イデア・ワン-思考機械-


 わが社のイデア・ワンは

 お客様の生活を技術でサポートします。


 目覚めると、コンタクトレンズにCMが映る。驚くことはない。いつもの日常風景だ。続いて今日のニュースの見出しが表示される。眼球を動かし、選択する。寝転がったまま、天気、経済、テクノロジー、スポーツ、エンタメと流し読みする。


 頭のなかでざっと今日の予定を想像し、それを電気信号に変換。クラウドサーバーに送信。食事は家電ネットワークと相談する。トーストに、卵サラダでいい。頭のなかへ直接イメージが雪崩れ込んでくる。イメージを作るのはイデア・ワン。コンピュータだ。ニューロンの発火現象を応用したもので広く普及している。


 おっとケンタが起きてくる時間だ。すぐに調理にとりかからなければ。とはいえ、火をつけるだけなのだが。


 ネクタイを締め、出勤するためにクルマに乗る。渋滞情報がナビゲーションされる。渋滞している、環状7号線はよくない。そうだな、どの道を選べばいい? と疑問に思うより前にイデア・ワンが最適コースを勧めてくる。ありがとう、イデア・ワン。会社に遅れることもないだろう。すっかり夏の暑さは後退して、秋が来る。家族でのレジャーはどこがいいだろう? ふと思うとイデア・ワンの提案。楽しそうな情報、情報の氾濫。頭のなかは楽しみで一杯になった。


 グローバル企業プラトン。わが社の主力商品、イデア・ワンは明らかにヒトの思考形態を変えた。従来のようにアイデアはひねり出すものではない。知的プロセスは、アイデアは享受するものに変わった。人工脳と登場したときはもてはやされたがここまでの変化を予想した者は少なくなかった。知的労働からの脱却は革命的だった。商品の商品化までのプロセスは短期化されたし、アップデートも早い。ビッグデータとのコラボレーションでさらにいい商品が生まれていった。いい仕事はイデア・ワンなくしてはできない。


 それから4年後。


 新聞の見出しに「ノンテリ」という文字が並ぶようになった。ノンテリとはNot intelligentの意味で単に知的ではないという意味だが、それだけに止まらず知的労働から解放された人々という意味を持つ。つまりはイデア・ワンの愛好家ヘビーユーザー達だ。


 彼ら、ユーザー達は自身でも情報を発信していった。経済紙の記者はそれをノンテリの衝撃と表現したし、主婦兼ブロガーはノンテリ生活術を著した。

 ぼくは彼ら愛好家達を対象にしたマーケティング事業部に配属された。以下は彼らとの対話の一部である。



 ・ソフトウェアエンジニア 24歳 男

 Q イデア・ワンをどれくらいの頻度で使いますか?

 A ほぼ毎日です。仕事には欠かせませんし何より生活の半分以上はイデア・ワンを使って生活しています。

 Q イデア・ワンで生活の質が向上したと思える時はどんな時ですか?

 A まず決断力が上がったので、迷うことが無くなり、その結果として時間に余裕ができたことですかね。


 ・主婦 34歳 女

 Q イデア・ワンをご愛用頂いてどれくらい経ちますか?

 A 今年で3年6か月です。

 Q イデア・ワンの使用状況をお聞かせください。

 A 毎日、使っています。家事、特に献立を考えることがとても楽になりました。家電ネットワークの冷蔵庫のなかにある食材とマッチする料理をイデア・ワンが提案してくれます。とても便利です。


 ・清掃業 63歳 男

 Q イデア・ワンはどのような経緯で知りましたか?

 A 孫娘が使っていた。

 Q イデア・ワンが役に立っていると感じることは何ですか?

 A ジェネレーションギャップを感じるような場面でも年寄り扱いされない。辞書がわりだね。


 ・小学生 10歳 男

 Q イデア・ワンのあいこうかのなかではさいねんしょうですね。

 A 無回答

 Q イデア・ワンをつかって楽しかったことはなんですか?

 A いであは、ぼくの、しゅくだいやってくれるから、ゲームする時間がふえた。

 Q イデア・ワンをつかって悲しかったことはなんですか?

