後編

「……サクラは、どこに行くつもりだったの?」

 彼女のあらわになった首筋が、ぴくりと震えた。桜貝のような唇が、うすく開いた。

「……散歩」

「こんな夜中に?」

「キョウちゃんだって、一緒やん」

「ぼくは男だから。サクラとは違うよ。ねえ、本当はどこに行くつもりだったの?」

 サクラは口に出そうか、迷っているようだった。幼なじみのぼくに隠しごとをするのを、心苦しく思っているのかもしれない。ぼくは、膝を抱える彼女の手に、そっと手を伸ばした。

「だれにも言わないから」

 サクラの目が、ぼくを見た。

 下腹から、ぞわりと何かが立ち上がる。

「……本当に?」

「もちろん! ぼくは何があっても、サクラの味方だよ。さ、話してみて」

「……サカモトさんのとこ」

「サカモトさんて、養鶏場の? サクラがバイトに行ってる……」

「そう。しばらく泊めてもらおう思って」

「連絡はしてるの?」

「…………」

 サクラの視線が泳いだ。むきだしの膝を見つめて、黙りこむ。

 サカモトとは中学で一緒だった。東小から来ていたから、うちからは町の反対側になる。

「歩いていくつもりだったの?」

 まさかと思って聞いてみたら、ちいさな頷きが返ってきて驚いた。バイトだって自転車で行っているのに、こんな真夜中に、無鉄砲にもほどがある。

 だが、それほど切羽詰まっているのだ、彼女は。ならば、

「……うち、くる?」

「え……」

「ほら、ぼくの部屋、二階だし、父さんも母さんも上がってくることなんてほとんどないし、これからいきなり訪ねてもさ、サカモトさんもびっくりすると思うんだよね、びっくりするよ! 大体いまから行って何時につくと思う? 日の出前には着くだろうけど、だからってピンポン押す? 押さないよね、朝まで待つよね。だからさ、どうせ待つなら今晩だけでもぼくの部屋に来て、それから」

「ごめん、無理や」

「…………えっ?」

 なんと言われたのか。

「お母さんたちに、キョウちゃんちには絶対行ったらいかんって言われちょるから……見つかったら殺さるるけん」

「なんで!?」

 なんでそんなことを言われないといけないのか。

 なんで這いずる虫を見るような、憐れむような目でぼくを見るのか。

「家に帰りたくないんだろ!?」

 なんで小さいころから一緒にいるぼくを頼らないのか。

 なんで家庭の事情を察しながら口に出さず見守っている、ぼくにすがりつかないのか。

「なんで何も言わないんだよ!」

「…………」

 風が吹いた。

 ぼくらを包みこむように、木々の葉がざわざわと音を立てた。それにあわせるかのように、月光の差し込んでいた広場は、ゆっくりと明るさを失っていく。ごご、ごご、と響くのは、はるか頭上をゆく分厚い雲の足音か。

 彼女が口を開いた。

「キョウちゃん、なんでうちがバイトしちょるか、わかる?」

「…………はあ?」

 いきなり、何を言い出すのか。

「いまは関係ないだろ。それより」

「関係あっよ」

 サクラの声が、ぼくの言葉を断ち切った。彼女は迷うように、言葉を重ねた。

「……関係ある」

「バイト代があるから、うちに来る必要なんかないってこと?」

「ちがう。そうじゃない」

「じゃあ家出するためにバイトしてたの?」

「ちがう。うちは……家出するつもりなんてなかった」

「じゃあなに?」

 要領を得ない答えに、思わず声が尖った。

 どうしてこんなにイラつくんだろう。セメントを引っかく指が止まらない。伝わってくる振動で、爪の削れるのがわかる。舌打ちをしそうになって、ぼくは奥歯を噛みしめた。口を引き結んだまま、荒い鼻息で呼吸をととのえる。

「なんでバイトなんかしてたの?」

 すぐには、答えは返ってこなかった。

 膝小僧を見つめていたサクラの目が、ゆっくりとこちらを見た。

「あのね、キョウちゃん」

 ないしょ話をするように、彼女がささやく。

「うちね、本当は男の子やとよ」

「…………」

 耳が腐ったかと思った。

 だが、サクラのささやき声は止まらない。

「なに言ってんだこいつ、って思うやろ。しょうがないよね、だって生まれたときからずっと女の子やったっちゃもん。保育所も、小学校も中学校も、高校も……女の子の格好して、女の子の列に並んで、修学旅行も女子の部屋に泊まって女湯に入って……体は女やからさ、誰も疑いもせんかったけど、うちはやっぱり男やとよ。なんでやって思うけど、やっぱりうちは女の人にはなりたくないとよ」

 白い頬が、興奮のせいか淡く色づいている。濡れたまつげが縁どる黒い瞳も、艶のある黒髪も、露わになった細いうなじも鎖骨も、すらりと伸びた二の腕もふくらはぎも、怪しく白く光る太ももも、どこからどう見てもサクラはサクラにしか見えないのに

「やけん、高校出たら手術しようと思っちょったと。お母さんたちには言えんかい、自分でバイトしてお金貯めて……そりゃいつかは家も出るつもりやったけど、仕事が決まらんと……卒業するまでは家にいるつもりやったとよ、けど」

