第90話 ずっと友人だと思ってました

「先ほどはお見苦しい姿をお見せしました」


 ミリアの部屋に戻ると、ミリアが深々とお辞儀をした。


「いえ。大丈夫でしたか? 怪我などは……」


 アルフォンスはさっとミリアの全身を眺めた。


 乱れた髪や口紅は直してあり、ドレスもちゃんと着ている。使用人は先に出ていったようだ。


「いいえ。怪我はありません。アルフォンス様こそ、手は大丈夫ですか?」

「何ともありません」


 本当は痛んだが、手首をおかしくしているわけではない。ジョセフほどではないにしろ、鍛練たんれんはしているのだ。


「ええと、それで、ご用は……」


 ミリアは下げた手を組んでもじもじとしていた。気まずいのはアルフォンスも同じだ。


「調査の進捗情報をお伝えに。ミリア嬢の協力のお陰で、冤罪えんざいが認められそうです。誘導ではないかという意見もありましたが、裏帳簿が帳簿としてのていを成していないわけですから、偽物だという結論になりました」


 その裏帳簿が本物の裏帳簿を隠蔽いんぺいするためのわなだと言い出すやからもいた。しかし、それはまた別の話であって、見つかった裏帳簿が偽物であることに変わりはなかった。


「ではもう寮に帰れるんですか?」

「今夜には」

「よかったぁ」


 ミリアの顔が明るくなった。


「あの、マーサとアニーはどうなりますか?」

「マーサは解放されますが、アニーの方は虚偽の証言をしたということで拘留されます」

「そうですか。アニーの動機がわかったら教えてください」

「わかりました」

「それで、犯人はわかったのでしょうか?」

「いいえ。申し訳ないですが、今回のことを誰が仕掛けたのかはまだわかっていません」

「そうですか……」

「判明したら必ずお伝えします」

「はい。お願いします」


 それではこれで、とアルフォンスはミリアの部屋を後にした。


 黒幕の調査が残っているが、やっと一段落した。これで学園にも通えるようになる。


 エドワードとそれにつき合うジョセフも公務が落ち着いてきているころだ。二人は終日は無理でも、半日くらいは講義に出ることができるだろう。


 学園に通うのは貴族の義務だというのに、長々と休んでしまった。王命で解決に尽力するようにと言われていたのだから仕方がないのだが。


 明日からの学園生活を考えながら、アルフォンスはエドワードの手伝いをするために執務室へと向かおうとして――足を止めた。


 どうしても確かめたいことがあった。


 もう一度扉をノックし、ミリアの返事を待って部屋へと入る。


「どうしました?」


 ソファに座っていたミリアは、何か言い忘れたことでもあったのだろうか、と立ち上がって首をかしげた。


 アルフォンスはミリアのことをじっと見た。


 ミリアはエドワードに抱擁ほうようされても動揺はせず、ギルバートとは自ら進んで抱擁し、ジョセフとは組み敷かれてもなお友人関係を続けようとしている。皇子おうじと会ったときにも……いや、皇子おうじは女性だった。


 ミリアと交友を持つ男四人のうち、アルフォンスだけが拒絶されているのはなぜなのだろうか。


 貴族間では異性同士で抱擁を交わすことは友人であってもおかしな話なのだから、拒絶されるのが当たり前と言えば当たり前なのだが、それでもミリアは他の三人には許すのである。なぜ自分だけが、と思った。


 気にさわるようなことをいくつかした覚えはある。最たるものがこの間の口づけだ。だが、ジョセフだってしていたではないか。口づけは許されなくても、抱擁くらいは許されてもいいのではないか。


 それともアルフォンスは他の三人とは決定的に何かが違うのだろうか。


「ミリア嬢は私のことをどう思っていますか?」

「へ?」


 唐突な問いに、ミリアはぽかんと口を開けた。


「私たちは友人なのでしょうか?」


 ミリアは何も答えなかった。そのが全てを物語っていた。本人を前にして、友人だと思ってはいない、とは言いにくいだろう。


 アルフォンスは目を伏せた。正直、アルフォンスの方もミリアを友人かと聞かれると困る。目下もっか最も交流の深い令嬢であることは確かだが、誰かに関係を聞かれたときに、はたして友人だと紹介するだろうか。


