第9話 二週目①

目が覚めて、時計を見ると六時十分だった。休日は、八時を過ぎても布団の中でだらだらしているのが常だ。二度寝するにもどうにも目が冴えてしまい、仕方なく起きることにした。

 お湯を沸かし、ドリッパーにフィルターをセットする。やがて湯が沸き、粉の上にお湯を注ぐと、不思議な現象が起こった。

―インスタントコーヒーをわざわざ濾すのですか。変わったことをされる方だこと。

 猫が呟く。何食わぬ顔でそのまま飲み、出かける準備を始める。

―こんなに早くからどこへ行くのですか。

 猫は足元をうろうろしている、

「散歩です」

 靴を履いてさっと玄関を出る。朝からこんなにイライラしているのは何故だろう。他者の気配がある生活にストレスを感じているのかもしれない。睡眠不足になって仕事中に居眠りしてクビになったら猫のせいだ……、などと思いながら歩き続ける。

 それにしても、昨日の夢は何だったのだろう。夢の中で、町田君にそっくりな人物と出会った。仮にNo2としておこう。No2のことは猫から聞いてなんとなく知ってはいたけれど、実際に目の前に現れると、確かに「町田君」と呼びかけてしまいそうだった。


「あなた、誰ですか?」

「誰ですか、とはあんまりじゃないですか。昼間会ったばかりなのに」

 答えに窮していると、No2は猫に視線を移す。

「他人の心の中に土足で踏み込もうだなんて、油断も隙もない猫ですね、タミ。猫にはわからないかもしれないけれど、人間にはプライバシーというものがあるんですよ」

「猫に対して土足はないでしょう。靴履いてないんだから」

 言い返すと、No2は冷ややかな笑みを浮かべた。

「ねえタミ、こちらにいられるのもあと四十日やそこらなんだから、もっと有意義な時間の使い方をしたらどうですか?」

 そう言うとポケットから猫じゃらしを取り出し、猫の目の前で振り始める。途端に猫は目の色変えて、にゃあと鳴きながらじゃれ始める。No2が振るのを止めると、はっと我に返ったように元の老猫の態度に戻る。しかし、もはや数分前の威厳が戻ることはなかった。

「まあ、せっかく来たんだから、軽くレクリエーションでもしませんか」

 黙って聞いていると、

「今から十数えるので、その間目を閉じていて下さい」

 などと言う。馬鹿正直に、十という声が聞こえるまで目を閉じ続ける。カウントが終わるとともに目を開けると、どうしたことだろう、そこには無数の扉が現れていた。まるで壁紙の模様のように、数々の扉が、三百六十度、視界がおよぶ範囲に、所狭しと配置されている。確か、マグリットの絵にこんな構図があった。様々な人間が宙に浮いていた絵、その絵を真似るかのごとく、様々な大きさ、色、デザインの扉が宙に浮いている。異様、という言葉で括ってしまうのでは物足りなくも、見事なまでに他の表現が思いつかない。一つ断言できることは、こんな光景夢の中でも御免こうむりたいということである。

「どれか一つ、好きなものを開けて下さい」

いつの間にか、BGMとしてそっくり人形展覧会が流れている。しかし、曲は終盤に近づいているようだ。

「この中のどこかに彼がいます。曲が終わるまでが制限時間です」

 エコーがかかった憎らしい声が降ってくる。私の記憶が正しければ、曲が終わるまではあと三十秒もない。

「タミさん、どれを開ければいいんですか?」

「まあ、好きにしてみればいいんじゃないですか」

 なんと無責任な返答なのだろう。所詮猫は猫なのか。

「じゃあ、これにします」

 比較的近いところにあった扉に駆け寄り、ドアノブに手をかける。黒地に青光りする粉がまぶしてある、カラスアゲハのような色の扉を開く。

 ホワイトアウトのような濃い霧が吹き出してくる。何があるのかまるで見えないまま、霧はもったいぶったようになかなか退散しようとしない。吹き飛ばしてやろうか、と息を吸い込むと同時に、ようやく何があるかが見えてくる。