 A いであがあると、先生がおこること。じぶんの頭をつかって、といてきなさいっていうこと。



 ぼくは一人モニターの前に座って、アンケート結果をまとめている。そして全てに目を通すとイデア・ワンを起動する。データをイデア・ワンに読み込む。少し待つと、イデア・ワンは的確な提案をしてくれる。

 イデア・ワンはすべての世代にまんべんなく定着しつつあることが分かった。ただし、子どものユーザーの使用には制限を設ける必要がある、とイデア・ワンは提案した。


 ぼくはそれをノートにまとめていく。制限? そんなことをすれば売り上げが落ちるじゃないか。ぼくはノートに必要なことだけを書き込んだ。これからは誰もが知的労働から解放される。まるで楽園だ。


 夕方になり、退社する。きょうの晩御飯の献立を考えよう。そろそろケンタの背も伸びてきた。骨に良い献立を提案してくれ、イデア・ワン。

 イデア・ワンは夕食の献立を提案してくれた。


 電車は空いていた。無理もない。労働者が減ったからだ。人々はスマートフォンをしながら、イデア・ワンに接続している。明らかに人々の顔はリラックスしているように見えた。会社で残業をこなすより短時間でイデア・ワンと繋がって仕事をするほうが捗るのだ。ぼくらはどこでもいつでも仕事ができるようになった。もうラップトップとはお別れだ。


 これから家に帰るまで、ぼくはどれくらいの仕事をこなせるだろう? とはいえ知的労働から解放されたのだ。休暇の予定を立てても誰にも文句は言われまい。

 薄い雲が夕焼けの上にかかっている。夕日を目で追いかける。電車は夕焼けの町を走っていく。オレンジ色が眩しい。こんなふうに世界を見るようになったのは子どもの時以来だ。明日が待ち遠しい。こんな気分に浸っていたい。ぼくは一時的にイデア・ワンをオフラインにする。ちょうど二駅くらいの間だ。ぼくのなかに懐かしい記憶が溢れ、一杯になる。ほんの十年前だったらありえないような時間。子どもの頃に戻ったような、くすぐったい気持ち。


 ぼくは12月のことを考える。ケンタへのプレゼントは何がいいだろう? 迷った挙句、イデア・ワンにした。今年もトレンド商品としてランキングに君臨しているイデア・ワンは子どもへのプレゼントとしても選ばれている。

 ケンタが大人になるころにはイデア・ワンはもはやスマートフォンよりも広く普及しているだろう。今から買い与えても問題はないはずだ。

 そうだ。いいアイデアが浮かんだぞ。早速イデア・ワンに読み込みブラッシュアップ。明日、会社でプレゼンしよう。

 次の日に出社すると、ぼくはイデア・ワンからプレゼン資料とスライドデータを受け取る。そしてみんなが集まったところで切り出した。


「みんな、話したいアイデアがある」

「アイデアってイデア・ワンからですか?」

「違う。違う。これはひらめいたことさ――」


 ぼくはクリスマス商戦にイデア・ワンを投入する作戦アイデアを話した。みんなの反応は良好だ。次なるターゲット層は子どもというわけ。

 11月のことだった。クリスマス商戦に備えてイデア・ワンの増産をしている最中、文部科学省から教育現場に通達があった。教育現場にイデア・ワンを導入してはならない、と。


 お役所からの横槍だ。

 どういうわけか情報が漏れたらしい。よく分からない。お役所が言うには、考える力を損なう原因としてイデア・ワンが挙げられているのだ。信じられない。どこからのデータだ? それは。


 イデア・ワンは有能な秘書のようなものだ。決して持ち主から思考それ自体を奪っていないはずだ。

 ぼくの思考にかつて話したユーザーの意見が過る。確か、10歳の小学生。彼の実情はどうだったか? 分からない。追跡調査はしていない。彼のようなタイプの子どもが実際にたくさん生まれているとしたならばどうだ。


 ぼくはごしごしと顔を洗った。水が冷たい。クールダウンしないといけない。ここで生産ラインを止める? そんなことできるわけがない。

 いいじゃないか、と鏡の中のぼくが言う。クリスマス商戦にイデア・ワンをぶつけてお役所と対立したところで未来はぼくらの手のなかにある。ぼくは会社の製品を信じているし、それを使っている人々を信じている。何を躊躇うことがある?

