第145話 これが最良です
王宮に到着したミリアは、ギルバートの部屋に急いだ。約束はもちろんしていない。でもミリアが緊急だと言えば、ギルバートは部屋に入れてくれるだろう。
言うかどうかはまだ迷っていた。
鬼気迫る様子で廊下を行くミリアを見て、すれ違う人たちは道を開けていく。
そこへ、ローズが通りかかった。王宮で一人で歩いているのは珍しい。
「まあ、ミリア様、どうなさったの?」
「ローズ様……。何でも、ございません」
「何でもないようなご様子ではありませんわ」
「お仕事で、少々ミスをしてしまって」
ミリアはとっさに嘘をついた。
「ですが、大したことはございません」
微笑もうとしたミリアは、しかし失敗した。それどころか、声を出したことで感情が高ぶり、ぽろりと涙をこぼしてしまった。
一度緩んでしまった
「ミリア様、ひとまずこちらへ」
泣き顔をさらしたままにはできない。ミリアはローズの
ローズがハンカチを取り出して、ミリアの涙を
「本当に、何がありましたの? ミリア様が涙を流すなんて、よほどのことでしょう? お仕事のことではありませんね?」
学園で気丈に振る舞い続けたミリアを見ていたローズは、ミリアがちょっとやそっとのことでは負けないことを知っていた。
「ローズ様っ、私――」
優しい言葉をかけられて、ミリアは思わず打ち明けそうになった。だが、その言葉をぐっと飲み込んだ。
言ってもいいのだろうか。
言えば取り返しのつかないことになる気がした。
だけど、私一人じゃどうしていいかわからない……!
ミリアはすがるような目でローズを見た。
「カリアード領で問題が発生しています。今すぐに対処をしなくてはなりません」
ミリアは声がひっくり返ってしまわないよう、ゆっくりと
ローズは眉をひそめた。
「問題ですって? どのような?」
「申し上げられません。カリアード家も対処はしているようですが、方法を間違えています。ですが、アルフォンス様も伯爵様もいらっしゃらなくて、カリアード夫人とお会いすることもできませんでした。お二人がお戻りになるのを待つべきか、ギルバート様にご報告するべきか迷っています」
「ギルバート様にご報告ということは、深刻な事態なのですわね?」
「はい。ですが、ギルバート様の
「問題の内容と程度によりますが、ギルバート様が動かれる事態となれば、自領で問題を起こしたことと、事態を収拾できなかった責任が問われますわね。政敵に格好の攻撃材料を与えることになりますわ」
「はい」
ミリアは目を
「ですが、このまま私が黙っていれば、秘密裏に収拾することができるかもしれません」
アルフォンスたちが帰ってくるまであと十日あまり。急ぎ連絡を送ったとして、早くて五日か六日。その間、口を閉じていればいい。
「なら、どうして迷っていらっしゃるの? ミリア様はいずれカリアード家に入るのですから、カリアード家を守る方法があるのなら、そうするべきですわ」
わかっている。わかっているけど――。
やっぱりわたしには黙っていることなんてできない……!