「何でもありません、忘れてください」

「え? あ、お友達だとは思っていますよ」


 取ってつけたように言われても、と思った。気遣われたのだ。


「では、友情の抱擁を」


 アルフォンスは自棄やけになって腕を広げた。


「えっ」


 案の定、ミリアは驚きで固まる。

 ほらやっぱり、と思った。


「冗談です。これも忘れてください」

「いえっ、驚いただけです。アルフォンス様がそんなことを言うとは思わなくて」


 アルフォンスが目をつぶって首を振ったが、ミリアは歩み寄って来て、至近距離でアルフォンスを見上げた。


 アルフォンスは軽く腕を広げた。嫌々しなくても良いのに、と思いながら。


「し、失礼します」


 ミリアがアルフォンスの背中に腕を回した。れるかれないか、といった力だ。ギルバートにするような、ぎゅぅぎゅぅとしがみつくような抱擁ではない。


 アルフォンスはミリアをゆっくりと抱き込んだ。


 少し力を入れると、腕の中でミリアが身動みじろぎをし、アルフォンスの背中に回る手に力が入った。


 とんでもなく抱き心地がよかった。


 以前ミリアが本棚の下敷きになりそうになったとき、腹部に腕を回したことはあった。だがあの時は無我夢中だったのとミリアの身が心配だったため、抱き心地など覚えていなかった。


 柔らかくていい匂いがする。わずかにギルバートの香りが混ざっているのはいただけないが、髪に顔を寄せればミリアの香りでいっぱいになり、気にならなくなった。


 見下ろしたミリアは耳から首筋まで真っ赤になっていて、アルフォンスを意識しているのは明らかだった。きっとまた目をうるませているのだろう。


 首筋から髪の間に指を差し入れると、ひゃうっ、とミリアが体を強張こわばらせた。


 アルフォンスの背中をぞくぞくとした快感が駆け上がった。


 嗜虐しぎゃく心がわき上がる。


 と同時に、腕の中のミリアを守りたいという気持ちもわいて来た。あの時と同じだ。ミリアに、口づけた時と。


 じわじわと一つの感情が心の中に広がっていく。


 ああそうか。そういうことだったのか。


 アルフォンスはミリアを抱き締める腕にさらに力を込めた。


 ミリアといて心地よく感じるのも、触られて不快ではないのも、ミリアを害する者に腹が立つのも、愛称が気にくわないのも、エドワードがミリアの価値をわかっていないのが悔しいのも、咄嗟とっさにジョセフを殴ってしまったのも、無意識に口づけをしてしまったことも、全部。


「あ、アルフォンス様、苦しいっ」


 ミリアがアルフォンスから逃れようと動いた。


「すみません」


 かすれた声で謝罪はしたが、力を緩めただけで、ミリアを放そうとはしなかった。


 自覚したのが今でよかったと思った。もう少し早かったらジョセフの首をめていたかもしれない。


 ジョセフがこの柔らかな体をなで回したかと思うと怒りがわいてくる。あと二、三発は殴ってもよかった。


 このままだと、ミリアはジョセフの物になってしまう。ギルバートがそうするつもりだからだ。


 以前ギルバートに、ミリアをめとる気はないか、と言われたときにうなずいていたら、ミリアを手に入れることができたのだろうか。


 誰にも渡したくない。ジョセフにもエドワードにもギルバートにも。


 また腕に少し力がこもった。


「アルフォンス様、どうしたんですか?」


 ミリアが心配そうに言った。アルフォンスは答えない。代わりに、ミリアの頭に頬をすり寄せた。


 もう一度キスがしたい。


「何か嫌なことでもあったんですか」

「いえ」


 嫌なこと。


 現実に立ちはだかる障害を思い出して心が沈んだ。


 ミリアを自分の物にすることは絶対にできない。アルフォンスは帝国の皇子クリスティーナの婚約者なのだ。本当なら他の女性ミリアとこうしていることでさえ許されない。


 アルフォンスはまたミリアの頭に頬をすり寄せた。


「アルフォンス様? 本当にどうしたんですか?」


 ミリアがいぶかしげに言った。


 もう耳も首も赤くない。何も意識してもらえていないのが悔しかった。


「ミリア嬢」

「はい」


 耳元でささやいてみても、ジョセフの時のような反応は見せなかった。アルフォンスでは駄目なのだ。ミリアの心を揺らすことができない。


「ミリア嬢」

「はい」


 ぎゅっと力を入れて言ってみたが、それでも反応は変わらなかった。


 どうすればミリアが手に入るのだろうか。


 自分の物にならないとしても、せめてそばに置きたい。


 アルフォンスはミリアを帝国に連れて行くことを本気で考え始めていた。




*****


 アルフォンスが部屋から出て行ったあと、ミリアはへなへなとその場にへたりこんだ。


 何だったの今の!?