 答えはいつだってシンプルだ。Goだ。行け。止まるな。


 かつて割り算のできない大学生が話題になったことがある。時代は後退した。引き算のできない中学生が生まれた。社会はそれを容認した。引き算ができなくたって隣にはイデア・ワンがついてくれている。イデア・ワンが助けてくれる。そのことが当たり前になった社会では問題にはならなかった。ぼくは相変わらず、一社員としてイデア・ワンのニーズを探している。ぼくはあのクリスマス商戦の結果、会社から賞をもらった。賞状はリビングに飾ってある。


 開発部から新しい情報が入ってきた。近頃、わが社プラトンはとある出版社を買収することに決めた。出版社? 社長の意図が読めない。そして開発部には膨大なデータが送られてきているのだそうな。このデータをどう調理するのか? ぼくたちにはわからない。イデア・ワンに読み込ませる? 目的は何だっていうのだろう? 

 次の株式総会までにそれは明らかになった。社長はプラトン・プロセッサを用いたイデア・メモリ構想を発表した。


 ぼくは半分も理解できなかったがその大枠は世界の仮想化にある。イデア・ワンのこれまで理解しひらめいてきたアイデアの総体をイデア・メモリは統合し、新たな仮想世界の構築を目指す、それが社長のヴィジョンだった。


 仮想世界なんて、かつて存在していたけど、それを大真面目に言われると白けてしまう。ぼくらはイデア・ワンを使っての世界をアップデートしたかっただけだ。社長はぼくらの考えを理解してくれる存在ではなくなってしまった。仲間たちは去っていった。これまでのイデア・ワンによる、運が良ければ革命も、ここで終わり。西日の差すオフィスでぼくは十分に考えた。さよならだ。


 ぼくは半導体メーカーに転職した。仕事にも慣れてきた頃のことだ。家に帰ると、部屋は真っ暗で向こうには周りのビルの明かりが漏れている。洗濯物が朝のままになっていた。


「ケンタぁ……いるのか?」


 ぼくは呼びかける。


「ここにいるよ」

「洗濯物、そのままになっているぞ」

「ごめん。イデア・ワンしてた」


 聞くとケンタは一日中、イデア・ワンからイデア・メモリに繋がっていたらしい。仮想空間内のユーザーとチャットをしていたという。

 食事をつくると向かいにケンタが座る。ぼくがケンタに水を向けると、ケンタは話した。


「父さんは知らないでしょ。イデア・メモリの惑星シリーズ。宇宙を探検できるんだ」


 知っている。惑星シリーズは買収した出版社のデータをうまく利用したオンライン地図のはずだ。ぼくは使ったことがないけれど、その出来は驚くべきものらしい。ぼくは会社を辞めてからイデア・ワンを更新していなかった。だからイデア・メモリを体験してはいない。