現れたのは、書初め用の長い半紙で、そこには力強い字で「はずれ」と書かれていた。


 何だったんだ、あの夢は。

 少し頭がはっきりしてくると、数々の疑問が浮かんでくる。あやつは何者なのか、あの扉はなんだったのか、そして、なぜそっくり人形展覧会が流れていたのだろうか。

 また、なぜ私はあの扉の中に彼がいる、などと言われて素直に信じてしまったのだろう。いくら夢の中だとはいえ、相手のペースに乗せられてしまい、悔しいことこの上ない。そして、間違えた場合は何らかのペナルティが課されたりはしないのか、あのゲームらしきものに制限回数はあるのかどうかなど、考えてみると謎だらけである。

 床の上に置いてあるエコバックには、先週の木曜日に職場で借りた、全五巻のシリーズものミステリーが置いてある。まだ一巻しか読んでいなくて、この週末に一気に読破しようと思っていたのは、ほんの数日前のことだというのに。

「タミさん」

 猫は相変わらず棚の上に乗っかって、こちらを見下ろしている。

―何ですか。

「昨日の夢のことは、タミさんも覚えているんですか?」

―ええ、覚えていますとも。タミとあなたとで、お坊ちゃまの夢の中に入っておりました。

「町田君もそのことは覚えているのでしょうか」

―まあ、ある程度は覚えていらっしゃるかもしれませんね。しかしまあ、変な夢をみたと思ってすぐに忘れることでしょう。

「なぜ私は変な夢だと思って忘れていないのでしょう?」

―きっとあなただって、一人だったらすっかり忘れていることでしょうよ。こうしてタミと話しているから、あれは実際体験したことだと納得できて、その結果忘れないようにしようと思っているのです。

「もし私が一人だったとしても、忘れないようにしようと思えば、忘れないのですか?」

―さあ、タミは知りません。

 では誰に聞けばいいのだ。まあ、仕方ない、この話はまた後で考えよう。

「私、あの扉を軽々しく開けてしまってよかったのでしょうか」

―何が不満なのです。

「何らかのペナルティが課されたりしないのかなって気になっているんですけど」

―そうですね、私もなんと浅はかなお嬢さんなのだろう、と驚いて見ていました。

 驚くのは私の方だ。この猫、一体何を言い出すのだ。

「タミさんだって、好きにしろって言ったじゃないですか」

―私は、あなたに『どれを開ければいいか』と訊かれたので、『好きにしたらよいのでは』とお答えしたまでです。扉を開けるかどうかを問われていたら、答えはまた違ったものになっていたことでしょう。

「だって、あの状況だったら、誰だって開けないとって思いますよ」

―いいえ、注意深い人なら、開けていいのかどうかをまず考えます。きっと、あの者は昨日のあなたの行動を見てこう思ったことでしょう、こいつは単純だから上手く騙せそうだ、と。

 もし生きた猫だったら、蹴っ飛ばしてやるところだった。しかし、この猫が死者でなければ、私の目の前で何を思おうとも私はそんなの知ることもなく、蹴ろうとは思わないだろうから、話はそう単純ではない。そんなことを思っていると、結論など出ようはずがなかった。

「もう、何なのよ! あいつは何がしたいの!? 私、出かけてきます!」

―ちょっとお待ちなさい。

 振り返り、思いっきり猫を睨み付ける。

―あなたは、なぜタミが老体に鞭打ってこんな高い場所で寝起きしているのか、疑問に思わないのでしょうか。

「高いところが好きなんじゃないですか?」

 猫は首を横に振った。

―あなたは何もわかっていませんね。

「だから、なんなんですか。言ってくれないとわかりませんよ。生まれも育ちも文化も全然違うんだから」

―この部屋には、タミの寝床というものが、どこにもないじゃないですか。

 だって、と言いかけて、口ごもる。

―幽霊なんだから、その辺で宙にでも浮いていろ、と?

「そこまでは言ってないですけど」

―でもそれに近いことを考えていらっしゃるわけですね。

 近いというよりも、そのままなのだから、返答のしようがない。

「だったら、どうしろっていうんですか」

―ここまで言われて、わからないのですか。

「どんな寝床が欲しいんですか?」

―生前使っていたのが欲しいです。

 猫はそういうと、また丸くなって自分の体に顔をうずめた。

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