湧いた。リッキーも私も他のみんなも手を叩いたり拳を突き上げたりしながら歓声を上げた。さすがゴリラ! すごい、すごい!

 ピアスはすぐにゴリラを追った。そして今度はゴリラの髪をつかんだ。

 あっ、と声を上げる間もなかった。

 ピアスはゴリラを引き寄せると、全体重をかけるみたいにして、ゴリラの髪を掴んだままの拳を床へ打ち下ろした。ダァァァンッ! とすごい音が体育館を揺らした。

 私の内蔵の全部が、ぎゅっと縮み上がった。

 残った響きに、空気が震えていた。その音以外、何もかもが凍りついていた。突っ立ったままのピアスのすぐ横で、ゴリラがうつ伏せに倒れている。私の目には、そのすがたばかりが鮮明に映っていた。

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