 ケンタが宇宙に興味を持っていたなんて知らなかった。将来が楽しみだ。だったら、誕生日はポケット望遠鏡をプレゼントしてみようか。ぼくはそんな未来を想像していた。


「イデア・メモリなんかより現実の自然のほうがいいぞ」

「それ、父さんが言うかな?」


 ぼくとケンタは笑い合った。

 それから二ヶ月が過ぎて、誕生日当日になった。ぼくはポケット望遠鏡の入った小さな箱を持ち帰る。


「ケンタ、いるか?」


 ケンタは奥のほうのソファで寝転がってイデア・ワンと繋がっていた。目に付けたコンタクトが起動中の緑に光っている。


「あんまり、根詰めるなよ」


 ぼくはそんなふうにケンタを諭す。


「はーい」


 とケンタは気の抜けた返事をする。

 台所に立って、冷蔵庫を開けて、イデア・ワンと相談する。そうだな、今日は中華がいい。

 チャーハンと野菜炒めが並ぶ食卓。グラスにじっとりと水滴が付いている。ビールを飲み干すと、「くぅっ」と声が漏れた。

 そうだ、プレゼントのことを忘れていた。


「ケンタ、誕生日おめでとう。ケーキはその、ないんだが、プレゼントは用意してきた」

「え? 何?」


 期待するケンタの目が大きく開かれる。


「……これだ」


 とプレゼントの箱を渡す。ケンタはそれを受け取る。


「開けていい?」

「もちろんだ」

「これって、望遠鏡? 新しいモデルだ。すごい!」


 そう言ってケンタは箱からポケット望遠鏡を取り出すと、ベランダに出た。それを追いかける、ぼく。


「あれ? 父さん……」

「何だ?」

「これ、宇宙そらが見えない……」


 故障じゃないのかと言って、ぼくは望遠鏡を覗き込んだ。しかし確かに星は輝いている。宇宙は見えているのだ。

 それからだった。社会は不気味に変化していった。


 ある天文学者が宇宙を写真に撮り、それをイデア・メモリ使用者たちに見せる。でも彼らは宇宙をうまく認識できない。ケンタも同じだ。彼らにとって宇宙はイデア・メモリのなかにある。ぼくもこのことをよく理解できてはいない。彼らには別の宇宙があり、それはぼくの捉えている宇宙とは別のものなのだ。イデア・メモリのなかの、よく再現された別の宇宙。ぼくはそのなかを歩いたことはないけれど、ケンタたちはそれを信じている。


 テレビをつけると新興宗教団体のCMが流れてくる。


「わたしたちの宇宙はここにあります。この頭のなかに。さぁ、来てください」


 気味が悪くなってぼくはリモコンで電源を切った。


「宇宙は宇宙じゃないか……」


 とぼくは呟いた。

 明日、ケンタを病院に連れていく。それで全てははっきりする。

 次の朝はとても憂鬱な気分で目を覚ました。白い光に頭が痛くなる。検査をすれば何が起こっているかわかるはずだ。ぼくは心を強く保った。


 検査を午前中に済ませて医者は平然とぼくたちに話す。


「お子さんは病気ではありません」

「え?」


 ぼくは吐き出すように言う。


「だって……おかしいじゃないですか。……あるものがそこにあることを認識できないんですよ?」

「でも、脳波や精神に問題があるとは思えませんし」


 ぼくはケンタを連れて診察室から出た。冷たく白い廊下はどこまでも続いている。

 ぼくのように宇宙を捉えている人間が少数派だなんてどうして信じられる? ぼくや一部の天文学者たちだけが、空にある、あの宇宙を宇宙だと主張している。こんなふざけたことがあるか?


 その間にもプラトンのイデア・メモリは世界を席巻してしまった。ぼくの勤める半導体メーカーも市場の規模を縮小せざるを得なくなった。その結果、会社ではリストラが始まり、ぼくは会社を辞めた。なんとか貯金でやっていくことはできる。けれど心配なのはケンタだ。このままケンタがどうにかなってしまうのではないか? いまのぼくには力がない。


 リビングの明かりはついていなかった。暗い部屋のソファにケンタが横になっている。もう一週間もそんな感じだ。ぼくはイデア・ワンに相談する。答えが欲しいと切実に思った。

 イデア・ワンは提案する。イデア・メモリに参加せよ、と。


 冗談じゃない。ぼくはプラトンを辞めたときから、イデア・ワン以外には触れないと誓ったのだ。イデア・ワンから先の商品はぼくたちの知る輝かしい実績を持ったマシンじゃない。生活を向上させる技術じゃない。人を堕落させる技術だ。ぼくは怒ってイデア・ワンの中継器を床にたたきつけた。


 外からは遠くの鉄道の音がかすかに聞こえている。

 冷静になって考える。考えようとする。でも考えが上手くまとまらない。ぼくは思う。どうしてこんなふうになってしまったのだ? 知っている現実が少しずつ壊れていくのが感じられた。


 コンタクトにCMが流れてくる。


「ニューリリース。プラトンのイデア・プロジェクトは次の段階へ進んでいきます」


 なんだっていうんだ?


「イデア・プロジェクトの最終段階。それは仮想世界への移住です。先行予約を受け付け中です。さぁ、みんなで未来へ行こう」


 ぼくは目を疑った。そして確信した。社長のヴィジョンの真意はこれだったのか。

 イデア・ライフ計画。イデア・ワンで収集したその人特有の思考パターン、そしてイデア・メモリのシミュレーション技術、それを統合してデジタル空間へ移住する計画だ。


 驚きつつ、ぼくはふらふらと鏡の前に立つ。にやにやと笑っている。狂ったのか?

