第51話 薔薇と剣の紋章
マイヤーのジェスチャーにより、個研に来たリオを待っていたのは、知的好奇心による質問だと思っていた。
後に分かる事になるが、リオの名乗っている薬師は自称である。マイヤーは本来の意味での薬師には、確かな後ろ盾が必要になるという事を考えてくれていたようだった。
「ね、リオちゃん、この薬研、古いものなの?」
やはり持ってきた薬研だったようだ。
しかし古い物かどうかは、母の持ち物だったので分からない。リオが気づいた時からあるから、恐らく8年は経っている。
「うーん、8年以上は家にありました」
「そう…」
「何か問題がありましたか?」
持ち込んではいけない違法薬物が、薬研に染み込んでいたのが見つかったとか?
考え込むマイヤーがちょっと怖い。
返事を待つ間に、執事が紅茶を入れてくれる。休日なので、護衛に執事を付けているそうだ。そのような事を聞くと、マイヤーはやはり公爵家ご令嬢なのだなと、認識させられる。
薬研の皿部分の側面に注目しているマイヤー。細かいヤスリ紙で優しく磨いている。
「ほら、ここに模様があるのだけど」
模様?中は洗ったり磨くいたりするけれど、外側はササッと洗うだけで見た事がなかった。
「ここ、押さえてみて。ぷくっと何か浮き出ている感じ」
リオもその直径5センチ程の模様を押さえてみる。
何か三日月型の様な模様が円形に集合している様な…。じーっと指先で追いながら「薔薇かな?」と呟いた。
「薔薇…」
マイヤーは何かを目で合図し、一礼して執事は部屋から出て行く。
「リオちゃん、こういう物に紋章を付けるのは貴族が良くすることだけど、何か知ってる?」
「それは母の物なので、母の家の紋章でしょうか…」
同じような模様の指輪は持っているけど、それが紋章かどうかはリオには分からない。
「お母様はどこか貴族の方だったの?」
「はい、恐らく…母は過去のことは話したがらなかったので」
リオの返答に、うーんとマイヤーは考え込んだ。
「私が幼い頃に、何かでその紋章を見た事があるのよ。薔薇の紋章は良いなと思って」
「はい…」
正直言うと、あまり貴族に関わりたくはないのが心情である。旅の薬師なら関わらなくて良いと思ったけど、ルーカスは女性では荷物が多いから難しいと言うし。
「質問を変えようかな?リオちゃんは、何か将来的にやりたい事はあるの?」
「はい。母の死が無駄にならないように、魔族から受けた怪我で死なないような薬が作りたいです。薬師を続けながら探せたら良いと思っています」
「そう、薬師としてね…」
母が煙のように消えてしまった無念さは、間近で体験した者にしか分からないと思う。自身がたまたま煙が見える事で、人々がその死から解放されるならば、リオはこの力を持て余す事なく使いたいと思っている。
その時、執事が古そうな本を抱えて帰ってきた。そっとマイヤーの横に置く。
「ありがとう」
マイヤーは本を自分の目の前に持ってきて、表紙の題名をなぞる。
「これ、貴族名鑑って言うの。紋章が載っているから、あなたのお母様がどこの貴族の方か分かるの。最終的に薬師になるなら、貴族という威光が必要になるわ。ここの研究員として学ばなければいけないから」
「貴族でないと薬師や研究員には、なれないという事ですか?」
いいえ、とマイヤーは首を振る。
「薬師や研究員にも平民は居るわ。だけど、皆さん身元が…お父様やお母様が、先祖代々がどこの誰かという事が分かっているのよ」
「もし、分からなかったら、どうなりますか?」
「分からなかったら、どこの王都でも薬師は名乗れないわね」
「じゃあ、私は諦めなくてはならないですか?」
また、いいえ、マイヤーは首を振る。
「まずはお母様だけでも、どちらの貴族の方だったのか探しましょう。貴族で良かったわ、過去が辿れるから」
王都で薬師と名乗れなかったら『無許可の薬師』つまり、ブラックジャックのような感じなのだろうか。
いや、確かブラックジャックはちゃんとした機関で学んで医師免許はちゃんと持っていたし。しかも医師だし。
そんな事を考えていたら、マイヤーの
「合ったわ!」
と、いう声に我に帰る。
「あ、ありました?」
「ええ、これ。似ていない?…ラーンクラン国、ロサフロール家、伯爵位」
「ロサフロール…伯爵」
「この本は今から15年前に監修されたものだから、リオちゃんが産まれる前ね。お母様の名前は分かる?」
「はい、ミラリーチです」
「ミラリーチね?居るわね、ここよ。ラーンクラン国、魔術研究員、薬師」
小さい文字をたどると、魔術研究員と書いてあった。
「…母は本当に研究員だったんですね」
「あら、その事は聞いていたの?」
「何となくです。王都で水の研究をしていた、とか。だから元は貴族なのかなって」
「では他に何か、貴族に繋がるような事…思い当たる出来事はある?」
思い当たる出来事?母との思い出にはあまり貴族を感じさせるものはない。
カエルを沢山取ってきて、背中をグニグニ撫でて油を出したりした事とか?