 アルフォンスとハグをしてしまった。何が何だかわからない。


 何がどうしてこうなった!?


 アルフォンスに自分のことをどう思っているかと聞かれた。


 推しに聞かれたならば「大好きです!」と答えるのが正しいと思ったのだが、さすがにアルフォンス相手にそれはいかんと思い留まり、答えにつまってしまった。


 友人かと聞かれ、それも肯定してよいものかと迷っていたら、アルフォンスが寂しそうに目を伏せてしまった。


 慌てて肯定したが、言わされた感が出てしまったのはいなめない。


 するとアルフォンスは、なんと友人としての抱擁ほうようを求めてきたのだ。友人であることを証明しろとばかりに。意味がわからない。


 ミリアが驚きで動けないでいると、またもアルフォンスは寂しそうに目をそらした。やはり意味がわからない。


 が、せっかくの大チャンスである。逃す手はない。


「失礼します」


 恐る恐る背中に手を回した。落ち着いたふりをしていたが、心臓はばっくばくだった。絶対顔が真っ赤だった。


 アルフォンスがミリアを抱きしめた。ひやぁぁぁと内心叫びつつも、アルフォンスにこたえて腕に力を入れた。


 首筋をなで上げられたときは死ぬかと思った。変な声が出て、無性むしょうに恥ずかしかった。


 アルフォンスの力はだんだんと強くなっていき、ついにミリアは苦しいと訴えた。しかし、アルフォンスは腕を緩めてくれたものの、ミリアを放そうとはしなかった。


 ここでミリアは、アルフォンスの様子がおかしいことに気づく。これは友人同士の抱擁とは違う。それに、普段のアルフォンスなら、絶対にこんなことはしない。手放しで喜んでいる場合ではないようだ。


「アルフォンス様、どうしたんですか?」


 心配して問いかけたが、アルフォンスはミリアにすがりつくように頬を寄せるだけで、何も答えない。いよいよおかしい。


 何かあったのだ。アルフォンスでさえもが誰かに抱き締めてもらいたくなるような何かが。


 皇子クリスの事だろうか。そうだ、きっとリリエントと離れたくないのだろう。それならばミリアではなく、リリエントの元に行けばいいのに、と思った。


 ずきり、と心が痛んだ。


 仕舞い込んだ想いがあふれてきそうになる。


 アルフォンスはアイドル。私の推し。今は……そう、握手会のようなものだ。抽選でハグ権が当たった的な。握手会に行った事はないが、そんな感じだろう。


 何度も何度も心の中で言い聞かせると、浮足立っていた心が落ち着いた。


「何か嫌なことでもあったんですか」

「いえ」


 否定するアルフォンスは、またもミリアに頬をすり寄せた。

 

「アルフォンス様? 本当にどうしたんですか?」


 迷子の子どものようだった。頭を撫でてあげたくなったが、さすがにアルフォンスのプライドが許さないだろうと思って自重じちょうした。


「ミリア嬢」

「はい」

「ミリア嬢」

「はい」


 アルフォンスはミリアの名前を呼ぶだけだった。何かを言いたそうにしているが、踏ん切りがつかないようだ。皇子クリスとのことはまだ秘密なのかもしれない。


 ミリアの方からもう知っているのだと伝えれば、アルフォンスは苦しい想いを吐露とろすることができるだろうか。ミリアはアルフォンスにたくさん助けられてきた。話だけでも聞いてあげたかった。


 だが、ミリアが口を開く前に、アルフォンスは体を離した。つらそうな表情が痛々しかった。


 そんなにもリリエントを、と思うと、また胸がきしんで痛んだ。

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