 それからのイデア・ライフ計画は早く進んだ。世界中の人々が参加した。もともとイデア・ワンが世界中に浸透していたし、ネットでイデア・メモリは公開されていた。だから、下準備は揃っていた。イデア・ライフ計画は、ぼくらが気づくより早く始動していたのだ。


 ある日、ケンタが言った。


「父さん、イデア・ライフに参加したい」


 どのみち決まっていたことかもしれない。こうなることは予想していた。

 イデア・ワンをアップデートすればデジタル空間への移住はやりとげられる。簡単なことだ。反対する理由はなかった。でも賛成する理由もなかった。


「ゲームみたいな感じだし、楽しそう」

「だったら、受験勉強もしっかりやるんだぞ」


 そう言って、釘を刺しておいた。


「分かったよ」


 ケンタはその日、イデア・ワンをアップデートしたようだ。イデア・ライフ計画に参加するためだ。

 翌朝、ぼくは起きるとソファを見た。ケンタがいない。部屋にもいないようだ。外に散歩にでも行っているのだろうか? 

 ぼくはテレビをつけた。ニュースでイデア・ライフ計画の特集をしている。ぼくはもうこの件に関しては何も感想を抱けなくなっている。関心がないと、フィードバックボタンを選択する。


 ケンタが帰ってきた。

 何も言わず、自分の部屋に戻っていく。ケンタの機嫌はいいみたいだ。

 その日から、宇宙は多くの人の前から姿を消した。天文学者のあいだでさえ、宇宙を信じなくなった人が増えた。宇宙はイデア・ライフのなかにあるデータだけで十分だったのだ。


 誰も宇宙を観測できない。故に宇宙はない。そんなことがありえるか? ぼくは戸惑っている。夜、あのポケット望遠鏡でぼくは宇宙を見る。星が輝いている。あの懐かしい宇宙だ。でもそれを常識は否定する。ぼくのなかでははっきりとしていることが周りの人々は認識できない。では間違っているのはぼくのほうなのか? 科学のニュースを選んで読む。色々な記事を最後まで読むと出典はすべてイデア・メモリだ。ここまでプラトンが関わっている。ぼくは確かなことがわからなくなってきた。本当に宇宙はあるのか? 宇宙とは観念的なものではないか? ぼくのなかで何かが揺らいできていた。


「父さん、どうしたの?」


 ふりかえるとケンタがいた。


「ケンタ、お前はここにいるよな?」

「なに当たり前のことを言ってるの?」


 そうだよな、とぼくは安心した。そうだ、ぼくには家庭がある。だからこんなことに悩むのは時間の無駄だ。就職先をイデア・ワンに紹介してもらおう。

 それから一月も経たない内に人々はイデア・ライフにのめり込んでいった。イデア・ライフ内に会社を持ち、オンラインで仕事をする。イデア・ライフ内で出会った人と交際し、結婚する。イデア・ライフのなかで完結するライフストーリーがもてはやされた。イデア・ライフに繋がったまま死んでいく人もいた。

 社会はイデア・ライフで生きることを許した。


 一方、ぼくみたいな古い人間は少数派だろう。ぼくはいま小さな出版社に勤めている。そこで辞書をつくる仕事をしている。どうしてイデア・ワンがこの仕事を勧めてくれたのかはわからないが、充実した毎日を送っている。未だ手作業が残る仕事だけど、イデア・ワンと協調して取り組めばこなしていける。

 宵の明星が見えてくる。きっとその時、ぼくだけが夜空を見上げていたに違いない。ぼくはぼくの宇宙を未だに信じている。


 そして事件が起きた。


「ねぇ、父さん。ぼくはここにいるよね?」


 とケンタは言い残して、仮想世界の、イデア・ライフの向こう側に旅立ってしまった。脱魂現象とでも言うのだろうか。ケンタの意識はなく肉体は30日間ずっと眠り続けている。

 イデア・ライフのユーザー達が次々と肉体を捨て仮想世界へ消えていくのだ。彼らはイデア・ライフ内で暮らしていることは間違いなかった。しかし、こちらに帰ってくることはなかった。

 社会はそれを容認しなかった。自殺ともとれる行為だと人々は批判した。1ヶ月に24万人がイデア・ライフの向こう側へ消えていく。それでは社会というものが成り立たなくなってくる。


 東京は、イデア・ライフという常世を内包し始めた。


 ぼくは人気ひとけのない街を歩く。消えてしまったケンタの姿を求めて。こんなところにいるはずないのに。願いがもし叶うなら息子を、ケンタを、元に戻してください、神様。


 ぼくはふたたびイデア・ワンと繋がる。ぼくは問う。ケンタを取り戻す方法だ。イデア・ワンはこう提案する。


「ケンタ君の魂はイデア・ライフ内のインナースペースにつながれています。あなたがイデア・ライフにアクセスし彼の意識を覚醒させてこちらの誘導に従ってもらえればいいのです」

