第29話 六週目②

 思い出そうにも、思い出せない。私はそんなに忘れっぽくなったのか……と言ってももう十年以上前だから、忘れていても仕方ないのだろうか。

「オーダー漏れで、町田先輩が注文したメニューだけこなくて、安藤先輩が激怒したんですよ」

 西本さんが落ち着き払った声で説明する。

「ああ、そんなことも、あったような、なかったような……」

 段々と思い出してきた。そうか、町田君に関することだから、あえて忘れていたわけか。みんなどういうわけか覚えているようだけど、だとするとこの間ファミリーレストランへ行った時も、幾人かは腹の中で笑っていたのかもしれない。

 アルバイトの態度が気に入らなかった。自分は悪くない、こんな大勢でああでもないこうでもない、やっぱりこれもだの、やっぱりあれはいらないだの、混乱するような注文をしたこの世間知らずのガキどもがいけないんだ。バイトもしてないようなやつらが、親からもらった小遣いでファミレスに来るんじゃないよ、とでも言いたげな態度に(実際は『申し訳ございません』としか言っていなかったにも関わらず)、かちんときた。

 これから作ってもらえばいいだけだから大丈夫だよ、と言った町田君に対しても、それでいいのか、と詰め寄った覚えがある。

「自分がそれだけ軽く扱われたってことだよ? 不愉快じゃないの?」

「いいよ、もう多分会うことはない人だし、向こうにとってだって、僕は単なるその他大勢の客の一人なんだから」

「私は許せないな、あの人の態度、見た? バイトもしてないようなやつら、親からもらった小遣いでファミレスに来るんじゃないよ、とでも言いたげじゃない」

 みんなクスクス笑っている。静香さんが「面白いけど、もう少し小さい声で話そうよ」と囁く。

「こんな店、出ようよ」

 しかし、町田以外のオーダーは全部来てしまっていたので、張本人の町田君が私をなだめ、遠慮がちな他の人達に早く食べるよう促す、というよくわからない状況になってしまった。そういえば、あのとき町田君の隣に座っていた加奈子さんは、ちゃっかり「このパン、一個いりませんか?」などと自分の食べ物を勧めていなかっただろうか。人のことを気にするタイプなだけかもしれないけれども、あの時から既に彼に興味があったのかもしれなかった。

「あの時、安藤さんは、自分を大切にしてる人なんだなって思ったんだ」

 町田君の声に、ふと我に返る。

「今だったら、よくあることだし、四月だからバイトさんも入ったばかりで慣れてないのかなって思えるんだけどね」

 馬鹿じゃないの。自分のことだったら、面倒くさいから黙ってるに決まってるでしょう。普段の私を見ていればわかるでしょう、と反論するタイミングを失ってしまった。大勢の前で言うセリフではないとわかってはいるけれど、それでも今言わなくてよかったのだろうか。そうしている間にもどんどん話は別の方向へと進んでいき、三分も経った頃には、もはや言い直す隙間なんてどこにもなかった。

 帰りの電車では、加奈子さんと途中まで一緒だった。してもしなくてもどちらでもいい世間話を続けていた。本当に話すべきなのは違うことのような気がするのだけれど。

「町田君が、高校生の時にどういうことで悩んでたか知ってる?」「あの頃の彼も、自分はビルの四十五階から五十五階までの中でしか生きられていない、なんて言ってたの?」「タミさんっていう飼い猫の話を聞いたことある?」「町田君って、本当はどんな人だと思う?」

 次々と質問が思いつくけれど、どれも、騒がしい電車の中で話すような内容ではない。

「涼子先輩、住所教えてくれませんか?」

 我に返り、加奈子さんに目を向ける。

「昼下がり、送るので」

「後でメールするね。着払いでよろしく」

 在学期間が彼女と重なっていたのは二年間だけど、年に二冊組を五回出していたので、計二十冊ほどになる。小さいダンボール箱くらいの量はあるだろう。

 この人ともう少し話したいといえば話したいような、もう会いたくないといえば会いたくないような。電車の揺れとともに、気持ちも小刻みに揺れている。

 それでも彼女が降車する駅に着き、閉まるドアの向こうにその笑顔が見えたときには、やっぱりこの子は可愛いんだなと思った。


月曜日は筋肉痛を言い訳に、また十時くらいまでだらだらと寝ていた。美術館など閉まっている施設も多いので、どのみちすることが限られるのだ。どうせなら、水曜日とか、他の日が休みだったらいいのにと思うこともある。

 猫がこちらにいられるのは、あと十日間ほどしかない。いるとは言っても、もはや姿を見ることはほとんどできない。私が猫のためにできることって何だろう。高級なキャットフードを買って来ても仕方ないし、猫のおもちゃを飼っても無駄なエネルギーを消費させるだけだし。

 火曜日になり、ほぼ筋肉痛は治り、いつも通り仕事に復帰する。

「そういえば、猫さん元気にしてる?」

 と大沢さん。

「猫……、最近あんまりいないんですよ」

一瞬大沢さんの動きが止まり、私の顔をじっと見た。

「自分で部屋から出られるんだっけ?」

「ええと、仕事に出る前に、出たい出たいっていうから、外に出すんですね。で、夜は帰ってきたり、来なかったり」

「おばあさん猫だから心配だね。でも、大丈夫なの? 預かっている猫に万が一のことがあったら」

「好きにさせといてって言われていますので」

 まあ、元々猫を束縛する権限など私にはないのだ。撫でることすらできないのだし。

「でも、猫さんいなくなると寂しくなるね」

「そうですね」

 素直に肯定の言葉が出てきたのには、我ながらびっくりだった。

水曜日の夜、加奈子さんから宅配便が届くことになっていたので、お風呂に入るのを我慢して待っていた。一人暮らしの勤め人は、これだから大変だ。

 時間ぎりぎりの八時五十七分に、荷物はやってきた。案の定着払いではなかった。お風呂に入るのが先か、荷物を開封するのが先か。迷った末、即急にシャワーを浴びてから開封することにする。

 普段より部屋着を一枚多く重ねて、カッターナイフでガムテープを切る。実は開けたら三毛猫の子猫が五匹くらい現れるのではないかと、おかしな想像をしてしまう。

 箱の中には、昼下がりがぎっしり詰まっていた。その上には、封筒に入った手紙らしきものがぽんと置いてあった。

恐る恐る開封したものの、中には便箋一枚しか入っていない。事務的な文章で、昼下がりを同封します、新居には置くスペースがないので差し上げます、といったことが書かれている。そして最後にはこんな一行が添えられている。

「やっぱり、怒ってますよね?」

 これは、どう解釈すればいいのだろうか。もしかすると、日曜日、彼女もまた、世間話をする振りをしながら、他に話すべきことがあるのに、と思っていたりしなかったか。別れた後、家に着いてから彼女宛にメールで住所を送った。そのときに、今日は楽しかった、ありがとうございます、との旨の返信があった。もし本当に返事を望んでいるのであれば、そのとき書くのが自然だろう。それが、わざわざ同封する必要もない手紙に万年筆で書かれているのだ。答えようとするならば、送られたメールに返信するよりも一手間かかる。それだけ回答を得る確率は低くなるということだ。私は試されているのだろうか?

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