第107話【番外編】互いの呼び名 1/3

 ※卒業後しばらくしてからの話です




 その日もミリアは午後のお茶の時間にアルフォンスと監査室の奥の応接室で休憩を取っていた。


「ミリア嬢」

「はい」


 それまで談笑していたのに、アルフォンスが突然真剣な顔でミリアの名前を呼んだ。


「ルーズベルト・フラインのことをベルンと呼んでいると聞きました」

「はい」


 ミリアはこくりと紅茶を飲んだ。


「いつからですか?」

「先日からです」

「フラインから言ってきたんですか?」

「いえ、私からです」

「なぜですか?」

「長くて呼ぶのが面倒だったので」


 ベルンの方が楽だ。


「そうですか」


 アルフォンスが不満げだった。公私を分けろと言いたいのだろう。


「外では言わないようにしています」

「当たり前です」


 にらまれた。


「仲が良さそうですね」

「そうですね。良好だと思います。仕事がしやすくて助かります」


 ミリアはケーキを一口食べた。ああ美味しい。


 太るからもう持ってこないでくれ、とアルフォンスに訴えたら、サイズが少し小さくなってクリーム少なめ、果物たっぷりの物に変わった。相変わらずデキる男だ。


「ミリア嬢」

「はい」


 アルフォンスがさらに真剣な顔をする。


「ミリア嬢は私の婚約者で、私はミリア嬢の婚約者です」

「そうですね」


 何を今更なことを。だからこそミリアは逃げることなく王都に滞在し、こうやって日々激務をこなす羽目になっているのだ。


「そろそろ互いの呼び方を改めませんか?」

「呼び方?」

「ミリア嬢はジェフの事をジェフと呼んでいますね」

「そうですね」


 ジョセフとは良好な友人関係を続けている。いまだに冗談混じりにアルフォンスから乗り換えないかと言われるが、ミリアにその気はない。今のところは。


「ギルバート殿下のことも愛称で呼んでいますね」

「そうですね」


 卒業してから図書室に行くことはなくなったが、ギルバートとも良好な友人関係を続けている。なかなか会えないが、職権を乱用して報告と称して執務室でお茶をしたり、エドワードとローズのお茶会に二人で招かれたりしている。


 ちなみに悪役令嬢ローズとは仲良くなった。時々エドワードの愚痴ぐちで盛り上がる。


「私のことも愛称で呼んでもらえませんか?」


 アルフォンスが上目遣いをして言った。眉が寄せられていて、まるで懇願されているようだ。


 しかしミリアはきっぱりと断った。


「嫌です」


 愛称など使ったら、アイドルのファン目線で見られなくなりそうだ。まるで本当の婚約者のようではないか。ミリアは自分の立場をわきまえている。


「どうして愛称なんですか?」


 ミリアが聞くと、アルフォンスの眉間の谷が深くなる。


 急にどうしたのか。婚約者との仲が良好であることを周囲に示したいのだろうか。


 アルフォンスの瞳の色の宝石いしのついた白薔薇のネックレスをもらい、毎日こうしてお茶をしていることは周知の事実である。いまさら示さなくてもいいと思うのだが。


 アルフォンスはカリアード伯爵家として体面をよく気にしている。


「婚約者だからです」


 憮然ぶぜんとした顔でアルフォンスが言った。


元婚約者リリエント様を呼ぶときは愛称じゃなかったと思いますけど。二人の間では呼んでいたんですか?」

「あの女のことはどうでもいいです」


 アルフォンスが不快感をあらわにした。リリエントの名前を出すといつもそうだ。仲良さそうに見えたのに。


「アルフォンス様でいいじゃないですか」

「長いのは面倒だったのではないのですか」

「ベルンとは違ってそんなに呼ぶ機会がありませんから」


 こうやってほぼ二人でしか会わないのだから、互いの名を呼ぶ必要はあまりない。それを言うとベルンもそうなのだが。


「ではせめて、私はミリア嬢の事を愛称で呼んでもいいでしょうか」

「えぇー……」


 正直それも嫌だった。なぜなら絶対に動揺してしまうから。政略結婚のようなものなのに、ミリアがアルフォンスのことが好きだとバレると、きっと面倒だと思われる。このままの距離がちょうどいい。