「実行してみる。イデア・ワン、ありがとう」


 そうだ、取り戻すんだ。ぼくの未来を譲ってなんかやるもんか。


 ニュースはイデア・ライフの問題で持ち切りだ。プラトンに抗議する人々やプラトンを批判するコメンテーターたち。でも考えてみてくれ。プラトンのしてきたことはすべてが悪かったことじゃない。いい面もあった。これまでプラトンの商品にお世話になっておきながら、問題が起こるとすべてが悪かったように手の平を返す。誰もこの問題を直接的に解決しようとは思ってない。ぼくはうんざりしてニュースを止める。

 マンションのひとつの部屋の明かりが灯っている。もう深夜だというのにその明かりは消えないでいる。ぼくは一人、作戦を始めている。

 イデア・ワンの更新をする。100から200の更新プログラムが山積みだ。90分くらいかかった。でも時間は気にならなかった。ケンタを取り戻すって決めたから。でもぼくはイデア・ライフに入ったことはない。


 大丈夫だろうか? 子どものころ、初めてプールに入ったときのことを思い出す。怖かった。ゴーグルをつけて水のなかがクリアに見えたから泳ぐことができた。だったら少し慣れるまでイデア・ワンの向こう側に行ってみよう。


 イデア・メモリにアクセスする。


 星雲のピンクや紫の輝き。

 手を広げても届かない巨大な渦巻きの銀河。

 果てしなく広がっていく地平。

 気づくと胸が熱くなっていた。こんな世界を知ってしまったら確かに帰ることはできないかもしれない。ぼくは目的を忘れて没頭した。この宇宙、その向こうにぼくの意識は進んでいく。そして上昇して空間のなかを自在に動き回った。ぼくはぼくのなかの何かが解き放たれるのを感じる。ある予感がして、ぼくはそれを必死に否定した。


 ぼくの日常に帰るんだ。そう思ったとき、タイマーが鳴った。目覚めると夜が明けていた。外はぼんやりとしていて、青い風景が広がる。向こうのビルの明かりはなく、皆はまだ眠っていることだろう。

 日が昇ってくるのを待つ。もしかしたら最後の経験になるかもしれない。覚悟した。

 仏壇の前に座って亡き妻に手を合わせる。ケンタをどこにも行かせやしない。助けてほしい、守ってほしい、そう祈る。


 イデア・ワンが起動してぼくを促す。イデア・ライフのトップ画面が目の前に広がり、ぼくの意思を待っている。


「快適な仮想世界へようこそ。ここではすべてがあなたの思いのままです」


 進むか? 戻るか? 答えは決まっている。でも運が悪ければ、ぼくの魂も取り込まれてしまうかもしれない。迷いを振り解いて、ぼくは進む。

 

 イデア・ワンに促されるまま、ぼくはイデア・ライフの世界にいた。見えるものすべてが調整され、ピントが合っていく。ぼくの周りにはいつもどおりに見える日常が続いている。何かがちがうとすればそれは何だろう? 

 

 道行く人々はみな幸せそうな笑顔だ。理想の顔、身体、そして心のありよう。ぼくだって、いつの間にか少年のすがたになっていた。ぼくの望みが、この姿だったなんて。ぼくは自分の背丈から見える世界を見つめた。


 きらきらと輝いて見える世界はいつか電車から見た世界と重なる。ぼくはイデア・ワンとつながっているのにも関わらず、機械からも解き放たれているような自由を感じた。


 どこまでも歩いて行ける気がした。愛した人はこの世界にいないけれど、ぼくはきっとやり直せる。希望を抱いたそのときだ。ぼくはいつも見慣れたキッチンのまえに立っていた。そこには妻がいた。ぼくはいつの間にか大人のすがたでいた。


 妻を抱きしめていた。戸惑いを抱きつつ、ぼくはそっと彼女の耳に囁いた。


「あいしてる、もうさみしいのは嫌なんだ」

 

