第19話 四週目②

 家に帰り、あまり元気が出なくて、猫のようにごろごろしてしまう。暗くなってお腹がすいてきたので、棚にストックしてあったカップラーメンを食べる。

―珍しいお食事ですね。

 猫が覗き込んでくる。

「ああ、カップラーメンっていうんですよ。町田君は食べてなかったんですか?」

―お坊ちゃまは、きちんとしたお食事を好まれるお方なので。

 猫が見ても、即席の食事だとわかるわけだ。責められているのだろうか。しかし、私を追い詰めている原因の一因は猫にもあるのだ。

 お風呂にゆっくり浸かる気にもなれず、寒いけれどもシャワーだけ浴びる。髪をドライヤーで一気に乾かし、布団にもぐりこむ。

町田君が弱っていることを、猫に話したものだろうか。それとも、余計な心配をかけるだけなのだろうか。

猫ベッドで丸くなっている猫に話しかけてみる。

「タミさん、町田君、私達のこと薄々勘付いてましたよ」

 あまりダイレクトに言うのもなんなので、言いやすいことから言ってみる。

―不倫でもしているような言い方はよして下さい。

 どこからそういう発想が出てくるのだ。冗談にもほどがある。

―もう少し丁寧に説明して下さらないと、わかることもわかりません。

「タミさんが他界されたのは実は勘違いで、タミさんは私の家で幸せに暮らしている夢をみたんですって」

 猫はしばらく黙っていた。どうしたのだろうと思うと、すすり泣いているようだった。

「ねえ、タミさん、町田君のところにも行ってあげればいいじゃないですか」

―だめなんですよ。

「何がだめなんですか?」

―初めにここに来たとき、言いませんでしたっけ。お坊ちゃまは、起きているときには私に気づいてくれなかったのです。夢の中では、あなたもご存知のように、あの者が邪魔するのでお会いすることができない……。

「なんで私にはタミさんが見えるのでしょう」

―実は、お坊ちゃまの夢から放り出された後、タミは様々な方々訪ねて回りました。まずはお坊ちゃまのご家族の方、近しいご友人の方々、もちろんおつきあいされている方の元へも行きました。しかし、誰一人としてタミを見ることはできなかったのです。うっすら影を認識できる方は何人かいたのですが、『化けもの!』と罵られ、枕やコップを投げつけられるだけでした。

 仕方がないのでさらに裾野を広げ、会社のお友達、大学の頃のお友達、そして高校の頃のお友達の元も訪ねることにしたのです。

「タミさん、私の家に飛ばされて来たって言ってませんでしたっけ」

―あれは作り話です。

 猫は断言した。

―高校の頃のお友達の元を回っていたときでした。ようやくあなたが、タミに気づいたのです。

「何で、作り話をしたのですか?」

―心配だったのです。

 猫は軽く俯いた。これがすらりとした猫だったら、色っぽく見えるのかもしれない。

―ここに来る前に、何十人もの人を訪ねました。そうしてようやくあなたと話すことができた。そんなことを言ったら、あなたはどうお思いになるでしょう。

「それは……」

 それは、実は私が町田君にとってかなり特別な人だったのかもしれない、ということだ。私が思う以上に、もしくは彼が思っていた以上に。つまりは……。

―自分を特殊な能力を持つ人間だと思い、心配してそっち方面にご相談へ行くのではないかと思ったのです。タミは一刻も早くあなたにお話をきいて欲しかった。だから、他の人にタミが見えるかどうか、という話題には今まで敢えて触れないようにしていたのです。

「そうですか……。しかし、何故私だけタミさんに気づくことができたのでしょう」

―こういう言い方をしたら差支えがあるかもしれませんが、タミの印象を正直に申し上げてもよろしいでしょうか。

「はい、何なりと」

―あなたは他の多くの方々と比べて、何というか、時間が有り余っているように見えます。

 私が口をあんぐり開けているのに気づきもせず、猫は続ける。

―扶養義務のある家族がいるわけではなく、定期的に通う趣味のサークルがあるわけでもない、残業もないし、病気もない、介護や育児をする必要もない……つまり暇なんです。それ故に、タミのように生活に直接関係のないものの気配を敏感に察することができたのではないかと、タミは考えております。

