133.幸せな夢の中に

 サンダリオさんが、ティーポットから新しい紅茶を注いでくれる。

 わたしは今度は薄切りレモンを沈めてから頂くことにした。青い薔薇が描かれたスプーンで軽くかきまぜる。


「……戦争ってどうなるんでしょうか」

「戦争は直に終わる」


 わたしがぽつりと零した呟きを拾ったのは、アルトさんだった。


「守神を襲っていたのが、シュトゥルムと勇者だと分かったんだ。あの魔王ならそれを上手に使うだろう。しかしそうなると勇者も後が無くなるな」

「勇者は戦争を使って国を、世界を乱してシャルテを復活させようとしていたんですよね。守神を討って、澱みを増やして魔物を増やすのは世界を乱すためでしょう?」


 勇者は実際、どうやってシャルテを復活させるんだろうか。


 わたし達の話を黙って聞いていたモーント様が、小さく息をついた。その表情は翳りを帯びているようで、濃紫の瞳が伏せられた。


「世界が乱れれば信仰心も潰えていく。人が神を信じなければ、僕達の力も弱くなり世界に手も届かなくなる。悪魔はそれを狙っているんだ」

「それは悪魔が影から生まれているからでしょうか」

「そう。悪魔は人を堕落させ、神の力を削ごうとする。そうすればケイオス主神の封印だって弱まるからね」


 やっぱり悪魔は影から生まれていた。

 人の悪意や恨みを糧にして、シャルテは復活しようとしている?

 

「アルトさんの言う通り、勇者の後もないですね。あの人も手段を選ばないとなれば、何をするか……」


 思わず溜息混じりの声が出る。

 わたしに何が出来る? まずは何をしなければならないのか。


「勇者とマティエルを捕まえないといけないですね」

「マティエルが勇者と行動を共にしているといいんだが。勇者の所在確認はエールデ教うちでしているから、とりあえず大神殿に戻った方がいいな」


 冷めた紅茶をアルトさんが一気に飲み干した。

 そうだ、まず出来る事からやらなくては。


「モーント様、わたし達はそろそろ失礼します。……リュナ様を宜しくお願いします」

「うん、それは任せて貰って大丈夫。君達も気を付けるんだよ」


 立ち上がったわたし達を見送るためか、モーント様も立ち上がる。

 その声はいつもと同じで優しいけれど、瞳が揺れる。


「……そういえば、モーント様。ひとつ伺っても?」

「何かな?」

「悪魔は人を堕落させ悪意や恨み、澱みを糧にするのなら……悪魔の血を引くわたしも、いつかはそうなるのでしょうか」


 悪魔の父を思い出す。

 わたしの前ではそんな素振りは全く見せなかったけれど、父も悪魔の本能と戦っていたのだろうか。わたしもいつか、そうなってしまうのだろうか。


 わたしの問いに、虚をつかれたようにモーント様が目を瞠る。それも一瞬で、すぐに穏やかな笑みを浮かべてくれた。ゆっくりと首を横に振る。


「ドゥンケルと悪魔の関係を聞いているかい?」

「悪魔を改心させ、働かせていると……」

「そう。改心した時点でドゥンケルの加護を受けているからね、悪魔の本能に苛まれる事はないよ」

「……安心しました」


 安堵したように吐息を漏らすと、アルトさんがわたしの腰に手を回した。悪魔の本能を知ってしまって、ショックを受けていると思われているのかもしれない。それで体を支えてくれている? ……恋心をしっかりと自覚した身としては、多少なりとも恥ずかしい。

 それでもその手を振りほどく事なんて出来るわけがなくて。


「クレア、気を付けるんだよ。アルフレート君、クレアを宜しく頼むね」

「お任せください」

「では失礼します。モーント様もサンダリオさんもお気を付けて」


 手を振ってくれるモーント様と、頭を下げるサンダリオさん。わたしはアルトさんに寄り添ったまま、意識を集中させた。魔力も問題ないようだ。

 浮遊感に体を預ける。空間が揺らいで、わたし達は見慣れた大神殿の入口にいた。




 すぐにでもヴェンデルさん達に詳細を報告したかったのだけど、ネジュネーヴェ王からの使者が来ているらしく、ヴェンデルさんもライナーさんも、レオナさんにも会えなかった。

