第27話 五週目③

 その日は真っ直ぐ帰る気になれず、パン屋に寄ってコーヒーとパンで夕食をすませながら、現状をノートに書き出してみることにした。

 私の家には椅子らしい椅子はないので、座るとしたら座布団の上かベッドの上しかない。しかし、長年の学校教育で培ってきた習性なのか、考え事をするには、やはり椅子と机があった方がよい。

 甘く煮た栗と生クリームの入ったデニッシュを食べながら、何から書けばいいか思いを巡らせてみる。私がもし、今回のこと、猫やNo2のことを書きとめずに何年か経ったら、全部忘れてしまうのだろうか。以前猫が言っていたことを思い出す。夢をみても一緒にその中で過ごしたことを共有した者がいなければ、ただの夢だと思って忘れてしまうという話だった。当然ながら、「こんなことがあったんだよね」と誰かに話してみたところで、信じる人などいないだろう。だったら、これはきっちり書き留めておくべきなのか、もしくは来たるべき日が来て、すべてに片が付けば、きれいさっぱり忘れたいと思うのだろうか。

 パンを食べ終え、とりあえずペンを持つため手帳を取り出す。最近、書く用事にはもっぱら手帳に差してあるペンを使っている。しかし、そんな時に限って手帳にペンは挟まれていなかった。仕事中、珍しくメモを取る場面があってそのまま机の上に置いて来てしまったのだ。書くかどうか迷う前に、初めから今日ここで今までのことを書き起こすという選択肢はなかったのだった。

 しかし、自分の意思で書かないことを決めたのと、他の要因(結局自分のせいだとしても)で書けないのとでは思いが違う。これも、選んだものが間違っていたということになるのか。今日ではなく、明日このパン屋に寄ることにしていたら、書けたのだろうか。もしくは昼間、メモを取るほどの用事ではないと暗記するに任せていたら、今ペンがないという状況は起こらなかったのだろうか。

 もし、何かが違っていたら。その時々で、選ぶ扉が少しずつ違ったのなら、私の迷路とあの人の迷路とが一時的にでもつながることもあったのだろうか。もし横着せずに、その時必要だと思うアイテムをきっちり手に入れていたら、話すべき人と話をしていたら……、しかし、今となっては何がすべきことだったのかなんてわからない。コーヒーを飲み干し、店を後にした。

 

「明日はハイキングへ行くそうですね」

 四回目の夢。いつだかに用意されていたのと同じ、アウトドア用のテーブルと椅子が置いてある。この人の頭の中もハイキングモードなのだろうか。

「ハイキング、好きなんですか?」

 つられて、私まで敬語になる。

「彼だって、たまには人ごみを離れてのんびりしたいと思ってるんですよ。そのまま、仕事サボって山の中にでもいればって、そそのかしてみようかな」

 睨み付けてやるけれども、動じる気配はない。

「彼、混乱していましたよ」

 珍しく、No2はちょっと真剣な目をしている。

「あなたが昼下がりを持っていない、などと言うから」

「そんなの、個人の自由じゃない」

「そうですよ。それがわかっているから、なおさら割り切れないものを感じているのです」

 やはり私の勘は、わずかばかりかすっていたわけだ。

 つまりは、自分が大事にとっておいた思い出の品、大事に温めていた思い出が、他人にとってはそうではなかった。一緒に思い出を共有していたと思っていたのに、思い込みに過ぎなかった。それって女の子に例えると、もう誰も見向きもしなくなったリカちゃん人形を、自分一人だけ大事にしていた……という状況なのだろうか?

「ちょっと、方向がずれてきてますよ」

 No2が呆れたように呟く。

「えっ、聞いてたの?」

「そんな大声で独り言を言っておいて、聞いてたの、はありませんよ。あなたも最近お疲れなのではないですか」

 私は息を飲んだ。

「ところで、思い出しましたか? 自分が何をしたのか」

「私はただ普通に生きていただけだよ。それがたまたま誰かに迷惑かけちゃったときもあるだろうけど、そんなのお互いさまじゃないの? そんなに根に持つんだったら、そのときに怒ればよかったんじゃないの」

「それがあなたの答えだってわけですね」

「大体ね、町田君には恋人がいるんでしょう。私にどんな恨みがあるのか知らないけどさ、なんで今更私関わる必要があるわけ?」

「それはこっちのセリフですよ。あなたこそ、もう私たちに関わらなければいいんじゃないですか」

「でも、猫が……」

「まったく、いつも猫のせいにして。そんなに猫が大事なら言いますけど、あなたがタミなんて相手にせずに知らん顔していれば、タミは今頃成仏して、あの世で楽に暮らしていたはずなんですよ。ほら、もう蝶々と戯れる元気もないようだ。憐れなものです」

