第38話  七週目⑤

 昼休み、大沢さんは鼻歌でも歌い出しそうな顔で、徳島のガイドブックを見ている。

「旅行ですか?」

「行くわけじゃないの、見てるだけ。猫もまだ小さいし」

「猫、元気にしてますか?」

「元気だよ。安藤さんの猫は?」

「実は、そろそろ返さないといけないんです」

 大沢さんは「大丈夫?」と言って私を見た。

「やっぱり、けっこうな期間一緒にいたから、いなくなると思うと寂しいですよね」

 それ以上何か言うと涙が出そうなので、お弁当を食べるのに夢中になるふりをする。

 私はそんなに猫と別れるのが辛いのだろうか。それとも、町田君を見つけられないかもしれないので、プレッシャーに負けそうなだけなのか。

「安藤さん、疲れてるよね? 午後、帰った方がいいんじゃない?」

「え、でもまだ返す本たくさんあるし」

「大丈夫よ、そんなの」

「でも、給料減っちゃうんで、それも困るし」

 大沢さんは心配そうに頷いた。

 寝たのか寝てないのかよくわからない状態なので、体を動かすとふらふらする。しかし、家に帰ってじっとしていても、不安に押しつぶされそうになる。適度に体を動かして、考えすぎないようにするしかない。体が止まらない限り、心がフル稼働することはない、この数週間で学んだことだ。

午後も、ふらふらしたままではあったものの、なんとか時間まで勤め上げた。

そうして、とうとう金曜日の夜が来た。

 猫は、出て来ない。向こうの世界で私が来るのを待っているに違いない。ろくに寝ていないので、すーっと眠れると思っていたのに、逆に疲れすぎて眠れなくなっている。早く寝ないと、と思えば思うほど、眠りは遠ざかって行く。

 時計は十時五十分を指している。いつもであればとっくに向こうへ行っている時間帯だ。もし、今日このまま寝付けなかったらどうなるのだろうか。猫や、No2、そして町田君にも会えないまま、いつのまにか全部終わって時は過ぎていくのだろうか。その方が返っていいのだろうか。私が無理して頑張ってめちゃくちゃにするより、「あの人、来ないね」となって、三者で話し合って解決する方がよいのではないか。

 私はどこかで逃げたいと思っているのか、だから今日は眠くならないのだろうか? 眠りがやってきてくれないのは、私が心の底から眠りを望んでいないから……今は、そんな難しいこと考えている場合ではない。とにかく、寝ないといけないのだ。

 それが良い方法かどうかはわからないけれども、ちょっと前まで時折服用していた睡眠薬を一錠取り出すと、喉に流し込んだ。


「今日はもう来ないのかと思いました」

 こいつの顔を見るのも今日で最後なのに。相変わらず可愛げのないこと、と思う。

「疲れてて眠れなかったのよ」

「はいはい」

 やけにあっさりしているなと思っていたら、うっすら汗をかいていることに気づく。彼もまた、私が来るかどうかで気をもんでいたのだろうか。

「タミさんは?」

「いますよ」

 猫はいつの間にか私の横にいて、No2を睨みつけている。瞳には力強さが戻っている。いつもの猫だった。

「では、泣いても笑ってもこれで最後。さあ、彼はどこにいるのでしょうか」

 No2の後ろで、今日も爛々と無数の扉が光っている。

「あのさ、ファミレスに入んない? ドーナツ食べたいな」

「そんなの起きてから食べればいいじゃないですか。この大事なときに、何を言い出すんです」

 No2は呆れたというよりも、ちょっと苛立っているように見える。

「そんなに食べたいなら、ほら、どうぞ」

 あっという間に、いつかのメビウスの輪ドーナツとコーヒーが置かれたテーブルが出現する。思わず手を出したくなるが、ぐっとこらえた。直感的にファミリーレストランは隠れ場所ではない、と思った。私の直感は当てにならないことが多いのだが、それでも五割の確率で当たることもある。こやつはたしかにいけ好かないけれども、あからさまに卑怯なことはしないと思うのだ。私が見える範囲の中にしか隠れていない、というのはおそらく信じていいだろう。