 仕方なくわたしとアルトさんは、わたしの部屋でその会談が終わるのを待つことにしたのである。


 軽食を頂いたけれど、まだお昼前。

 わたしは一の月アインスから転移をして、気を失ってから朝まで眠っていたらしい。それは魔力も体力も回復しているはずだ。しかし――


「アルトさん、休んでないですよね?」


 この超人はわたしにずっとついていてくれたんじゃないだろうか。

 わたしがいつ目覚めるかもわからないから、きっと自分は眠らずに。


 そう問うも、わたしと並んでソファーに座っている彼は何でもないと言ったように笑うばかり。


「問題ない」

「いやいや、休んだ方がいいですよ。ヴェンデルさんの時間が空いたら、教えてくれるって言ってましたし休みましょう」

「俺はいいから、お前が休め」

「だめですって。ベッド使っていいですから寝てください」

「おい」


 呆れたように溜息をつかれてしまうけれど、絶対に休んだ方がいいと思う。一の月アインスでマティエルと戦って消耗しているだろうし。


 アルトさんはしばらくわたしを見つめていたけれど、わざとらしい程に盛大な溜息を深く吐いてから寝転がった。

 わたしの、太股に、頭を乗せて。


「……アルトさん?」

「お前のベッドで寝られるわけないだろう。お前はもう少し考えて物を言え」

「え、いや、その……そんな事より」

「重くなったら下ろしていいぞ。おやすみ」


 アルトさんはヘアバンドを取って手に握ると寝返りをうち、わたしに横顔を見せる格好で目を閉じてしまった。

 休んでほしいと言ったのはわたしだけど、これは……えぇ?


 わたしが内心で大混乱に陥っていると、静かな寝息が聞こえてきた。

 えー……もう寝てるー……。



 わたしはアルトさんの髪に触れた。癖のない、少し硬めの髪。群青色が光を浴びて輝いているのが綺麗だと思った。

 エルフ特有の尖った耳。長い睫毛。通った鼻筋。少し開いた薄い唇からは寝息が漏れている。

 わたしはアルトさんの頬に指を滑らせ、顎のラインをなぞってから喉仏にそっと触れた。

 鼓動が早まる。アルトさんの寝顔を見たのは、別に初めてだというわけでもないのに。



 顔が熱い。この体勢のせいだろうか。

 もう寝顔を見るのはやめよう。わたしの心臓がもたない。



 眠れそうにないわたしは、ソファー横のミニテーブルに積んでいた本に手を伸ばした。

 レオナさんが貸してくれた恋愛小説と、花言葉の辞典。


 表紙に描かれているハナミズキが綺麗な辞典をぱらぱらとめくる。辞典といっても厚いものではないから両手で持てば辛くない。さすがに寝ているアルトさんの頭に本を乗せるのは……と自重した。


 挿絵も色鮮やかで、わたしはひとつの花に目を留めた。

 薄いピンクや黄色の小さな花が可愛らしいそれは、リナリア。花言葉は――【この恋に気付いて】


 鼓動が跳ねた。

 索引を便りに、他にも花言葉を調べていく。

 アイビー――【執着】

 キキョウ――【永遠の愛】


 これは……。心臓がばくばくと喧しい。

 アルトさんにも聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに、鼓動が跳び跳ねている。顔が熱い。


 わたしは辞典を閉じるとそれをテーブルに戻した。

 深呼吸を繰り返すと、足まで揺れたのかアルトさんがまた寝返りをうつ。仰向けになって穏やかに寝ている姿に、その鼻を摘まんでやりたくなるけれど、指先まで熱を持っているようだからやめることにした。


 他意は……ないんだろうか。

 この超人なら花言葉だって理解していておかしくないけれど、これは偶然? 

 そういえば、前に頬に……あの時、アルトさんは何と言っていた?


『期待してもいいのか』


 期待ってなに。

 これだとまるでアルトさんが、わたしを……?


 頭まで沸騰しそうになる。

 わたしは目を閉じて、背凭れに深く体を預けた。もうわたしも寝てしまおう。花言葉を知っているかなんて、アルトさんに聞く勇気もない。


 でも、幸せな夢を見られそうだと、そう思った。

 手に触れる少し硬い髪の感触を楽しみながら。

 

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