129.一の月―悪意と呪術
リュナ様の神気を強く感じる場所。
それは最上階にある、ひとつの部屋だった。この宮殿の造りからして、玉座の間などではない。恐らく私室。
そんな場所に黙って入っていいものなのか不安にはなるけれど、ここまで来たら入るしかない。
「……守兵などはいないんだな」
周囲を見回したアルトさんが呟く。
確かに、この部屋の前には誰もいない。わたしは気配を探るけれど、部屋の中からはリュナ様の神気以外に感じられない。
人払いをしているんだろうか。……御付きの天使とかもいないで? それは怪しすぎないか。
扉に手を掛けようとしたわたしを制し、アルトさんがわたしの前に立つ。アルトさんはゆっくりとドアノブに触れたけれど、鍵はかかっていないようだ。何か仕掛けがある様子もない。
音も立てずにドアは開かれた。
広い部屋だった。部屋の中央に飾られたシャンデリアに灯りは点っていない。
部屋の壁に掛けられたランプと、テーブルに置かれたランプにだけ光量を絞った炎が揺れている。調度品の影が伸びる中で窓際に置かれたラタンチェアが揺り動く。
それはゆったりと包む込むように作られた大きな椅子だった。背中にあてられたクッションには白地に金で百合の刺繍がしてあるように見える。
そこに座っていたのは、波打つ白銀の髪を腰まで伸ばし、濃紫の瞳を持った美しい女神だった。
「……リュナ様」
初めて見るけれど、間違いないと分かる。
モーント様によく似た相貌なのはさすが双子神というところか。
わたしは一歩、その椅子に近付いたところで――足が全く動かなくなってしまった。
「……ひ、っ……」
喉が強張る。
体が震える。
瞬きさえ出来なくて、乾いた瞳からは意識とは関係なく涙が溢れる。
「クレア、どうした」
魔導具に流していた魔力が途切れる。その瞬間、わたしの姿は露見したけれどそれを構う余裕さえなかった。
アルトさんに顔を向ける事も出来ない。息が苦しい。
怖い恐いこわいこわいこわいこわい――
「クレア、大丈夫だ。俺がいる」
アルトさんも魔力を遮断させて、わたしの前に姿を現す。わたしの前に立ち、わたしの肩を両手で掴み、わたしを真っ直ぐに見つめてくれる。
その東雲の瞳を見つめているうちに、わたしは何とか呼吸を取り戻した。未だに体は震えるし、恐ろしくて堪らないけれど。
「アルト、さ……あれ、だめです。あれ……」
わたしは震える指で、椅子の隣のサイドテーブルを指差した。そこにあるのは変哲もない普通のランプ。強いて言えばフェガリのステンドグラスが使われているくらい。
でもそのランプに灯されている炎は、暖かみの欠片もなく凍える程に
黒い炎が燃えている。
光さえ奪う、呪いの炎。
悪意の塊がそこにはあった。
「呪術か。お前は呪い耐性が低いんだったな」
「こ、こわして……っ、くださ……」
「分かった、ここにいろ」
アルトさんはわたしをテーブルから離して床に座らせると、テーブルへと近付く。
リュナ様は全く動かない。わたし達の存在にも気付いていないように、その紫の瞳は虚空のみを見つめている。
リュナ様の瞳には、光がない。美しい人形のように、そこにいるだけ。その眼差しに心はない。
アルトさんは剣を抜くと、剣の柄でランプを叩き割った。
それでも炎が消える事はなく、テーブルの上で不気味にゆらゆらと揺れている。まるで意思を持つように。
アルトさんはその炎に片手を向けると、小さく呪文を詠唱する。全てを聞き取る事は出来なかったけれど、エールデ様のお力を借りているようだ。
炎に向けた片手が強く光を放つ。エールデ様の神気が炎を包むと、その悪意は次第に存在を滅せられていく。
炎が消える刹那、断末魔の絶叫が頭に響いた。本当に声として発せられたものではなく、ただ悪意が最後に足掻いたものだった。
それでも呪いにあてられやすいわたしにダメージを与えるには充分だった。
わたしは込み上げる吐き気に顔を顰めて息を止める。そんな中に。ふわりと花香が漂って少し気分が良くなった。エールデ様の神気の残滓だ。
「クレア、大丈夫か?」
「……なん、とか。……あれはだめですねぇ」
リュナ様はと目を向けると、意識を失っているようでくたりとクッションに体を預けている。
わたしはアルトさんの手を借りて立ち上がると、リュナ様へと近付いた。両手を翳してその状態を確認すると心がひどい衰弱状態にあるのが分かる。
呪いを掛けられていた他にも、なんだろう……何か薬を与えられているような。そんな中毒症状が出ていた。
「これで良くなるかは分かりませんが……」
声が掠れているのに気付いて、わたしは空咳を繰り返した。喉の奥に何かがあるような不快感。それが呪いにあてられた名残なのは分かっている。
わたしは空間収納を片手で開くと、母のレシピで作った特製回復薬を取り出した。それをリュナ様の口元に寄せ、注いでいく。飲めなくても浸透していくから問題ない。
意識をすぐに取り戻すことはないだろう。他にわたしが出来る事はない。
「意識が戻るといいんですけれど」
「俺達は侵入者だからな。話を聞いて貰えるかどうか」
「うぅん、メヒティルデの娘だとアピールしてもだめですかねぇ」
「アピールする前に攻撃されたり、天使を呼ばれたりしてな」
「やだこわい。でもこのまま戻るわけにもいかないですしねぇ。せめてこの十七年間のお話を聞きたいところなんですが」
アルトさんはわたしの腰に手を回して、支えてくれている。いまだに足が震えている事が知られていて恥ずかしいけれど、正直助かるので手を借りたままにした。
しかしアルトさんの言う事も尤もだ。
叫ばれないように拘束……いやいやいや、ないない。
回復薬の瓶が空っぽになった時、不意にアルトさんがわたしの前に結界を張った。その瞬間、結界に弾かれたのは見覚えのある矢が一本。銀羽に紫を少し乗せた、美しい矢。
「どうやって入り込んだ、忌み子」
扉の側で弓矢を構えているのは、わたしと同じ色彩をした天使――マティエルだった。
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