第138話 理想は遠いです

 それからミリアはますます令嬢教育にのめり込んでいった。


 時間はいくらあっても足りないのである。周りの貴族が生まれた時からずっと学んできたことを、ミリアは今から習得しようとしているのだ。


 明確な期限があるわけではない。


 だが、アルフォンスがいつ婚約解消を言い出すかわからない。


 その時に、せめて、何が足りないのか、と聞けるようにはなっていたい。今のままでは、嫌だとすら言えずに黙ってうなずくことになる。


 婚約解消の言葉をくつがえすことまでできなくとも、せめて、ここまでやったのだから、と自分を納得させるだけのものは手にしておきたかった。


 結果、ミリアの朝はさらに早くなった。


 アルフォンスが迎えに来る前に、様々なこと――特に芸術に関しての勉強をする。


 芸術品を紹介した本を読みあさり、その作品が作られた背景を学ぶために歴史書や文化の本を紐解ひもとく。


 王宮に向かう馬車の中でも、本は手放さない。


 小さな頃から揺れる馬車の中で読書をしていたから、石畳いしだたみの上を走っていても酔うことはなかった。


 わずかな時間が惜しかった。


 王宮の中にはそこら中に美術品が飾ってあって、教材にはもってこいだった。


 絵や陶器とうき、彫刻などの美術品を見かければ、そのたびに関連した知識を引っ張り出して復習した。


 昼休みも本を片手に昼食をとり、お茶の時間は王宮内の探索か読書、ギルバートの時間がとれればダンスを教えてもらい、時には音楽家まで呼んでもらった。放課後は屋敷で講義かレッスンで、休日にもとにかく詰め込んだ。


 大学受験の時でさえこんなに勉強しなかったと思う。


 芸術の良ししは正直わからない。それでも、作品の背景や作者のことがわかると作品を見る目も変わった。


 ジョセフとローズとのお茶会も継続している。

 

 ローズに再び会うにあたり、戦々恐々としていたミリアだったが、ローズはいつも通りの気さくな態度だった。ハロルド邸でのお茶会はミリアへのテストだったからなのだ、と安心した。


「リア、本日の休憩は……」

「申し訳ありません、アルフォンス様。今日も時間がとれませんの。報告書はルーズベルトに届けさせますわ」


 朝、迎えにきた馬車の中でおずおずと聞いてきたアルフォンスに、ミリアは本から視線を上げて丁寧に返した。


 言葉遣いを完璧に身に着けるために、普段から令嬢言葉でいることにした。


 公的な場でうっかり口にしてしまわないよう、アルフォンスの愛称呼びもやめた。男性が女性を愛称呼びすることには比較的寛容かんようだから、アルフォンスが呼ぶことは許している。


「できればリアから直接お聞きしたいのですが」

「報告書の内容では不足しているということでしょうか? それは申し訳ありませんでした。より詳細に記述します。不明な点がありましたら、ルーズベルトにおたずね下さい。答えられなければ、回答を後で届けさせます」

「……では、菓子を届けさせます」

「ありがとうございます」


 ミリアは目線を本へと戻した。


 馬車の中に沈黙が流れる。


「本日の休憩の時間の予定と言うのは……」

「ギルバート殿下にお目にかかります」

「ギルバート殿下、ですか……」


 アルフォンスが眉をひそめた。


「あの……明後日、近くの湖にでも行きませんか?」

「申し訳ありませんが、予定が入っていますので」


 ミリアは三度みたび顔をあげ、アルフォンスに答えた。


 休日の予定はびっしりとまっている。


 特に今度の休日は、学園で一時期交流を持っていた令嬢に連絡を取り、屋敷にある美術品を見せてもらう約束を取り付けたのだ。絶対に譲れない。


「では――」

「まだ何か?」


 ミリアは思わず嫌な顔をしてしまった。本が一向に読み進められない。


「……何でもありません」


 アルフォンスは目を伏せた。




「ミリア、所作しょさが綺麗になったね」

「まあ! 本当でございますか?」


 ダンスのレッスンを終えてお茶を飲んでいるときにギルバートに褒められて、ミリアは笑顔になった。


「言葉遣いも板についてきたね。ミリアがそんな口調なのには変な感じがするけど」


 似合わないのは自分が一番よくわかっている。


おおやけの場ならともかく、私的な場では友人として接してもらいたいってのが本音だよ。ミリアは僕の唯一の友達だからね」

「使い分けられるようになりましたら、そうさせて頂きます」


 優雅に微笑もうとして、ミリアは失敗した。顔が引きつっているのが自分でもわかる。


 ギルバートが苦笑した。


「笑顔はまだまだだね」

「精進いたします……」


 ミリアは顔を両手で覆った。


「そうそう、ミリアがこの間言ってたデルルトの絵画、倉庫から出したんだけど、見る?」

「見る! ……あ、拝見いたします」


 勢いよく返事をしたミリアは、言い直して小さくなった。


 くすくすとギルバートに笑われて、ますます恥ずかしくなる。


 不意打ちには弱い。つい素が出てしまう。


「自分を隠そうとしても上手くいかないよ。どっちも自分じゃないと。キャラを使い分けるんだ」


 ギルバートが言うと説得力があった。ミリアは嫌がらせのことを黙っていたことで怒らせた時の一度きりしか見ていないが、ギルバートがほわほわとした優しいだけの王子様ではないことは知っている。


「それができれば苦労もないのですけれど」


 しょんぼりとミリアは言った。


 十七年近くこの話し方できたのだ。日本では時と場所と場合によって敬語を使い分けていたし、商売の時に丁寧に話すことはできるのだが、令嬢言葉はそれとはまた違った難しさがあった。日本語とどう違うのかという説明は難しいが、文法からして違うのだ。