 とすると、やはり扉の中にいるのか。それとも、猫はNo2が町田君本人であることを否定していたけれども、その可能性は本当にないのだろうか。No2をじっくり観察してみる。

 見れば見るほど似ている。客観的に見れば、私がこやつを別人だと思っている方が不思議なのかもしれない。敬語で話されるから混乱しがちだけど、普段の喋り方で話しかけられたら、まずわからない。つまり、こやつが敢えて自分を別人に見せようと思って、こんな話し方をしている可能性もあり得るのだ。やはり、No2は実は本人説も、否定しきれない。

 しかし私の勘は、やはりNo2は町田君ではないと言っている。だったらどの扉に隠れているのか。ピンとくる扉なんてない。

「もう、こんなのうそっぱちなんでしょう。町田君は扉の中に隠れてるんじゃないんでしょう?」

 言った瞬間、扉が消えた。びっくりして。腰を抜かしそうになった。

「なんで消えたの?」

「あなたが、この中に彼がいるわけではないことを見破ったからですよ。……まさか、今のは本気じゃなかったんですか?」

 私は首を縦に振るしかなかった。

「まあ、もし町田君が本気でやるなら、そっくり人形展覧会の歌詞のとおり、機会は一度しかないってなってるのが自然なんじゃないかなって、前から思ってはいたけどさ、あの人優柔不断だから、三回くらい猶予があったほうがいいやって思ったのかもしれないし、いまいちよくわからなかったんだけど」

「真面目にやって下さい、もし間違っていたら、大変なことになってたんですからっ」

 珍しくNo2が腹を立てているように見えた。私はよほどのことをしてしまったようだった。

「大変なことって、なによ?」

「もしあなたが冗談半分に、いないとわかっていながら扉を開けようものなら、そこでゲーム終了、もう彼は出てこられなかったはずです」

「じゃあ、クリアしたんだから出てくるんじゃないの? 町田君はどこにいるわけ? 見破られて、のこのこ出てこれないって?」

「そう話は簡単にはいきませんよ。あなたはまだ、私が聞いたことにこたえていないじゃないですか」

「話が違うわよ、扉の中にいるって言って、いないことを見破ったんだから、普通そこでゲーム終了でしょう!」

「じゃあ、次の面へ行ったということで。でも、あなたが一面で手間取りすぎてたから、もう時間がない、あと十分しかない、早く、急いで思い出して下さい。思い出すんだ!」

 No2が焦っていると、調子が狂う。もしやこれも私を動揺させるための罠なのか。でも、なんだか本気っぽいので、信じて急ぐことにする。こんなことならもっとまじめに考えておけばよかった。どうしたらいいのだろう。

―涼子先輩、あのときなんであんなことしたんですか?

ふと、以前夢の中で聞いた加奈子さんのセリフが思い浮かぶ。夢の中でのことなので、加奈子さんが考えていたことというよりも、私が無意識のうちに心の中で思っていたこと、と言った方が正しいのかもしれないが。だとすれば、もしかしてあれは、私の中にいるNo2的なものからのメッセージだった可能性もあるのではないか。

 私がしたことについて、もう一度思い出そうと試みる。時間はほとんどないけれども、記憶の走馬灯の中から、これぞと思う場面を、金魚すくいの要領で瞬間的にすくい取る。

―涼子先輩、何も知らなかったのか、びっくりしたような表情で私達を見て、堂々と無視して去っていきました。

 手元にあった記憶はこれだった。

 私がしたこと、それは、何も言わなかったということだったのか? 町田君と加奈子さんが一緒に歩いていて、あの二人がいつの間にかそういう間柄になっていた、と知った時。何を言えというのだ。言えるわけがないではないか。しかし、町田君の私に対する態度が変わったのは、多分それからだった。

その時おそらく、彼はこう思ったのではないだろうか。自分は、その他大勢の一人に過ぎなかったのだ、と。

「もしかして、わかったかも。町田君が本当は何を知りたかったのか」

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