第151話 これはお返しします

「――では、今日の所はこの辺で。忙しくなりますが、お互い頑張りましょうね」


 とんとん、と書類をテーブルでそろえて立ち上がったミリアは、アルフォンスに握手を求めた。


「はい」


 アルフォンスがその手を柔らかく握る。


 握手は強く握るのがマナーだが、それをアルフォンスが知らない訳はない。


 手袋越しに手に包帯が巻かれているのを感じて、ミリアは胸が痛くなった。


 握り続けた手綱たづなによってり傷ができたのだろう。


 ミリアも気遣って柔らかく握るに留めた。


「明日はちゃんとお茶を用意させますから」

「私は菓子を用意します」

「駄目ですよ、私たちは喧嘩けんか中なんですから」

「私はリアに許しをう立場ですから、そのくらいはしておかないと」

「それはそうかもしれないですが……」


 アルフォンスには対立している方が効果があると主張したのだが、なぜか譲ってくれなかった。


 扉まで見送った所で、アルフォンスが振り返って両腕を広げた。


「リア」


 妙に甘い声で呼ばれる。


 ミリアはアルフォンスを制止するように手の平を向けた。


「これからはハグは無しで」

「どうしてですか?」

「どうしてって……」


 婚約破棄をすると決めたからだ。


 せっかく覚悟を決めたのに、そんなことを続けていたら決心が揺らいでしまう。


 そして揺らいだところでもう引き返せない。それなら下手に揺さぶられたくない。


「私はリアの婚約者です」

「破棄を宣言したんですよ」

「それでもまだ婚約者です。宣言は表向きのパフォーマンスでしょう? それに、これは友情の抱擁ほうようだったはずです。私たちの間には友情もなくなってしまったのでしょうか」