「憐れだなんて言うんじゃない!」

 衝動的にNo2をひっぱたこうと手を振り上げ、放つ。

 私は普段暴力をふるうような人間ではない。ふいに湧き上がった怒りに、自分でも驚く。他人の夢の中とはいえ、いつまでも夢の中にいると縛るものがなくなり、奔放に振る舞うようになってきてしまうのだろうか。

 そして当然、No2は私に叩かれるような間抜けではない。ひょいと身を翻し、事なきを得た。

「あなたにタミの何がわかるのですか」

 No2は体勢を整えると、あなたにだけは言われたくない、という典型的なセリフを口にする。

「何もわかんないけど、飼い猫がここまで飼い主のために頑張ってるんだから、馬鹿にするなんて気にくわない」

 その時、No2がよけた時に紙束を落としたのが目に入った。やつが抹茶ミルクを飲んでいる隙に、さっと拾い上げる。

 気づかれずにこの紙束を読むには、どうすればよいのだろう。夢から起きたら、きっとこれはなくなっているだろうし、今こやつの前で読むわけにはいかないし……。

「ねえ、あんたもタミさんと遊んできたら?」

 No2は、真意が読めないとでも言いたげな面持ちだ。

「町田君にとってタミさんが大事な猫だったとしたら、あんたにとってもそうだったんでしょう。もうすぐ会えなくなっちゃうんだよ、タミさんとは」

「私は、猫を与えられて誤魔化されるような馬鹿ではありません」

 私がなにか下心があることに気づいてしまっているのか?

「そもそもタミは、母親が、下の子供の面倒をみるのに感けて、彼に費やす時間を減らしたいがためにもらってきた猫なのです。彼が寝ていると思って、堂々と隣の部屋でそんな話をしていたものだから、彼は知っているのです。自分には猫で弟には母親。ショックですよね。そのとき彼は思った、猫なんかで騙されないぞ、と」

 話がややこしくなってきた……。

「しかし、タミを見た瞬間に、そんなことはすべて忘れてしまいました。やってきた子猫が、あまりに可愛らしかったからです。そして、彼の庇護を必要としていました。なにせ母親はあんな人ですからね。

 彼はその時まだ、他者の面倒を見るよりも他者から面倒を見てもらう年齢にありました。しかしながら、この小さい生き物は自分が守ってやらないといけないのだ、と確信しました。皮肉にも、他者に愛情を注ぐことにより、自分に注がれていない愛情については、しばしの間忘れることができたのです」

 こやつは、本当は猫のことをどう思っているのか? まさか、突然金属バットを取り出して殴ったりしないだろうな……?

「彼は忘れていても、私は忘れない。この猫が何のためにやってきたのか。

 でも、うーん、やっぱり可愛いなあ……」 

 No2は気配を察して逃げ出す猫に駆け寄ると、さっと抱き上げた。

 猫は嫌がるものの、彼は離そうとしない。強引に抱きかかえたまま、頭を撫でている。やがて猫は静かになり、身を任すようになった。

 今のうちだとばかりに、紙束に目を通す。それは、何かの台本のようだった。パソコンで書かれた文字に、ところどころ手書きで注釈がついている。


―BGM そっくり人形展覧会

「今から十数えるので、その間目を閉じていて下さい」

 赤いボタンを押し、扉を用意する。

相手が目を開けるのを確認する。

「この扉の中で、どれか一つ、好きなものを開けて下さい」

少し間を置いて

「どこかに、“彼”がいます。曲が終わるまでが制限時間です」


「何してるんですか」

 いつの間にか隣にNo2がいて、私の手から台本をひったくる。

「ひったくり!」

「あなたはねこばばですね」

「何なの、それは」

 No2は勿体ぶった態度を見せながら、余裕たっぷりに呟いた。

「台本ですよ」

「誰が作ったの」

「彼です」

何のために、と訊く前に彼は続ける。

「自分は今からかくれんぼするから、ゲストが現れたらこういった手順でゲームを進めるようにと指示されたんです」

「自分の夢の中で、かくれんぼしてるの? 何でそんなことを?」

「じゃあ訊きますけど、かくれんぼの目的って何ですか?」

 そんなの、私に訊かれても単純な答えしか返せない。

「隠れた人を見つけること、じゃないの?」

 言ったそばから、そっくり人形展覧会の最後のフレーズが流れた。

 電気のスイッチが消えたかのように、辺りが真っ暗になった。


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