第72話 溺れてもいいでしょうか

 ミリアと茶会をしていたはずのジョセフが、沈んで戻ってきた。晩餐ばんさん会の間も元気がなかった。皇子おうじへミリアのことを聞こうともしなかった。


 帰宅の前に、とアルフォンスはジョセフを呼び止めた。適当な部屋に入ってソファに座る。


「上手くいかなかったんですか?」

「上手く……は、いった……と思う」


 ジョセフは前屈みになり、膝に肘を乗せて、無意識に手を組んだり離したりしていた。


 態度と言葉が合っていない。


「……何があったんですか」

「ミリアと……キスをした」


 カッ、とアルフォンスの頭に血が上った。


「またっ、無理矢理――」

「待て待て。無理矢理じゃない。はっきり言葉をもらったわけじゃないが……」


 ジョセフは目をさまよわせた。


「……ミリアは、俺を、受け入れてくれた……と思う」


 受け入れた、と聞いて、寝台の上でジョセフに組み敷かれているあられもない姿のミリアが浮かんだ。


 卑猥ひわいな想像に自分で舌打ちをする。ジョセフはキスだと言ったのだ。


「全く……婚約者でもないのに……。でもまあ、よかったですね」

「よく、は、ない」

「どうしてです? 恋人になれたのでしょう?」

「恋人にはなってない」

「……意味がわかりません」


 ミリアに受け入れてもらい、キスをしたのではないのか。


「ミリアが、ちょっと弱っていて……俺が、そこにつけ込んだっつーか……」


 ジョセフがまた気まずそうに視線をさまよわせた。


「やはり無理矢理――」

「違うって。それは違う。無理矢理じゃない。……たぶん」

「たぶん」

「力づくではしていない。ミリアは強く拒絶しなかった。俺だって馬鹿じゃない。あんなことは二度とするものか。ただ、夢中であまり覚えてないというか……」


 そのときのことを思い出したのか、ジョセフが顔を赤くさせた。珍しい光景だ。だが、赤面した男の顔を見せられてもげんなりするだけだった。


「本当に、ミリア嬢は嫌がってなかったんですか? 妄想じゃないでしょうね」


 ミリアがジョセフを受け入れる、という事からしてどうも想像できない。アルフォンスは二人に婚姻を結んで欲しいと思っているのだが。


「抱きしめて欲しいといったのはミリアの方だ。抱きしめ返してもくれた。顔にキスをしてもそこまで嫌がってなかった。口づけは、一度、拒否されたが……」

「拒否されているじゃないですか」


 アルフォンスは、むっと眉を寄せた。


「そのあと、流れで口づけをしたら、そのまま受け入れてくれたんだ」

「流れでって……」

「ミリアも舌を絡めてくれたし……」


 ジョセフが手で口を覆って言った。思い出しているのがありありとわかった。唇を触れあわせただけではなく、そこまで深く口づけたのか。


 きっとまたリンゴのように真っ赤になっていたに違いない。あのときの口は固く引き結ばれていたが、もしアルフォンスが口づけをしたら緩めたのだろうか。


 ――無意味な想像だ。


 アルフォンスはため息を一つ吐いた。


「そこまでできたなら良かったじゃないですか。何が不満なんですか」


 アルフォンスの問いに、ジョセフは両手で顔を覆った。


「……んできない」

「何ですって?」

「我慢できない」


 アルフォンスは呆れ返った。


 つまり、うっかり手を出してしまって、その先が欲しくなってしまったということか。


「自制は得意でしょう?」


 これまでのジョセフは、必要があれば相手を焦らす事も余裕でできた。だが、ミリアに対するジョセフを見ていると、アルフォンスもそうは言いながらも、これは無理そうだ、と思った。


「無理だ。歯止めがきかない」

「今までの経験はどこに行ったんですか」

「こんなに夢中になるのは初めてなんだ」


 ジョセフは苦しそうに言った。これは重傷だ。


「それに、ミリィと呼ばせてもらって……」


 もう駄目だ、と顔を覆ったままジョセフが膝に顔をうずめた。


 ミリィ、という呼び名に、アルフォンスが顔をしかめた。その呼び名は好きではない。自分が呼ぶのは元より、誰かが口にするのを聞くのも嫌だった。


「仲が深まるのはいいことです。ミリア嬢も満更まんざらではないようですね。ただ、婚約するまでは自重じちょうして下さい。……婚約したとしてもどうかと思いますが。普通は結婚まで待つものですよ」

「……わかってる。ミリアが拒否すれば止める。つけ込んだのも悪いと思っている。だけどな、俺を頼ってくれたのが嬉しかったんだ。他の誰でもない、俺に慰めさせてくれたことが」


 俺を頼ってくれた、と言う言葉が、アルフォンスに刺さった。


 ジョセフは知らないだろうが、ミリアは嫌がらせに傷ついているのだろう。そこでミリアが頼るのは、アルフォンスではなくジョセフなのだ。思惑おもわく通りの結果だというのに、図書館で二人で会っていても泣き言一つ言われなかった、と悔しく思った。


「俺だけにしてくれとは言ったが、恋人じゃない以上、その保証はない。他の男が同じように弱ったミリアにつけこむかもしれないと思うと……耐えられない」


 ジョセフは胸を押さえた。


 ジョセフが深くキスをしても、ミリアは上手く息継ぎをして、戸惑いながらも舌を絡めてきた。経験したことがあるのかと思い、心が真っ黒になった。他の男との記憶を塗りつぶしたくて躍起やっきになった。