「そういうわけではないですが……」

「では」


 ずいっとアルフォンスがミリアとの距離を詰めた。


 体が触れるか触れないかの位置で、両腕を広げたままでいる。


 ミリアは観念してアルフォンスに体を預けた。


 少しだけ。もう少しだけ。


 アルフォンスがミリアの背中に腕を回す。


 思ったよりも強く抱きしめられて、ミリアが体を震わせた。


 アルフォンスの背中にそっと手を当てると、アルフォンスがミリアの首筋にため息を落とす。


 服越しに体温が伝わってくる。胸に当てた耳には、アルフォンスの規則正しい心音が聞こえてきた。


 心もち速く聞こえる気がするのは、ミリアの鼓動こどうが速くなっているからだろうか。


 久しぶりの触れ合いに、ミリアは泣きそうになった。


 嬉しい気持ちと悲しい気持ちがごちゃごちゃになっている。


 アルフォンスに包まれている喜びの分だけ、もうすぐ失うのだと思う悲しみが大きくなる。


 つん、と鼻の奥が痛くなった。


 泣くのをこらえようとしてアルフォンスの背中の手に力を込めると、アルフォンスがそれにこたえるようにさらに強く抱きしめてきた。


 これまでのように猫がすり寄るような仕草は見せずに、ミリアの頭にほほをつけたまま、ただミリアを腕の中に閉じ込めている。


「アルフォンス様、もう……」

「あと少しだけ」


 ミリアが離れようとしたが、アルフォンスは腕を緩めなかった。


「でも、あまり時間が」

「そうですね」


 そう言いながらも、アルフォンスはミリアを放さない。


 しばらくして、アルフォンスはめた息を吐くようにして体の力を抜いた。


「絶対に……しません」

「え?」


 耳元でつぶやいたアルフォンスは、名残なごり惜しそうにミリアから離れた。


「では、また明日」

「はい」


 アルフォンスが言葉を繰り返すことはなく、ミリアは手を小さく振って見送った。




 * * * * *



 アルフォンスの行動は速かった。


 ミリアが伝えた麦の規制のこれまでの経緯と現状、商会の従業員が秘密裏に集めていた麦角ばっかく病の情報を使い、二、三日のうちには体制を整えた。


 従う者たちもさすがカリアード家に仕える人間だ。適切な指示が出れば見事に動いて見せた。


 農地が多くを占める広大な土地を統制するというのは容易なことではない。


 正直ミリアが同じ立場にいたとして、ここまで迅速じんそくに物事を進められたかと言うと、おそらくできなかっただろう。


 カリアード家の威光いこうとアルフォンスの手腕のなせるわざだった。


 そして今日もアルフォンスは商会支部にやってくる。


「また来たんですか」


 ミリアは腕を組み、ため息でもってアルフォンスを出迎えた。


「それはもちろん、領主代行としては、商会代表のリアとの交渉を粘り強く続けなければなりませんから」

「では、それはなんですか?」


 にこりと笑ったアルフォンスの腕には、花束があった。――白バラの。


「これはリアへの贈り物です。どうか受け取って下さい。私が育てたものではありませんが、自分で選んで切ってきました」

「要りません」


 差し出されたそれを、ミリアはすげなく断る。


 アルフォンスは一瞬悲しげな顔をしたあと、アルフォンスに見とれてぽーっとしていた女性従業員の前に歩み寄り、花束を手渡した。


「リアの部屋に飾って下さい」

「はっ、はい……」


 受け取った職員はうわごとのように返答した。うるんだその目は、アルフォンスに釘付けだ。


 わかる。わかるよ。


 あんな笑顔で花束渡されたら、そうなるよね。すっごくよくわかる。


 ミリアは内心で、うんうん、とうなずきながら、アルフォンスには冷たい目を向け続けた。


「何を持ってこられても、私は婚約破棄を撤回しませんよ」

「いいえ、これは訪問にあたっての手みやげです。そのような下心はありません」

「……嘘つけ」


 いけしゃあしゃあと言うアルフォンスに、ミリアはぼそりと毒づいた。


 ミリアが、お金で手に入るものしか贈ってこない、と言ったのを気にして、少しでも自分が手を加えたのだとアピールしている。


 そして白バラの花束であることは、その花言葉の通り、自分こそがミリアに相応ふさわしいとの主張にほかなく、暗に婚約破棄の撤回を求めている。


 つぶやきは絶対に聞こえたはずなのだが、アルフォンスは笑顔をやさなかった。


 周囲の野次馬は、いまだにその笑顔に慣れないらしく、目を白黒させている。


 アルフォンス・カリアードといえば、無表情、もしくは不機嫌そうな顔、もしくは眉をしかめているというのが平常運転だ。


 己にも他人にも厳しく、終始冷え冷えとした空気をまとっていたはず。


 そのアルフォンスが笑顔を見せ、柔らかい空気と甘い声を出している。


 婚約者にぞっこんであることは、誰がどう見ても明らかだった。


 なぜミリア・スタインと婚約を、と思っていた者たちも、これを見せられては何も言えない。


 カリアード家に相応ふさわしいか。家に利益をもたらすか。


 そういったことの一切がなかったとしても、アルフォンス自身がミリアを欲している。


 なぜミリアにそこまで、という疑問はあったとしても、恋とは明確に理由のあるものではないのだし、少なくともこれまでは、カリアード伯爵もアルフォンスの気持ちを尊重していたということになる。


 ここまでくると、どうしてミリアはアルフォンス・カリアードの求愛をここまではねつけるのか、という疑問さえも浮かんでいることだろう。


 なかなかの役者だ、とミリアは感心していた。


 正直、アルフォンスにここまでの演技ができるとは思っていなかった。


 学園での様子とは雲泥うんでいの差だ。


 卒業してから多少表情筋が緩むようになっていたからこその芸当だろう。


「ああ、そうそう」


 ミリアが急に笑顔を向け、アルフォンスに歩み寄った。


 そしてその手を両手で取る。


「これ、お返ししますね」


 ミリアが一歩下がった後、アルフォンスが手を開くと、そこにはネックレスがあった。


 ダイヤモンドで白バラをかたどり、エメラルドの葉がついた――。


「これはっ」


 焦った声が上がった。


「ええ、アルフォンス様がプロポーズの時に下さった白バラのネックレスです。私にはもういりませんから」

「そんな……」


 アルフォンスは手の上のネックレスを茫然ぼうぜんと見た。


「アルフォンス様、領主代行としてでしたらどうぞ。婚約者として来たのなら、お引き取り下さい」


 ミリアは冷たく言うと、奥へ繋がる扉に入っていった。


 はっと我に返ったアルフォンスが、その後を追う。


 廊下を抜けて、ミリアの執務室に入った時。


 ソファへと進むミリアとの距離を詰めて、アルフォンスはミリアに後ろから抱きついた。


「きゃっ」


 びっくりしたミリアが思わず声を上げ、反射的に抵抗したが、アルフォンスは放そうとはしなかった。


「ど、どうしたんですか」


 相手がアルフォンスだとわかって落ち着いたミリアは、アルフォンスの両腕に手を掛けて聞いた。


 ハグをするのはいつも別れぎわだし、背後からというのは初めてのことだ。


 表面上は平静でいたが、心臓はばくばくと鳴っていた。驚いたせいだけではない。


 後ろから包み込まれるようにされていることに、どきどきした。


「これは持っていて下さい」


 目の前で開かれたアルフォンスの手。その上には、さきほどミリアが返したネックレスが乗っていた。


「婚約を解消するんですから、どのみち返すことになるじゃないですか」

「私はまだリアの婚約者です。どうか、リアが持っていて下さい。――最後の日まで」


 声を絞り出すようにアルフォンスが言い、ぎゅうっ、とミリアの体に回した腕の力を強めた。


「ま、まあ、いいですけど……」


 ほっとしたようにアルフォンスが腕の力を緩める。


 婚約のあかしである白バラのアクセサリーを衆目の場で返せば、かなりインパクトがあるだろうと思ってやっただけだ。


 その裏で実際にどちらが持っていようと関係ない。


 アルフォンスとしては、求婚したのは一応自分な訳だし、それを突き返されるというのはプライドが結構傷つくのかもしれない。


「なくすと怖いので、つけてもらえますか?」

「ええ、もちろん」


 ミリアが後ろの髪を持ち上げて頭を下げると、アルフォンスがミリアの首にネックレスを回した。


「できました?」


 カチリと金具の音がして、ミリアは聞いた。


「まだです」

「っ!」


 ミリアはびくりと肩を跳ねさせた。答えたアルフォンスの口が思ったよりも近くにあって、吐息といきがミリアの無防備なうなじをくすぐったのだ。


 アルフォンスの手がおくれ毛を上げるように首をなでる。


 そこにそっと柔らかいものが押し当てられた。


「できました」


 言われたミリアは首の後ろを押さえつつ、ぱっとアルフォンスを振り返った。


 なになに、今の何!?


 ミリアが顔を赤くしてアルフォンスを見る。


「何か?」


 アルフォンスはミリアの様子をいぶかしんでいるようだった。


 気のせい……?


 いや、気のせいに決まっている。


 アルフォンスがミリアの首にキスをするなんて――。


 背を向けて熱くなったほほに手を当てたあと、ミリアはかけてもらったネックレスを服の下に仕舞った。


 

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