 それに、ミリアは以前図書館で仕事を手伝っていたときに、アルフォンスがミリィと呟いて、その後に、ないな、と言ったことを覚えている。あの時に感じたつらく苦しい想いも。


 なのに、婚約者だからと言って無理に呼ばれるのは嫌だ。そのたびに、押し殺した胸の痛みを思い出してしまうだろう。


「そんなに嫌ですか」

「呼び捨てならいいですけど……愛称で呼ぶ人って家族くらいしかいないので」


 正確には父親と亡き母、そしてクリスとその一家だけだ。


「ジェフは呼んでましたよね。殿下とクリス殿も」

「ジェフとエドワード様は勝手に呼んでただけで、許した覚えはありません。クリスは家族のようなものです」


 アルフォンスは立ち上がり、ミリアの隣に座りなおした。


 ミリアの両手をとる。


「ミリア嬢、私たちは婚約しています」

「はい」


 それはさっきも聞いた。


「婚約者は普通愛称で呼び合うものです」

「アルフォンス様とリリエント様は呼んでませんでしたよね」

「だからあの女の話はやめてください」


 だってそうじゃないか。否定しないということは、そうだったのだろう。


 ああ嫌だ。考えないようにしよう。

 

「ローズ様とエドワード様も呼び合っていませんよね」

「ローズ嬢のことはご両親も愛称で呼びません。ですが、ローズ嬢は殿下を愛称で呼ばれていますよ」

「それは嘘です。ローズ嬢に聞きました。呼び捨てだそうです」


 そう、卒業パーティの時みたいに。


 ちっ、とアルフォンスが顔をそらして舌打ちをした。なんと行儀の悪い。珍しいこともあるものだ。


「さっきから何なんですか。いいじゃないですか今のままで。アルフォンス様が面倒なら呼び捨てでいいですって」


 アルフォンスが悲しそうな顔になった。


 ずきっとミリアの心が痛む。


「二人の時だけでも駄目でしょうか?」

「駄目です」


 むしろ二人きりの時の方が困る。意識してしまうではないか。というか見せつけないと意味がないのでは。


「大丈夫ですよ。私たちの仲は良好だと思われています。アルフォンス様が心配する必要はありません」

「……何を言っているんですか?」

「婚約者との仲が悪く見えると体面が悪いからそんなことを言っているんですよね? 大丈夫ですって」


 アルフォンスがミリアの手を離して目を覆った。そういうことじゃない、と口の中で呟く。


 アルフォンスは、はぁ、とため息をついた。


「わかりました。今日のところは諦めます」


 明日以降も諦めて欲しい。


「そろそろ戻らなければなりません」

「あ、そうですね。ベルンも戻ってくる頃です」


 アルフォンスは、むっと眉を寄せた。


 だが首を振って立ち上がり、腕を広げる。学園にいたときから続くハグだ。


 これが二人の間で唯一婚約者らしいと言える行動だった。実際は友情のハグなのだが。


 ミリアはアルフォンスの背中に腕を回し、胸に頭を預けた。アルフォンスもミリアを抱き込む。


 もう緊張はしない。この習慣を続けているうちに、ミリアにとって、アルフォンスの腕の中は安らぎの場所となっていた。とくとくと聞こえてくる心臓の音が心地いい。アルフォンスの柔らかな匂いも好きだった。


 ミリアがアルフォンスにすりよると、アルフォンスもミリアの頭にほほをすりよせてきた。この猫のような仕草はずっと変わらない。


 アルフォンスの腕に力がこもった。


「ミリア」


 どんっ


 耳に落とされたその音を聞いたとたん、ミリアはアルフォンスを突き飛ばした。


 どっどっどっどっ、と短距離走の直後のように鼓動が速くなっている。


 無理無理無理。


 死ぬ。


 たかが呼び捨てなのに、たくさんの人に呼ばれている名前なのに、アルフォンスの口から発せられる音は特別だった。


 ミリア嬢、のが抜けただけだ。なのになんだこれは。どうしてこんなに甘く聞こえるのか。


「やっぱり呼び捨て禁止です!」

「……なぜです?」


 アルフォンスは茫然ぼうぜんとして言った。


「呼ばれたくないからですっ!」


 ミリアは下を向いて叫ぶと、行くところがありますからっ! と言って、執務室の方へと出て行った。


 アルフォンスはミリアを抱いていた両手を眺め、片手で顔を覆った。

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