第128話 とても快適です
落ち着かない気持ちのまま、何とかミリアはカリアード邸の敷地の門をくぐった。
カリアード領に入るまでよりも、領に入ってから――正確にはアルフォンスに抱え上げられてから――の方が、長く感じた。
「うわー……」
アルフォンスの膝に乗ったまま、窓から屋敷の方向を見て言葉を無くす。
月光の中、屋敷の
王都にある本邸も決して小さくないのだが、さすが領地にある屋敷は桁違いだった。王都の屋敷を本邸と定めるまではこちらが本邸だったのだから、当然と言えば当然だ。
アルフォンスによると、敷地内には他にも建物があるらしい。使用人だけでも何人いることやら。比べる意味はないと思いつつ、ミリアはフォーレンのこじんまりとした実家を思い出してしまった。
敷地に入ってからややしばらくして、馬車はやっと玄関に到着した。
扉は開け放されており、玄関ホールに使用人が五人並んでいた。
「どうぞ」
アルフォンスが先に馬車を降り、ミリアに手を差し出す。
ミリアは、手を乗せていいものかと一瞬迷った。伯爵令息と一代男爵の娘という身分の
「ミリア嬢?」
アルフォンスが困惑の声を出す。
はっとミリアが手を持ち上げると、アルフォンスがその手を取った。ミリアを優しく玄関へと案内する。
「お帰りなさいませ、アルフォンス様」
並んでいた五人がきれいに唱和して頭を下げた。
「ミリア嬢、執事長のキースです。何かあれば彼に」
中央にいた老齢の男性が前に進み出て、ぴしりと一礼した。
「よ、よろしくお願いします」
ミリアもおっかなびっくり頭を下げる。そのミリア頭の
「ミリア嬢、今夜はもう遅いので休んで下さい。明日朝食でお会いしましょう」
アルフォンスはそう言って、つかんでいたままのミリアの手の甲に口づけた。
えっ!?
普段はしないアルフォンスの行動に、ミリアは目を丸くした。
離された手をきゅっと自分の手で握ってうつむいてしまう。なんだかすごく恥ずかしい。
「ミリア嬢はお疲れです。すぐに部屋へ案内を」
「かしこまりました。――ミリア様、こちらへ」
キースがミリアの荷物を持ってミリアを
ミリアがついて行こうと足を踏み出しかけた時、アルフォンスがミリアの顔に手を当てて、自分の顔を近づけてきた。
「おやすみなさい」
耳元で落とされた
あうあうとアルフォンスを見上げると、アルフォンスはミリアの頬に触れたままじっと返事を待っている。
「お、おやすみなさい……」
ミリアは目を伏せながら、なんとか言葉を絞り出した。
「ミリア様、こちらへ」
「はいっ」
再びキースに言われ、ミリアはアルフォンスから逃げるようにその後をついていった。
キースに案内されたのは、シンプルな部屋だった。
入ってすぐの所に寝台が置いてある。続き部屋の寝室ではなくて。
あのドアはたぶんお風呂だよね。ってことは部屋はこの一つだけ?
普通はあり得ないことだが、ミリアは逆に居心地がよさそうだと感じた。
家具は使い込まれていて品のよさを感じる。超高級品なのだが、落ち着いていて過度な装飾がない所に好感が持てた。
屋敷の迫力に圧倒され、どんな
「湯あみの用意はできておりますのでご自由にどうぞ。ベルで呼びましたらメイドが参ります」
なんと、お風呂も勝手にしていいらしい。何という心遣いだろうか。知らない人に世話をされるのかと思っていたミリアは感激した。
「わかりました。ありがとうございます」
ミリアがそう言うと、キースは無表情で目礼した。一瞬
キースが出て行ったあと、ミリアはばたりとうつ伏せに寝台に倒れた。すごく疲れた。疲れすぎて、初めての場所でも緊張することなくよく眠れそうだ。
このまま寝ちゃ駄目だ。
ミリアは、ずるずると床に滑り落ちるようにしてベッドから離れると、部屋の扉の側に置かれたトランクへと足を進めた。
自分で荷ほどきと湯あみをしてから、ゆっくりと眠りについた。
次の日、ぐっすり眠ったミリアは、いつもの時間に目が覚めた。疲れはすっかりととれて、気力体力共に充実している。
カーテンを開けると、朝日が部屋に入ってきてとても気持ちがよかった。木々の間に建物の赤い屋根が見える。小さな池もあった。
アルフォンスは朝食を一緒にしようと言っていたから、そのうち誰かが呼びにくるはずだ。
ミリアは手早く自分で
部屋の本棚にあった本を読みながら、ゆったりと待つ。
やがて、コンコンとノックの音がした。ミリアが返事をすると、女性の使用人が入ってきた。てっきりキースが来るのかと思っていたが、多忙な執事長がわざわざ来るわけがないと思い直す。
その使用人は、着替えたミリアがソファに座って本を読んでいるのを見て、目を丸くした。
「その……アルフォンス様が、朝食をご一緒にと……」
「今すぐですか?」
「はい」
「わかりました」
ミリアは本を手に立ち上がり、本棚にしまった。
「どうしました?」
「いっ、いえっ」
ぽかんとした顔でミリアを凝視している使用人に声をかけると、使用人は慌ててこちらへどうぞとミリアを案内した。
ミリアが食堂に着くと、アルフォンスはすでに席についていた。大きな屋敷には似合わない、六人掛けの小さなテーブルだ。きっと食堂が複数あるのだろう。
「おはようございます、ミリア嬢」
「おはようございます、アルフォンス様」
朝は迎えに来てもらっているから、朝の
だが、まだ朝食前だということに気恥ずかしさがあった。昨夜は同じ屋根の下で眠ったのだと意識してしまう。
ミリアがテーブルに近づくと、その場にいたキースが椅子を引いてくれた。
さっそく食事が運ばれてくる。
プレーンオムレツ、ハム、チーズが乗った皿と、パンにサラダ、スープだった。
「手違いがあったようで……。こんなに質素な食事になってしまいました。申し訳ありません」
アルフォンスが眉を下げて
質素? これが?
