第33話 未定稿その3

 いつもあたりまえのようにやってきたことが、突然信じられなくなることがある。例えば、僕は本当に猫が好きなのだろうか。

 物心ついたときから猫が傍にいたから、考えたこともなかった。普通の子供は、おもちゃを買ってもらうように猫を与えてもらうのだと思っていた。猫が家に来たときのことを今でも覚えている。弟が生まれて、僕が寂しい思いをしないようにと、母が猫をもらってきた。普通そういうものなのだろうと思っていたけれども、ふとなんだかおかしいなと思って周りを見渡すと、みんな弟や妹が生まれても、彼らの母親は以前と同じように彼らを可愛がっているように見えた。

 家に来たときにはまだ子猫だったその猫は、一年もすると一丁前に貫録も出てきた。僕には母親がいないように見えたのか、猫は自然と僕の母親であるかのように振る舞い始めた。はっきり言って猫は母を嫌っていて、露骨に態度に表していた。幸か不幸か母は猫に興味がなかったので、気づくことはなかったけど。

 猫はいつも僕の味方だった。僕が幼稚園へ行くときには門の前まで送ってくれて、僕が帰る頃になるとまた門の辺りで待っていた。僕を見つけると、表情は変えないものの「にゃあん」と甘えた声を出し、歩く邪魔になるくらい僕の足にじゃれついた。こんなに僕のことを大事に思ってくれる存在が家にいる、それだけが、僕にあの家での居場所を与えてくれた確かなものだった。もし猫がいなかったら、あの家で暮らし続けることが果たしてできたのだろうか。

 あの日家に来た猫がもしタミじゃなかったら、どうなっていたんだろうと考えることがある。もし、もっと気の利かない子供のような、包容力のない猫だったら。僕は非行に走るか、不登校になるかして、母さんはもう少し僕への接し方を見直さなければという気になったのだろうか。幸か不幸か、タミが僕の養育をしてくれたおかげで、僕は何ら問題なく今まで生きてきた。一応、衣食住は確保され、アルバイトしなくても進学できる経済的な環境も整えてくれている家庭がある。進路についても、生活態度についても、特に口出しされない。あなたはそれ以上何を望むの? と言われても答えに窮してしまう。

 だけど、家族よりもむしろ猫の方が僕のことを知っている、そういうのってどうなのかな。僕が悩んでいれば、タミは素早く見てとり、何があったのかと問い詰めてくる。「タミに全部お話しなさい」とばかりに、じっと僕の目を覗きこんでくる。真っ直ぐ心に入り込んでくる。少しでも誤魔化そうとすると、「タミを騙そうとお思いですか」とばかりに睨んでくる。猫の体を撫でながら、僕はつい、今日学校であったこと、家であったことなんかを話してしまうのだ。

 猫が好きだというよりも、タミが大事なのだ。他の猫には特に興味はない。野良猫が捨てられているのを見ると、可哀想だなとは思うけど、「君が運の強い猫なら、きっと誰かに拾って可愛がってもらえるよ、ごめんね、僕には何もできないんだ」と心の中で呟くだけだ。たまに若いだけの猫を見かけても、家に連れて帰りたいとは思わない。僕に必要なのは、猫ではなく、タミなのだ。

 タミは、猫で、デブ猫で、ずっしり重くて、柔らかくてふわふわしている。もう少し若い頃は今よりも精悍だったのだけど、今では鳥を追い回すのにも飽きたようだ。日中何をしているのか知らないけれども、休みの日は一日中僕の部屋で寝ていることもある。あまりにも気持ちよさそうで、見ているだけでうっとりしてしまう。

 ある夜のこと、タミの目を見ていたら、そこには僕の顔が映っていた。瞳孔が大きくなっていて昼間見るよりも柔和な表情に見える。タミの目には、僕はどんな人間に見えているのだろうか。平然としているふりをしてるけど、本当はいつもびくびくしている。それを隠すために、ただ何事にも応じないようにしている僕。タミは知っている。

 繊細なガラス細工はきれいだけれど、柔らかい紙で覆って、その上でさらに厚紙の箱に入れなければすぐに壊れてしまう。厚紙の箱を見ただけでは中に何が入っているかはわからないから、箱に文字を書いて中身を判別している。お土産屋さんでそういう様子をみて、ふと思った。箱に間違えた文字を書いたら、お客さんは間違ったガラス細工を持ち帰ってしまう。近所に住んでいる人なら取り換えに来られるけど、遠くから来た人だったらわざわざ来ないだろう。間違って買ったガラス細工を修学旅行の記念に持ち帰る。それからその偶然来てしまった、本来欲しかったのとは違う品物を、割れるまで一生懸命大事にするのだろうか。

 僕を選んだ人は、何をもって僕だと思っているのだろう。箱を開けて、紙を開いて、中身を確認しているのか。それとも、ただ厚紙に書かれた鉛筆のメモをみて、それが中身だと信じているのか。どうなんだろうね、タミ。本人にそんなこと、とても訊けやしないけどね。

 タミはいつの間にか寝てしまった。タミには内緒だけれども、やっぱりいくら相手が猫だとはいえ、やはり起きている時に話しにくいこともあるのだ。こうして寝ている時の方が、僕も本心を話しやすかったりするのだ。

 猫の呼吸が聞こえるほど静かな夜。タミは何を考えているのだろう。僕よりも、もっと深い何かを見ているのかもしれないし、あるいは何も考えていないのかもしれない。

 タミと話ができたらいいのに。だけど、話ができるタミだったら、僕はこんなに色々と思いをぶちまけることはできないんだろうな。難しいものだね。

 

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