だからこそミリアはギルバートの部屋に向かっていたのだ。報告しないなんて選択肢はない。
たとえカリアード家を不利な状況に
伯爵は激怒するだろう。あろうことか、アルフォンスの婚約者たるミリアが裏切るのだ。アルフォンスもミリアに愛想を
きっと婚約は破棄される。
「事情を存じ上げないわたくしには、これ以上のことは申し上げられません。お決めになるのはミリア様です。何かわたくしにできることはございますか?」
ギルバートが命令を下すのならば、ローズに頼めることは何もない。ハロルド領にカリアードの麦が出回っているのなら回収して欲しいが、それはギルバートから直接侯爵に要請が行くだろう。
「では、夫人にお伝え頂けないでしょうか。カリアード領の麦が病気にかかっていて、口にすると中毒症状を起こします。すぐに市場の麦を全て回収しなくてはなりません、と」
せめてギルバートが命令を下すよりも先に知っておいて欲しかった。
ローズは息を飲んだ。
「カリアードの麦に毒が? 本当なのですか?」
「はい……」
「それでミリア様は迷っていらしたのね……。わたくしが夫人にお伝えすれば……いいえ、夫人は伯爵の指示を待ちますわね……領地経営には携わっていらっしゃらない方だから……」
ミリアの目に、再び涙がたまっていく。
「私、何もできなくて……アルフォンス様の婚約者なのに、何も……」
もしエルリックの手紙を早く見ていたら、ここまで大事になる前に気づけたかもしれないのに。そしたら、アルフォンスがいる間に伝えることができたのに。
貴族令嬢らしくなるための努力なんて、何の役にも立たない。それどころか、足を引っ張っている。
「しっかりなさいませ!」
ローズがミリアの肩を強く握った。
「ミリア様にできることならありますわ。いいえ、これはミリア様にしかできません」
「私にできることなんてありません」
ミリアにカリアード家を動かす力はない。誰もミリアの話なんて聞いてくれない。アルフォンスの婚約者などという肩書は、なんの効力も持っていなかった。
涙に濡れるミリアの目を、ローズはきれいな青い目でのぞき込んだ。
「何をおっしゃっていますの、ミリア・スタイン。あなたは、アルフォンス様の婚約者の前に、スタイン商会の会長の娘でしょう?」
ミリアははっとした。
ローズはミリアに言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「ギルバート様にご報告しても、ただちに対処の
できる。
ミリアは、事態を収めるために必要な段取りを、即座に頭の中で組み立てた。
スタイン商会はカリアード領の流通を一手に引き受けている。流通をただ止めればいい。すでに市場に流れてしまった分は買い戻し、できうる限り、カリアード産の麦を回収する。
だが、商会には
カリアード領の信用も落ちる。スタイン商会が
そんなことを勝手にしたミリアを、カリアード伯爵はどう思うだろう。余計なことを、と感じるしれない。貴族の娘が商人の力を使うことも良く思われない。
カリアード家を守るなら、黙っているのが最良であることに変わりない。
だけど――。
ミリアは別の方法を思いついた。
麦角病のことを悟られず、カリアード家の信用を落とすことのない方法を。
これなら損害は伯爵に請求することはできるだろう。カリアード家に恩を売ることができるのだから。
一つ目の方法、伯爵の要請を受けたことにしてミリアが勝手に動く。これは最悪損害を全て
二つ目の方法、ギルバートの
でも、第三の方法なら、損害は
ただしこれを実行すれば、スタイン商会の信用はガタ落ちする。ついこの間も、ストライキをしたばかりなのに。
でも、カリアード家を――アルフォンスを守ることができる。
フィンはわかってくれるだろうか。このミリアのわがままを。
ううん、選択の余地なんてない。
だって今も苦しんでいる人がいる。麦角を食べさえしなければ良くなる病気なのに。
たぶんこの方法が一番早く麦を回収できる。
私はミリア・スタイン。スタイン商会の会長の娘。その力を、立場を、最大限に利用する。
「ギルバート様にご報告に参ります」
ミリアは
* * * * *
「どうしたの? 急ぎの要件って何?」
思った通り、ギルバートはミリアをすぐに部屋に入れてくれた。
先約がいたが、ギルバートは彼らを追い出した。すれ違いざまににらまれたが、今はそれどころではない。
ミリアの目が赤いことにギルバートは気づいていたが、何も言わなかった。
「ギルバート様に重要なご報告がございます」
ミリアはギルバートに麦角病のことを説明した。カリアード伯爵とアルフォンスが不在であり、指示を出すべき人間がいないことも。
「根拠があいまいなのが気になるけど、ミリアがこれだけ必死になっているということは、本当なんだろうね」
「はい。
「すぐに調査に向かわせるよ。判明次第対処させる」
「場所と病状のリストはございます」
「それじゃあ十分じゃない」
ギルバートが首を振った。
「万が一
やっぱり、そうなるよね。
「スタイン商会には全面協力の上、申し訳ないけど責任も
ギルバートは、ミリアが黙っていることもできた、と暗に示した。
領民を、国民を守るのは貴族の務め。しかし、家を守ることもまた必要なのだ。立場が悪くなれば、領地を守ることもできなくなってしまうのだから。
それにしても、とギルバートが息を吐いた。手を額に当てて、目線を下げる。
「よりによってカリアード家か……。エドの立場が危うくなるな。根回しをしておかないと……」
「ギル」
ギルバートが顔を上げた。目を少し見開いている。ミリアが愛称を呼ぶのは久しぶりだった。
「私から提案があるの」
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