 ものすごく馬鹿にされているような気がする。本当に私に力を貸してもらいたいと思っているのだろうか、この猫さんは。

―だからタミは、あなたに話していいものかどうかずっと決めかねていたのです。あなたが単なる暇な人で、それでタミを見ることができた。そんなあなたにお坊ちゃまの秘密を洗いざらい打ち明けてしまうだなんて、そんな無責任なことは、いくら死にかけた猫だからといって許されることではありません。

 死にかけた、ではなくもう死んでますよね、と言いたいのをぐっとこらえる。

―しかし、ここ数週間あなたの様子を見てきてわかりました。少なくとも、あなたはお坊ちゃまのことをどうでもいいと考えているような人ではありません。単に好奇心旺盛なだけなのかとも思っておりましたが、それだけではないようです。なので、タミは決意しました。

 ごくりと生唾を飲み込む。

―あなたに、お坊ちゃまの秘密を一つだけお話ししましょう。

 猫は自分を納得させるかのようにこくりと頷くと、話し始めた。


 猫がまだ中年と呼べる頃だったのだろうか、今よりも精悍で、まだ近所をパトロールする習慣があり、たまに紐で遊んでもらうと喜んでいたあの頃。町田君はその頃、高校に入る直前だった。中学校を卒業してからの春休みはやや長くて、彼は普段よりも家にいる時間が長かった。猫は嬉しくて、毎日のようににゃあにゃあ彼に甘えていた。

 町田君は思ったことをあまり顔や態度に出さない方だが、見かけよりもかなり鋭い。こともあろうに、母親はちょっとうっかりしている人で、そのことに気づかなかった。

 その日、たまたま着ようとしていた黒い長袖シャツが見当たらなかった。母の婦人用のそれとよく似ているので、何気なく母の引き出しを開けてみた。案の定シャツはそこにあったのだが、不自然に服に紛れ込む、白い封筒が目に入る。差出人の名前は母の女友達のようだが、そんなものすんなりと信じられようか。後ろ髪をひかれながらも、お約束のように、とうとう中身を見てしまう。

 そこにあったのは、明らかに男性から母親に宛てられた文章だった。同窓会で再会してから何度か会っていたことが仄めかされており、離婚して自分と一緒になって欲しい、という内容が綴られている。シーズンが終わればたちまち忘れ去られるようなドラマに出てくる、月並みな内容だった。

 “あのとき僕は君と別れるべきではなかった。僕は間違った人を選んでしまったのだ。

 なぜ母はこんな手紙を取っておいているのか。もしかすると、母もまた父のことを間違った相手だと思っているということなのか。

 そういえば、一年前に何かのことで喧嘩したときに「あんたなんて生むんじゃなかった」と言われたことがあったっけ。母は他の友人の母親よりも若い気がしていたが、もしかすると結婚する以前に自分が宿り、それでやむを得ず父と結婚することになったのではないか。ちょっと前に、そんなドラマがテレビで放映されていたことを思い出す。結末はよく覚えていないけれども、あのドラマでも母親役の女優が、父親役の俳優に言っていなかったか。「あなたと結婚したのは間違いだったわ」と。

 母親は、自分を生んだのは間違いだったと思いながら、せっせと育ててきたのだろうか。様々な間違いが複雑に入り組んだ結果、自分は今こうしてここにいるというのか。それ以降、町田君は今まで以上に、学校でも、そして特に家庭では自分の感情を極力他人に見せないようになったのだった。

 結局母親は手紙を盗み見られたことも知らないまま、その同窓生とは疎遠になったようだが、彼の母親に対する、わずかに残されていた愛着のようなものは、きれいさっぱり消え去ったのだった。

 そんなある日のことだった。たまたま気が緩んだのか、一度だけそのことについて他人に話そうとしたことがあった。人は誰も、秘密を抱え込んだまま長いこと耐えるのは難しいものだ。しかし、会ったばかりの人にどこまで個人的なことを話したものか。

「そうして妥協して進んでいくうちに、自分は本当は何がほしかったのかわからなくなっていく。必要なものを入手しないと次に進めないようにできていれば、迷わなくてすむのに」

 ゲームを例に出して例え話をするのが、彼にとっては精一杯だった。

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