目の前のこれは一体なんなんだろう? 幼いころからずっと一緒に育ってきたサクラがサクラではないものに変わっていく。少女なのか、女なのか、男なのか、なんなのか

「お母さんとお養父さんが……うちが十八になったら、ニシタチの叔父さんの店に出すって……それで、客を取らせる前に、一度世話になっちょる人に挨拶させっからて……やから、やからね」

ぼくのとなりで、ひどくうつくしいものがないている。よわい、よわい、いきものだ。そして、ひどくおろかだ。よわいなら、おとなしくぼくのてのひらにとまっていればいいのに。せっかく、うつくしくうまれたのに。

「あの家にはもう居れんと……!」

 ぼくは立ち上がると、置きっぱなしにしていた茶碗を拾い上げ、彼女の頭に叩きつけた。手のひらからこぼれた茶碗は、セメントの角で二つに割れた。ふやけた米は飛び散って、サクラの髪と頬を白く汚した。

 彼女は気絶しているようだった。息はあった。ぼくは彼女の体を確かめようとしたけれど、なぜだかどうしても力が入らなかった。下腹から燃えるようにあった熱はどこかに消え去り、ただ、ただ、けだるかった。

 竹林の向こうから、男女の罵り合う声が聞こえてきた。女の声は、発情期の猫の鳴き声に似ていた。

「……どうしてぼくじゃ駄目なんだよ」

 女々しく、ぼくはつぶやく。鼻が詰まって、息が苦しい。目からあふれる涙が、頬を流れ落ちていく。

 どうしてこうなってしまったのか。

 どうしてぼくから離れていくのか。

「ぼくはサクラじゃなきゃ駄目なんだよ……」

「てつだおうか?」

 振り返ってみれば、いつの間に現れたのか、アズマが坐って、ぼくを見ていた。

「ずっといっしょにいたんだろ?」

「そうだよ。でも駄目なんだよ。無理なんだよ。ぼくは今のサクラが好きなのに、彼女はやりたいことがあるっていう。変わりたいって。ぼくがずっと一緒にいたいのは、今のサクラなのに」

「しってる」

 蒼い眼が、ぼくを見ていた。

 薄い色が、テレビで見た流氷のようだな、とぼくは思った。

 頬をつたう涙が、熱をうしなっていく。

「できるよ。キョウは、このサクラとずっといっしょにいられる」

 白猫が小首をかしげた。

「てつだおうか?」

 ぼくは、うなずいていた。

 ゆったりと歩いてくるアズマに向け、腰をかがめ、手を伸ばす。

 抱きあげたとき、白猫は一振りの小太刀に姿を変えていた。

 白銀の絹糸が、豪奢に柄を飾っている。鞘はない。抜き身の刃が、妙になまなましく光を返している。

 それは、アズマの眼だった。

 夏の木々がざわめいた。風が林を抜け、正面からぼくの髪をなで、通りすぎていく。汗で濡れていた背すじが、下からぞわりと粟立った。

「なでてみて」

 アズマが言った。

「なにを?」

「サクラをだよ。ボクをつかって。かるくでいいから」

 足元の少女は、目覚める気配もなく横たわっている。うすい背中が、かすかに上下する。

 ぼくはしずかに息をととのえると、ゆっくりと両腕を下ろした。小太刀の重さに腕がふるえる。

 刃先の側面を、そっとサクラの髪にそえる。

「ちがう、そうじゃない」

 アズマの声に、ぼくの肩がびくりとゆれた。

「かるくでいいんだ。はをたてて」

 刃を立てて。

 言葉の意味に、ぼくの呼吸がさらにはげしさを増す。

 ひねっていた手首を、もとに戻した。

 そっと、そっと、むき出しになったサクラの首すじに、刃をあてる。

 手ごたえは、ささやかなものだった。

 目を見はるあいだに、刀をわずかに挿入したサクラの肌から、血が、玉をつくりあふれだした。

 ぼくは刀を退いた。

 耳元をうるさいくらいに血が巡る。

 サクラの白いシャツに血がにじむ。

「もうだいじょうぶだよ」

 アズマの声はやけに遠かった。

「ぼく、ぼく」

「みててごらん」

 ついで聞こえたのは、薄氷の音。

 ピシ、ピシと、虫の音よりも小さな。

 音にひかれて、ぼくは見た。

「サクラ」

 天から落ちる月光が、少女のからだをつつんでいた。ざんばらになった黒髪も、白くなめらかな肌も霜におおわれ、きらきらと輝いている。

 彼女の背中は、もう動いていない。

「ほら。これでサクラはキョウのものだよ」

 時が止まっていた。

 ぐらり、と世界がまわる。

 ぼくは膝からくずれおちると、両手を地についた。手のひらからこぼれた小太刀は、ひょいと白猫に姿を変え、着地する。

「どう?」

 横たわるサクラは、うつくしかった。

 肌をいろどる月光のきらめきは、上質な白粉をはたいたようだ。一方、その黒髪はさながら黒曜石のようで、互いに互いを引きたてあっている。

「うれしい?」

 アズマがゆるりと、ぼくのまわりを歩く。ながいしっぽが、誘うように曲線をえがく。

「うん、うん……」

 ことばがなかった。

 かすかに笑みだけが、ぼくのくちびるからこぼれた。

 アズマが言った。

「なら、えんりょはいらないね」




「いただきます」

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凍る心中 松田紙弥 @shimi_m

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