第20話 四週目③

 なんだ、この話。あのセリフ、あれは私が高校時代に聞いたものではないか。

 猫はそのことを知っているのか。突然そんな話をされて、動揺したのを悟られないようにするので精いっぱいだ。

 猫はそんな私の様子に気づかづに、話を続ける。

―お坊ちゃまは、大そう辛抱強いお方です。弟さんは、自分の分まで無邪気に過ごせるようにと、精いっぱい気を使われておりました。

 ご自身は高校を卒業するとすぐに家を出られましたが、弟さんは就職した今でも家でゆるりと過ごされております。まあ、お母様とも仲がよろしいですから。

「タミさんは、町田君が大学へ行くために家を出た後、どうしていたんですか?」

―お坊ちゃまがいなくなってしまったことは、身を切るように寂しいことでした。しかし、定期的に帰ってくることがわかりましたし、それに猫の脳みそは悲しいことを覚え続けていられるほど大きくはないのですよ。美味しいキャットフードを三回も食べれば、すぐに忘れてしまいます。

 どちらともなく会話が途切れ、やがて猫が眠りに着いた気配が感じられた。


 翌日、猫はなかなか起きる気配を見せなかった。ちょっと前よりも寝ている時間が増えている。この世から遠ざかる過程の一つなのだろうか。猫が起きるまで待っていようかと思ったけれど、多少騒がしいところで考え事をしたかったので、駅ビル内の喫茶店へ行くことにした。

 隣の席の子は受験生なのか、脇目もふらずに数学の問題を解いている。最近の高校生はお金があるようだ。

 今更ながら、手帳を見ると猫の命日から既に四週間が経過していた。四十九日目がいつに当たるのか数えてみる。今は十一月の初めだが、十一月の終わりには、もう猫はいなくなってしまうのだ。

 そうして究極の問題は、猫は何がしたいのか、No2とは何者なのか、今まで以上にわからなくなってきているということだ。彼らの言っていたことなどを逐一記録しておけばよかったのだろうか。しかし、こういう場合はメモを残して一つ一つの事柄にあまりこだわりすぎると、出来事の全景が掴めなくなってしまう気がする。なんて言ってみたところで、わからないものはわからない。私は完全に出口を見失っていた。

 あと四週間が残っている。しかし、もう四週間しかないとも言える。試験前にどれだけ勉強できるかで悩む受験生の心境だ。

 結局、夜になっても猫は起きないままだった。


 どこかの職場で従業員として働いているからには、勤務日には出社する義務がある。今ほど、そのことをありがたく感じている時はない。火曜日になり、今日もこうして、定時に出勤が可能なぎりぎりの時間に起きて、小走りになりながら電車に乗り込み、何食わぬ顔して「おはようございます」と言って席に着けば、ひとまずは普通の暮らしをしていることが感じられる。

 地下の部屋はひんやりしていて、埃っぽくて、風通しが悪い。図書館の床からわずか数メートル下にこんな部屋があることを、どれだけの人が知っているのだろうか。存在は知っているにせよ、入れるのはごくわずかの限られた人だけだ。なんて偉そうなことを言っても、私はただの非正規雇用職員なのだけど。 

 図書館がある限り、書庫がある。たまたま求人案内を見て応募しなければ、ずっと知ることはなかったこの空間。ちょっとした物音は、幾重にも折り重なった紙と情報の蓄積との中に、瞬く間に吸い込まれていく。町田君の中にも、いや、きっと私の中にもこういった空間が存在するのだ。何かのきっかけで扉が開けられるまで、アクセスすることはない場所。

 昨夜の猫の話を思い出す。高校に入学したばかりの生徒達なんて、受験勉強から解放されたうれしさとか、新しい友達、学校、制服、新しい街、広がる行動範囲など、どちらかというと、わくわくするだとか、ほっとしているだとか、そういった類のキーワードが似合う年頃である。そんな人達に囲まれて、彼は一人悶々としていたのだ。

 そうして溜まったものを、文章を書くことで昇華させたい、などと思っていたこともあったのだろうか。思ってみたところで、彼のことだ、自分の家族関係に疑問を持たれるようなことなど公表することはできないだろう。自分の部屋で書くことはあったかもしれないけれど、きっとそういう原稿は会誌に投稿はせず、引き出しの隅にでも押し込んでおいたに違いない。

 お昼のチャイムで我に返る。席に着き、鞄から携帯電話を取り出すと、町田君からメールが来ていた。一瞬ぎょっとしたが、例の猫の寝床はうまく活用できていそうか、という用件だった。古い猫の臭いが染みこんでいて、新たな猫は嫌がっていないかと懸念しているようだ。他人の、というか他猫の心配する前に自分の心配しろよ、と思う。即答するのもうそっぽいので、「訊いてみるね」と返事をしておいた。

 

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