45.存在を閉ざせ、幻想を滅せよ

 庭園の片隅。

 よく陽も当たるその一角も勿論雪で覆われている。朝日を受けて煌く真白。


 わたしの前に影が伸びるよう、太陽を背にする。まだ勇者の気配はしない。


「アルトさん、わたしの影にそのナイフを刺してくれますか?」

「わかった」


 頭、両肩、胸、腹部、両足。

 わたしの指示した通りに、アルトさんが影にナイフを落とす。わたしが動くともちろん影も動くから、アルトさんに手伝って貰えて本当に良かった。



 わたしは両手を影に向かって翳す。

 魔力を掌に込めて、呪文を詠う。


 人の耳には言葉として認識出来ない唄。紡がれるのは人が口に出来る旋律ではない。

 魔力を帯びた風が吹いて、髪が舞うのがわかる。瞳が燃えるように熱を持つ。


 体中の魔力が沸き立つような感覚。寒いのかもしれないし、暑いのかもしれない。不思議な感覚に体が震える。

 詠唱は風に溶け消えない。わたしの詠う呪文は幾何学的な模様となって影に落ちていった。



存在を閉ざせオクルスエッセ幻想を滅せよペリビトイドゥーラ



 魔力が収束していく。最後の詠唱を口にすると、わたしの影から黒煙が立ち上ってきた。その黒煙にも詠った模様が張り付いている。

 それは人の形を成せずに、ぼろぼろと崩れていく。何度も人の形を取ろうとするがそれは絶対に出来ない。これはわたしの詠った呪文で引きずり出された、呪の術式だ。わたしが両方の拳を握り締めるとそれは簡単に霧散する。


 煙が消えた後、影に刺さっていたナイフがずるずるとわたしの影に飲み込まれていく。銀の柄が輝くと、ナイフ同士が光糸で繋がれ、わたしの影の形に添っていく。最後までナイフを飲み込んだ場所が一際強く輝くと、高いとも低いともいえない不可思議な音が響いて、それで終わりだった。



 快活な声が神殿から聞こえるけれど、それもどこか遠いことのようだ。


「……つっかれたぁ……」


 久し振りにこんなに大きな魔法を使った。もう疲れた。眠っていないしお腹も空いた。


「今のは……?」

「とりあえず支えてください。……ついでに中に連れていってくれると助かるんですが」

「お前なぁ……」


 呆れたように溜息をついていても、アルトさんは優しいと知っている。実際、歩けそうにないのだから甘えるしかない。


「小麦袋みたいに抱えてでいいですから」


 小脇に抱えて運んで貰えたらそれでいいんだけど。魔力の消費が半端じゃなくて、正直なところ、いまにも倒れそうなのだ。こんなところで倒れたら風邪を引いてしまう。


「そんな事出来るわけないだろう」


 アルトさんはまた溜息をつくと、片手を背中に、逆手を膝裏に添えて軽々とわたしを抱き上げてしまう。


「お手数かけます……。いやぁ、だいぶ魔力を持ってかれちゃいましたねぇ……」

「とりあえず中に入るぞ。何か食べないと、今にも倒れそうな顔をしている」


 雪を踏みしめる足音が耳に響く。いつもより早足で、アルトさんは神殿内へ向かっていった。わたしはその腕の中で、ぐぅぐぅ鳴るお腹を抱えていたのだった。



 途中、行き会った見習い神官の少女に、アルトさんが何か頼んでいるのは分かった。だけれども半分眠りに落ちていたわたしは、それが何だかは分からない。

 どこに向かっているのかも分からず、ただぼんやりと心地のいい波間をたゆたっているようだった。お腹はぐぅぐぅ鳴っていたけれど。



「座れるか?」


 声を掛けられゆっくりと目を開ける。周りを見るとわたしの部屋だった。

 促されて椅子に座ると、ふぁと欠伸が漏れてしまう。


「うぅ……お腹空きましたぁ……」

「ずっと腹の音が鳴ってたぞ」

「デリカシーがないですねぇ。魔力が無いんですよー。何でもいいから食べないと倒れちゃいます」

「ちょっと待ってろ」


 そう言いながらも、アルトさんは部屋を出る気配は無い。

 アルトさんも疲れているだろうに、随分と付き合わせちゃったなぁ……濃い一日だった。まだ終わってないけど。むしろまだ朝だけど。


「アルトさんも疲れましたよね。すみません、ずっと付き合わせちゃって」

「気にするな。付いていって良かったと思っているからな」

「そうですねぇ、来て貰えて助かりました。わたし一人だったら、泉で勇者に連れて行かれていたかも」


 へらりと笑って見せるけれど、それを聞いたアルトさんは厳しい顔をしている。


「お前は……今まで、こんな問題に一人で対応していたんだな」

「そうですけど今が特別ですからね。こんなのは今まで無かったんですから」

「……この神殿にいなければ、勇者に目をつけられる事もなかったんだろうか」

「…それは詮無い事ですよぅ。いつかは同じように出会っていたかもしれない。出会わなかったかもしれない」

「しかし……」

「違う場所で勇者に会っていたら、わたしは最初の邂逅でその手に落ちていたでしょうね。でもここでお世話になって、アルトさんが護衛についてくれたからこそ、いまこうして無事で居られるんです。迷惑をかけている自覚はあるので、それは申し訳ないんですけど」

「…………」


 アルトさんはまだ納得していないようで、眉を下げている。その瞳が揺れているのは分かるけれど、感情は上手く読み取れない。


「そんな事より重大なのは、いま、わたしが空腹で倒れてしまいそうな事です」


 真面目に言ったつもりなのに、アルトさんは声をあげて笑う。本当に深刻なんだけれど伝わっていないんだろうか。というかアルトさんはお腹空かないの? 眠くないの? 超人なの?


「くくっ、そうだな。今お前の側にいるからこそ、その空腹も何とかしてやれる」


 アルトさんの声に応えるかのように、部屋にノックの音が響いた。

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