ある日突然、きゅうりの成分が良いとか言って、すり下ろして、2人で身体全体に付けて風邪を引いた事とか?
リオがうんうん唸っていると、
「じゃあ、思い出の品はある?」
困ったようにマイヤーは言った。
「思い出の品なら…」
リオは思わずネックレスにぶら下がる指輪を触る。
何故か分からないけれど指輪を見せると、とんでもない事になるのではないかと思っていて、見せるのを躊躇う。
「リオちゃんがたまに不安になった時にする、そのクセ。何か大切なものを持っているの?」
よく見ていますよね、マイヤー女史。
研究熱心で無鉄砲な時はあるけれど、今信頼できる大人は少ない。マイヤー女史は信頼できる人物なのか…自分はあまりにも無知で、力もない。大海原に漂うヤシの実のようで頼りなく思った。
「リオちゃんの立場が悪くなるような事はしないから」
リオは少し考えた結果、見せる事にした。
「これです」
ネックレスを外す。指輪が2つゆらゆらと揺れていた。
「封蝋印?しかも2つ?!」
大きな瞳をパチパチと瞬かせる。どういうこと!?と、マイヤーはすぐに指輪を引き寄せた。
「貴方、この剣の紋章、エスパダ侯爵家じゃない!」
うーん、と考え込んだマイヤー。
「はぁ…リオちゃんはいつも規格外よね」
なんかすみません…。
「この封蝋印は他の誰かに見られた事はある?」
マイヤーがリオにネックレスを返す。
「はい。ここに来る前に身体を綺麗に洗われて、その時に、侍女さん達が見ました」
「なら、上に報告が行ってるわね…話が早いかも知れないわ」
ちょっと腕を組み、考え込む。紅茶を一口飲んで、執事に『エスパダ侯爵家とロサフロール伯爵家の繋がりについて』を調べるように指示を出した。
「父親について、聞いた事はあるの?」
「いえ、全くないです」
「そう…。でも、お母様はこれで貴族という事が確定したから、リオちゃんが薬師になる事を望むなら身元を確定させるために養女という手もあるの。まずは、私の遠縁という形から入って、だけど」
「養女、ですか?」
「私の知り合いの貴族の子供になってもらって、そこから研究員になる手続きを取ってもらうの。王都で薬師になるには、まず研究員になって学んで、国試に受からないと」
「国試?」
「そう。実践的に学んで、研究所がこの方は薬師の基準を満たしたと思われた時に認定されるのよ」
「国試は、ペーパーテストではないのですか?」
「ペーパーテスト?研究員になる時にあるくらいかしら…。低年齢なら簡単なものだけど。薬師は実践だから、そちらの方が大変だと思うわよ…。あ、でもそれは座学ばかりの貴族令嬢のことだから、リオちゃんならどうなのかしらね?」
とても楽しそうに笑った。
マイヤーは夢のある話をしてくれるが、自分はそれに頼っても良いのか、頼ったとして勉強や試験や生活に付いていけるのか、もし頼らなかった場合はどのように生計を立てていくのかなど考える事が多すぎて、とても不安に思った。
常識や知識を学ぶと、今までのように漠然と考えるだけでは、通用しなくなる事が分かってくる。
じゃあ、知らない方が良かった?
ううん、そんな事ない。知って良かった。自問自答する。
今晩、考えたい。自分はどうすべきで、どう生きれば良いのかを。
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