 そんなやり取りをしている間に、侍従が絵画を運んできた。


 デルルト作「月の舞踏会」。


 その場で壁に掛けられた絵に近づき、じっくりと眺める。


 模写は何度か見たことはあるが、本物は迫力が違う……ような気がしないでもない。


「ミリア・スタイン、この絵画について説明を」


 ギルバートががらりと態度を変えてきた。張りのある硬い声だった。目つきが鋭くなり、まとう空気さえも変わる。


 答えを間違えたら一喝いっかつでもされそうだ。


 王太子にと切望されるだけの貫禄かんろくがあった。


 ミリアの友人の「ギル」はどこにもいない。


 一気に襲ってきた緊張で乾いた口を紅茶で湿らせ、声が震えないように注意してミリアは説明を始めた。


「月の舞踏会はデルルトの初期の作品でございます。彼が――」


 片っ端から詰め込んだ知識を、頭の中で整理しながら説明していく。


 作品の背景、モチーフの意味、使われている技法、世の中に与えた影響。カテゴリーごとに、全体から細部へ。指し示す指先に神経を行きわたらせ、言葉を選び、重要な所はイントネーションを変えて強調する。顧客に対するプレゼンと同じだ。


「うん、よく勉強してるね」


 説明を終えてギルバートが目元を緩ませると、張り詰めていた空気が霧散した。


 ミリアは大きく息をついた。


「心臓に悪いですわ……」

「ごめんごめん。でもちゃんと話せたよね。今の感じだよ。仕事の時と同じ。神経を張り巡らせて、仮面を被る」

「少しわかったかもしれません」

「よかった。あとはそれをずっと維持するだけ」


 ミリアの口がへの字になった。そこが大変なのだ。さらっと言わないで欲しい。


 感情を思いっきり顔に出してしまい、またもギルバートに苦笑された。


「時間は……まだあるね。モチーフについて僕は違う解釈をしているんだけど、話してもいいかな? それとも早めに戻る?」

「拝聴いたします」

「わかった。じゃあまずこの水面に映った月だけど――」


 ギルバートの講義は面白かった。


「お見それいたしました、ギルバート様」


 ミリアは心から感嘆かんたんの声を上げた。はらりと落ちた花弁はなびらが死と再生の象徴だなどという解釈、初めて聞いた。


「もう作者はとっくに死んじゃってるんだから解釈は自由だよ。知識は見る角度を増やすだけでしかない。芸術なんだから自分の感じるままでいいんだ」

「そう……ですわよね……」


 目からうろこが落ちた。


 芸術はハイかイイエで答えられるものではない。作者の生い立ちは事実。技法も事実。だが解釈や感じ方は人それぞれだ。


「私、デルルトの月の舞踏会よりも、ヤヌルの星空のダンスの方が好きなのです」


 デルルトの影響を強く受けたと公言していた後世の画家ヤヌル。彼はデルルトのモチーフをよく流用したが、世俗的にえがき、技術も未熟だったことから、デルルトよりも劣っていると言われ、作品の価値も低い。


「本物を拝見したことはございませんが、モチーフも構図もタッチもこの絵よりも好きです。生き生きとしていて、自由で、描かれている人たちが非常に魅力的だと思います」


 もしもご令嬢たちの前でこんなことを言えば、芸術を何もわかっていないと笑われるだけだろう。


 だが、ギルバートはミリアの気持ちを肯定してくれた。


「そうだね。デルルトの方がより写実的で美しく、洗練されている。ヤヌルはデフォルメされている分、生命の力強さがよく表現されている。どちらが好きかはその人の好みの問題だよ。デルルトを好きな人が多いから高価なだけで、高価な作品が優れていて、安価な作品が劣っているってわけじゃない。だからね、ミリア――」


 ギルバートはミリアをじっと見た。


「平民出身だからって、自分を卑下ひげすることはない。ミリアにはミリアのいい所があって、それを評価する人もいるんだ。大多数の声に流されて、自分の良さを見失わないようにね」


 その言葉はすとんと胸に落ちてきた。


「ありが、とう」


 アルフォンスも、元平民であり商人の娘である自分を認めてくれている。それを買ってくれているからこそ、ミリアを王宮に引き入れたのだ。


「でもね――」


 ミリアは言いかけた言葉を飲み込み、別の言葉を口にした。


「ですが、ヤヌルも描画に習熟していたからこそですわ。一定以上の実力があって初めて自分の持ち味がいかせるのです。振る舞いまでもが平民のままでは、得られる評価もなくなってしまいます」

「それはその通り」


 ギルバートが肩をすくめた。


「ああ、もう時間だね。この後面会の予定があるんだ」

「お時間を頂戴いたしまして、ありがとうございました、ギルバート殿下」

「どういたしまして」


 ミリアは綺麗にお辞儀をして、ギルバートの部屋から出た。


 そっとドアを閉めたとき、先ほど飲み込んだ言葉がよみがえってきた。


 ――でもね、ギル。アルフォンス様には、デルルトの作品のような、美しくて洗練されている淑女レディじゃなきゃ駄目なんだよ。


 はぁ、とため息が出た。


 基礎すらもできていないミリアには、その理想はとてつもなく遠い。


 デルルトに憧れ、近づこうと研鑽けんさんを積んだヤヌル。しかし生前も死後も、同等の評価はついぞ得られていない。


 その姿に自分が重なり、くじけそうになる。


 きっとミリアも、アルフォンスに相応ふさわしい淑女になることはできない。


「だけど……」


  やれるだけのことはやりたかった。

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