第11話 二週目③

 ご飯を食べると眠くなる傾向が、加齢とともに強まっている気はするものの、その日の午後の眠気は尋常ではなかった。きっとここ数日ろくに眠れなかったからだろう。どうせ地下なんて誰も来ないんだし、五分くらい居眠りしたいという衝動に駆られる。しかしここは小者の悲しいところ、クビにされるのが怖いので、倒れるまではせっせと働こうと思ってしまう。

 いくらわずかばかりの蓄えがあるからと言って、余裕があるわけではない。辛うじて社会保険料は払ってもらっているものの、ボーナスなんて夢のまた夢である。この間だって、お茶だからまだ行かれたものの、飲みに行こうなどと言われた日には、その都度お財布と相談しなければいけない。

 もしここをクビになったら、何かいいアルバイトはあるのだろうか。選ばなければあるとは言っても、今年度いっぱいの期限付きとなれば、スーパーやコンビニエンスストアでは嫌がられるだろうし、単発のバイトを探し続けるのもそれはそれで気が休まらないだろう。なかなか一人で生き抜いていくのは大変なのだ。

 本を棚に戻していくこと。これは当面の仕事ではあるけど、生涯続けていくライフワークとは言えない。いくら極めてみたところで、半年後の私はまるで違うことをしているのだ。メリットといえば、世の中にある本の名前を人より少しは覚える程度のことである。知識、技術の積み重ねなどないし、スキルアップにもならない。頑張ったところで、同僚や上司が一時的に喜んでくれる程度で、給料や社会的地位が向上することはない。まさに口を糊するという表現がぴったりだ。町田君は何を思って、こんな私のことをうらやましいなどと言ったのか。


 ふと、風でも吹いてきたかのごとく、過去の出来事が頭をよぎった。

 私たちは、いつも他の人たちよりも学校にいる時間が長かった。今から思えば、家よりも学校のほうが居心地がよかったということなのだろう。そういうわけで、二人でいるには慣れてはいたけど、二人とも長居しているので、ずっと話し続けることはなく、各自思い思いのことをしていた。しかしそのときは珍しく話が弾んでいて、私たちは一時間くらいの間、何かについて熱心に話し続けていたのだった。

 どういう話の流れだったか覚えてないけれど、町田君は、こんなことを言った。

「ドラクエみたいだね、それ」

 高校に入学したばかりで田舎者だった私は、よその学校でも同じゲームが流行っていたんだなどと、どうでもいいことに気を取られていた。

「あれだと、必要なアイテムを手に入れたり、重要な人物と話したり、そういう必ず行わないといけない儀式がある。それを終えないと、仮にものすごい数の敵を倒してレベルが上がっても、次に進めないじゃないか。面倒だけど、そうなっているおかげで、ゴールするために必要なものは確実に入手できるんだから、ある意味楽だよね」

 頷きながらも、彼が何を言わんとしているのかよく呑み込めない。

「実際の人生では、人って、本当は必要だったものをどれだけ見過ごしながら生きてるんだろうね」

「本当は必要だったもの?」

「例えば、芸大に入ることを目標にしていた受験生だって、芸大に行かれなくてもとりあえず違う大学に入れるよね。よくドラマや小説なんかでも、本当に好きだった人と結婚できなくても、生活のためにとりあえず違う人と結婚したら何だか幸せになっちゃいましたってあるじゃないか。

 自分が本当に必要だと思っているものでも、代用品なんていくらでもあるんだ」

 この人、この高校は第一希望ではなかったのだろうか、と思ってみた。

「そうして妥協して進んでいくうちに、自分は本当は何がほしかったのかわからなくなっていくんだ。必要なものを入手しないと次に進めないようにできていれば、迷わなくてすむのに」

 何と言おうか考えていると、誰かがやって来て、結局その会話はそれで終わった。その後も、そのことについて彼と話す機会はなかった。

 そうこうしているうちに、気づけば十五分休みの開始時間を少し過ぎていた。貴重な休憩時間を忘れそうになるだなんて、迂闊だった。さっさとコーヒーでも飲んで目を覚ました方が良さそうだった。



 平日は、仕事をして、必要最低限の家事をすると一日が終わる。前職と比べて残業はないし職場も近くにある。仕事もほぼ単純作業なのに、不思議なことにこのところ日々の疲れ具合が変わらないし、自由な時間もない気がする。おかしいなあ、と思っていると、

「あなたのお仕事はどういう仕事なのですか」

「同僚の方はどんな方なのですか」

 という具合に、猫に絡まれるのである。猫としては、日中は寝ているだけで暇だから、私が帰宅すると、何かとちょっかい出したくなるようなのだ。

「大沢さん、猫って、帰宅するとじゃれてきますか?」

 大沢さんは大きく首を縦に振る。

「猫って、一人が好きだってどこかで読んだ気がするんですけど」

「そういうときもないとは言えないけど……一人が好きというか、マイペースなんじゃないの。特に、私の家みたいに日中家に人がいないと、帰宅した瞬間はすごくすり寄ってくるよ。私は夫より常に帰宅が早いから、歩けないくらいまとわりついてくるし。安藤さんの猫もそうなの?」

「まあ、そんな感じなんです」

 大沢さんは、なんだか嬉しそうで、微笑ましいなあとでも思っているようだった。


 そんな我が家の猫さんが、金曜日に帰宅すると、珍しく玄関マットの上に畏まって座り、私を見上げていた。

「何かありましたか?」

―お帰りが遅かったですね。

「外食してきましたので」

 私は門限が厳しい家の箱入り娘か。

「あ、もしかして、タミさんも何か食べたいんですか?」

―今更そんなこと言われても。タミがもし食料を必要としている生き物であれば、とっくに餓死しています。

「普通、餓死する前に言うでしょう、お腹すいたって」

―世の中そういう人ばかりではありません。あなたと一緒にしないで下さい。

「そういう人ばかりですよ、普通は」

 そうだった、普通じゃないんだな、この猫もこの状況も。文句を言っても仕方がない。

―それより、あなた。今夜はまたあの場所へ行くことになります。心して寝て下さいね。

 訊くまでもない、きっとこの間のNo2がいる世界のことだろう。

「どうやって、そういうことを知るのですか?」

―虫の知らせです。

 聞いた私が馬鹿だった。まともではない生き物から、まともな答えなど返ってくるわけがないのだ。

―表情が固いですよ。もっと肩の力を抜いて、自然体でいて下さい。

 そうは言われても、この状況でリラックスできるほうがおかしい。

 しかし、確かに考えたり準備したりしても何かが改善されるとは思えない。

普段よりゆっくりお風呂に入り、ふろ上がりにゆったりしたクラッシック音楽を聴きながらストレッチをする。リラクゼーションだか自己啓発だかわからない曖昧なジャンルの本をぱらぱら捲り、十時半になると同時に消灯した。

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