106.穏やかな時間を共に
どうやって、おばば様の家からお暇したのかは覚えていない。
それどころか里を出た事さえ、記憶が朧になっている。
にこにこと笑うエルステの人達。温和で優しいけれど瞳の奥に潜む狂気に気付いたら、その笑顔が少し怖い。
わたしはどこかぼんやりとしながら、帰りの馬車で揺られていた。隣に座るアルトさんがその肩を貸してくれているから、有難く頭を預けている。
「……疲れたか?」
「いえ……わたし、笑えていましたか?」
「ああ、それは問題ないが。ああ……やっぱり、手が冷えているな」
アルトさんはわたしの手を取ると、温めるように摩ってくれる。
すべて彼に任せきりで、わたしは一体何をやっているんだろう。エルステに行きたいと駄々を捏ねたのはわたしなのに。交渉事も何もかもアルトさん任せだ。情けなさに溜息が漏れるばかり。
太陽は既に山の向こうにその姿を隠している。
冬の木々が暖かそうな金色に染まって美しい。幌車の中にも夕日の名残が差し込んでいた。二人分の影が長く伸びる。
行きの幌車に乗っていた観光客は、今日はエルステに宿泊するらしい。わたし達も勧められたけれど、次の予定があるからと断った。アルトさんが。わたしはただ笑っていただけだ。
馬車はわたし達だけを乗せて、国境近くの町まで走っている。着く頃には月が輝いていることだろう。
「すみません、何もかも頼ってしまって」
「その為についてきたんだ、構わないさ」
「でも、わたしが来たいって言ったのに……」
「了承したのは俺だ。それに来て良かったと思っているから気にするな」
「……来てよかったですか?」
予想外の言葉にアルトさんを見上げると、天鵞絨色の瞳でにこりと笑ってくれた。長い指でモノクルを軽く直すと、その指で今度はわたしの額を小突いてくる。
「ああ、色々知ることが出来たからな。戻ったら忙しくなりそうだ。今日くらいはゆっくりしよう」
今日も同じ町に泊まることになっている。
泊まって、明日の昼には大神殿に帰る予定。
「もう旅も終わりですねぇ。二泊三日、あっという間でした」
「楽しくはなかったかもしれないがな」
「そんな事なかったですよ。また旅に出たいですね」
「そうだな」
馬車の揺れが心地よくて、ふぁと欠伸が漏れる。それに気付いたアルトさんがわたしの肩を抱き寄せるものだから、それに抗えるわけもなく。わたしは寄り添うように体を預け直した。伝わる体温が気持ちいい。
「眠っていいぞ」
囁くような低音は優しい。
さっきまで冷えていた手は、アルトさんの温もりを分けて貰って彼の体温と同化している。わたしは両手で彼の手を包むとぎゅっと握った。
「町まであとどのくらいですか?」
「一時間程だろう」
「じゃあ、少しだけ眠らせてください。昨日もちゃんと眠ったはずなんですけどねぇ」
「気を張っていて疲れたんだろう。おやすみ」
宥めるように頭を撫でられると、瞼が重たくなってくる。わたしはゆっくりと目を閉じると優しい眠りへと落ちていった。
夢の中だとわかっている。
それでもわたしは戸惑いを隠せないでいた。
陽光が煌めいて降り注ぐ、穏やかな森の中。白く可愛らしい東屋の中にはエールデ様がいて、お茶を楽しんでいる。とても静かで、美しい場所だった。
緑の匂いが鼻を擽る。
「何をしている。こちらに来てお茶を飲もう。わたしが手ずから淹れたお茶なんて、滅多に飲めないぞ」
悪戯に笑いながら手招きをするエールデ様。夢だと分かっているのに、頬を撫でる風も、踏みしめる草の感触も現実のようだった。
「エールデ様、これは夢ですよね?」
「そうだ、夢だ。お前の夢に少しお邪魔させて貰った」
わたしの夢に介入してきたと。勇者にされたことを思い出して、少々げんなりしてしまったのは仕方がないことだと思う。だけどあの時とは違って、明るくて爽やかな空間だった。
「エルステはどうだった」
「何でもご存知なんですねぇ」
「私を誰だと思っている」
それもそうだとわたしは笑いながら、エールデ様の前に腰を下ろす。出された紅茶は花の香りがした。
いつもの幼い姿ではないエールデ様は、呼吸を忘れてしまう程に綺麗だった。流れる白銀の髪を背に払う指先も嫋やかで、薄桃色の唇が艶やかに弧を描いている。
「エルステは妄信的で、なんだか少し怖いところでしたねぇ。……色々調べたい事も出来ましたし」
「シャーテの事だな」
「……教えては下さらないんでしょう?」
「ヴェンデルに幾つか教えておく。調べて貰うといい」
「ありがとうございます」
わたしはカップを口に寄せた。花蜜が仄かに甘い。
「エールデ様、ケイオス様ってどんな方なんですか?」
主神ケイオス。
混沌より生まれ出でて、この世界の創造主。エールデ様の夫でもあるが、そのお姿をわたしは見たことがない。
「彼はお前が生まれるよりもずっと昔から眠っているからな。穏やかなひとで、この世界に生きるすべてのものを愛しているよ」
「どうして眠っているんですか?」
「お前達ならそれも調べられるさ」
この件について、エールデ様が直接教えてくれることは無さそうだ。
それにしても。夫であるケイオス様のことを口にするエールデ様は、いつも以上に美しく見える。
穏やかな時間だった。
他愛もない話をしては、お茶を楽しむ。心が落ち着いていくの感じているうちに、世界が光に包まれて……。「またな」とエールデ様が笑うのを最後に、夢は終わりを迎えたのだ。
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