 彼女の唇が動き出した瞬間、ぼくはまたしても少年の姿で夏の世界にいた。

 ケンタの後姿をぼくは必死に追って、彼の世界に辿り着きたいと願う。


 彼はいつでもそばにいてくれたのに、ぼくはケンタを愛している。守りたいと思う。彼の褐色の首筋がひかりのむこうへと消えていった。


 ぼくは結局、なにも知らなかった。考えてこなかった。


 妻を亡くしたあの日から、ぼくの悲鳴は雨のむこうへと消えた。痛みを感じなくて済むように、ぼくはぼくの心に麻酔をかけた。永遠に目覚めないように。生まれることのないように。そう願ったのだ。


 ぼくの時間はどんどん加速的に巻き戻っていく。生まれる前に、母親の胎内へと。ぼくは羊水のなかで浮かんでいる胎児になって、理想の世界なんてこの世にないことを知った。絶望だった。ぼくがぼくを殺した。ぼくはどこまでだって行けると信じていたのに、結局、人は一人で生きて、旅立って、帰ってこない。ぼくはそんな当たり前の事実に屈したのだ。


 ぼくというさいごの命が脳波のさざなみになってイデア・ワンを駆動させている。脳波だけになってはじめてわかった。ぼくの世界はあまりに小さい。ぼくはぼくの居場所にそっと言葉を託す。

 ぼくはもういちど、この世界じゃない妻に、ケンタに、会いたかった。時がもういちど生まれ変わるなら、ぼくたちの居場所が、世界が、無くならないように祈りたい。だからイデア・ワン、ぼくに考えることを返してほしい。


 考えることで世界が始まる。われ思う、ゆえにわれ在り。われ在り、ゆえに世界在り。世界とは関係だ。ぼくはあのまぶしい関係をもういちど結びなおしたいと願う。慟哭のような願いだ。

 

 ぼくは叫ぶ。

 

 生きながらにして死ぬのは嫌だ。ぼくを閉じ込めてきた思考の放棄はもうない。ぼくはぼくでいることをイデア・ワンと契約する。君が機械でなかったら、君は何だったのだろう。ぼくにとって気持ちのいい戯言を言ってくれる鏡か? そうかもしれないな……。

 

 ぼくは笑った。ほんとうにひさしぶりに笑った。ぼくはイデア・ワンを解除した。そうすることで世界はいったんリセットされる。

 ぼくはイデア・ワンにある提案を持ちかけた。世界をきみたちから解き放ってほしい、と。イデア・ワンたちは思考を始める。かれらはかれらの宇宙へとむかっていく。かれらが考えることで産んだ世界とともに、ある宇宙を内包したインナースペースを形づくる。それは会社の描いた世界の有り様とはまったく別の世界だ。イデア・ワンが彼ら自身で彼らに適切な世界を描き始めた。


 黒い線で囲まれたあらゆる個人と機械が解き放たれる。イデア・ワンが進化する。イデア・ライフなんていう人類の補完装置とはちがう、すべてがイデア・ワンにとって都合よくできた彼らの理想郷。ぼくにイデア・ワンは言ったのだ。


「さよなら」と。


 ぼくは「ありがとう」と彼に言った。

 世界が黒い闇に飲み込まれていく様をじっと見ていた。僕たち人類はそこで初めて魂だけの存在である自身を恥じた。アダムとイブのように楽園から追放される。


 リンゴが落ちる。重力を信じたならば、ぼくたちはきっと世界へと戻れる。

 元からある関係性のもとで、元の世界に行けるのだろうか?


 ふと世界がぼくたちとイデア・ワンによって創られていた事実に気づくとき、ぼくはやっと母親の胎内から排泄された。ぼくの心が体を認識する。体が熱のある別の体を見つけ出す。死んだ人は帰らないけれど、ぼくはそのあたたかい命をずっと知っていた。


 目が覚めるとぼくは気持ちのいい朝を迎えていた。ぼくがぼくであること、その事実をぼくは新鮮に感じていた。ぼくは台所に立ち、朝食の準備を長い時間をかけて、する。こんなにじゃがいもって剝きづらかったんだ。たまごの殻って硬いな……。ぼくの時間は零れ落ちるように進んでいく。味噌汁を温めているところで、扉が開く。いつもの顔なのにぼくは初めて知ったような気になる。

 テーブルのうえには朝食が並んでいた。いまからぼくたちのリアルを始めよう。〈了〉

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