「いいえ、十分です」
ちょうど一人分の量が盛り付けられたそれらは、朝食にはぴったりのメニューだった。むしろこれ以上何を用意するつもりだったのか。
「お口に合うといいのですが」
食べなくても美味しいのはわかっていた。
パンはふわふわに見えるし、玉子は産みたての新鮮なもので、サラダもとれたての野菜を使っているに違いない。
ミリアはテーブルの下で手を合わせて「いただきます」と
その様子を、アルフォンスがじっと見ている。
「美味しい」
「よかった」
アルフォンスがほっと息をついた。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「はい。お部屋もとても居心地がよかったです。窓からの眺めも素敵でした。敷地の中に池があるんですね」
「池……?」
ミリアが窓から見えた光景を口にすると、アルフォンスが
「キース、なぜミリアの部屋から池が見えるのですか?」
「……伝達違いがあったようで」
壁際に控えていたキースが一歩前に出て頭を下げた。
「ミリア嬢、どんな部屋でしたか?」
「ええと、壁が緑色で、こげ茶色を基調とした家具があって、本棚があって、寝室がなくて――」
「申し訳ありません! すぐに別の部屋を用意させます!」
アルフォンスがテーブルに両手を突き、がたりと椅子を蹴倒して立ち上がった。
「え? 今の部屋がままがいいです。もしご迷惑でなければですけど」
ミリアが言うと、アルフォンスは片手で目を覆い、ふーっと息を吐いて使用人が戻した椅子に座り直した。
「迷惑なんてとんでもありません。ミリア嬢が望むのであれば、そのままにしておきましょう。つけた使用人たちは何か失礼をしませんでしたか?」
「特には。呼ばなかったので」
「朝も?」
「はい。自分で支度をしました」
「キース!」
「……まことに申し訳ございません」
アルフォンスが再び席を立った。今度はミリアの所まで歩いてくる。
そして、すっと
「ちょ、アルフォンス様っ!」
「不便をさせてしまい、重ね重ね申し訳ありません。ミリア嬢には快適に過ごして頂くはずだったのですが。今後このようなことは決してないようにしますので」
アルフォンスの瞳が不安そうに揺れていた。
「立って下さい! 私はとても快適でした。不便なんて感じていません。むしろこのままでいてもらえた方が嬉しいです」
「そういうわけには――」
「アルフォンス様も知っているでしょう? 私は学園の寮でもずっと一人だったんですよ? 構われすぎないのが気楽なんです」
「ミリア嬢がそうおっしゃるのなら」
くっ、と悔しそうな顔をして、アルフォンスは立ち上がった。
「キース、ミリア嬢のお気遣いに感謝して下さい。今回は処分しませんが、次はありません」
「……ありがとうございます」
アルフォンスは、キースの失態をなかったことにできるよう、ミリアが気を遣ったのだと思ったらしい。
気遣いなんかじゃないんだけどな。
そう思いながらも、アルフォンスが椅子に座って食事を再開してくれたので、ミリアは黙っていた。
朝食をゆっくり
「私は所用で出かけなければなりません」
「はい」
それはあらかじめ聞かされていた。もともとこの用事があるから領に帰って来たのだ。
「近場をキースに案内させます」
「よろしくお願いします」
「キース、今度こそ失礼のないように」
「……心得ております」
アルフォンスが出発するというので、ミリアは玄関まで見送りに行った。
玄関には使用人が並んでいた。昨日の五人だけではなく大勢いる。これでも全員ではないのだろう、と思ってミリアは
「ミリア嬢」
アルフォンスがミリアを見て腕を広げた。ハグの合図だった。
ここで!?
後ろにはずらりと使用人が並んでいる。衆人環視の場である。貴族にとって使用人はいてもいないようなものかもしれないが、ミリアにはそこまで思いきれない。
「嫌ですか?」
「嫌では、ないですが……」
「やはりここでの待遇が――」
「いいえ!」
アルフォンスが顔を曇らせたので、ミリアは勢いよくアルフォンスの胸に飛び込んだ。
せっかく居心地がよかったのに、過剰なサービスをされるようになったら困る。
体当たりを受けた形になってアルフォンスだったが、微動だにせず、ミリアをしっかりと抱きとめた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
アルフォンスの言葉に合わせて口に出してから、ミリアはどきりとした。
まるで結婚してるみたい……!
「できるだけ早く戻ってきます」
「はい。お待ちしています」
とても恥ずかしく思いながらも、ミリアは心のままに言ってはにかんだ。
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