「ミリア嬢が誰彼だれかれ構わず許すとは思えませんが」


 他に誰がいるというのだ。まさかエドワードに許すようなことはしまい。ギルバートは、彼の方が自制するだろう。


「それは、そうだが……」

「とにかく、やり過ぎないように。嫌われては元も子もないですよ」


 再度ジョセフの自制を求める言葉を放って、ジョセフと別れた。





*****


 ベッドの上で、ミリアは一人落ち込んでいた。


「なーにやってんだろ、私」


 ジョセフとキスをしてしまった。それもかなりがっつりと。


 唇に指を当てる。


「ジェフ……」


 ジョセフの名を呟くと、ミリィ、と呼ぶ声が耳の奥によみがえってくる。


 ジョセフは上手かった。とても。経験値が高いだけはある。体が熱くなって、頭の中がふわふわした。キスだけであそこまで気持ちよくなったのは初めてだ。


 抱きしめる腕の力も、触れる手も、ミリアの名を呼び、好きだと告げる声も、嬉しそうに細められた目も心地よかった。無我夢中で口腔こうくう内をむさぼり、遠慮なく腰を押しつけてくることさえも。ジョセフの全身がミリアを欲しいと訴えていた。


 愛されているという実感は、どうしてこうも甘いのだろう。とろりとしたシロップの中に浸かっているような、抜け出せない甘さだ。


 ジョセフに触られるのは嫌ではない。抱き締められるとどきどきしてしまって、安心してリラックスできるタイプではないけれど、慣れればそのうち落ち着くと思われた。頼りがいのある人だ。


 自分から触りたい、触って欲しいとは思わない。だけど、このままジョセフの愛におぼれてしまうのも悪くないと思った。


 いいじゃないか。ジョセフでも。


 いい人だ。性格も、顔も、体格も、家格も、将来も。何を文句があるのだろう。伯爵夫人? やればなんとかなると思う。


 王宮に入って国政に関わるのとどっこいどっこいではないか、と思った。それだって相当面倒くさいに違いない。昨日のアルフォンスの言葉で、比較対象が増えていた。王妃よりはまし。王宮に入るのと同程度。


 そこそこの人と結婚して、平凡な家庭を築きたいとは思うが、そうなったとして、人生何があるかわからないものである。夫が寝たきりになって介護に明け暮れるかもしれないし、自分があっという間に死んでしまうかもしれない。


 であれば、伯爵夫人でも、まあ、いいのではないだろうか。


 ミリアの気持ちはジョセフに傾いていた。受け入れてもいいのでは、と。


 そうすれば、今の嫌がらせからも解放されるのかもしれない。婚約を発表さえしてしまえば、ミリアは未来のユーフェン伯爵夫人として認知されることになる。害せばユーフェン伯爵家を敵に回すことになるのだから、ミリアが何もしなくても嫌がらせは止まるだろう。


 いいことばかりではないか。伯爵夫人になるのは面倒だ、ということさえ我慢すればいい。


 何でそんなに嫌がっていたんだっけ?


 ……ああそうか、ジョセフの浮気癖があったんだった。今日の様子からして、今の所ミリアから目移りすることはなさそうだ。それが自惚うぬぼれだとは思わない。


 だが、ミリアを手に入れた後はどうだろう。もしかしたら、キスをしたことで満足してしまったかもしれない。かたくなに拒んでいたミリアが、唇を許したのだから。


 浮気されるのも不倫されるのも嫌だ。それさえなければ、結婚してもいいのに。


 ……違う。


 ジョセフが一生ミリアを愛し続けてくれるのだとしても、やっぱり駄目だ。


 ――会いたい。

 ――アルフォンスに、会いたい。


 そう思ってしまうのを止められないから。


 ジョセフの記憶が、アルフォンスの姿にすり替わっていく。


 ミリアを抱き締める腕の強さを知っている。

 優しく触れる手を知っている。

 ミリアの名を呼ぶ声も。

 細められた目も。


 だけど――。


 アルフォンスのキスは知らない。好きだという声も知らない。


 ミリアには得られないものだ。


 リリエントにはするのだろうか。そう思うと胸が痛くなる。


 どうしてミリアではいけないのだろう。


 そう思っても、リリエントに勝る要素が何一つなかった。


 リリエントの方が美人で、スタイルがよくて、侯爵家の娘で、礼儀作法もしっかり身についていて。リリエントにはアルフォンスの求める貴族らしさがある。性格は悪いが、そこも含めて受け入れているのだろう。


 ミリィ、と呼び、ないな、と言った声を思い出す。そのときの嫌そうな顔も。


 人として嫌われていないことはわかっている。だけど、恋愛感情は持ってくれない。ジョセフとミリアが二人きりになる時間を作るくらいなのだ。


 側近アルフォンスルートを攻略すればよかった――。


 その選択肢に従えば、アルフォンスはミリアに夢中になってくれたはずだ。


「最低だ、私……」


 そんなことをして何になるのか。


 アルフォンスを無理矢理好きにさせて、それでどうするのだ。ミリア自身の魅力ではないのに。選び間違えさえしなければ、誰でも得られてしまう気持ちに何の価値がある。


 それでも。


 それでもいいから、欲しいと思ってしまう。


「なんでこんなに好きになっちゃったんだろう……」


 アルフォンスに触れられるのが初めてではない、とローズに言われるまでは、恋愛感情なんて持っていなかったのに。


 助けてもらって好きになるなんて、筋書きに沿ってヒーローを好きになる、恋愛小説の中のヒロインと同じではないか。


 だけど――ハッピーエンドは待っていない。

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