第7話 一週目⑤

「そろそろ帰らないと」

 時計を見て、町田君が呟く。

「お母さんがご飯用意して待ってるの?」

「僕は、一人暮らしだよ」

「家族と一緒に猫の面倒見てたんじゃなかったの?」

 町田君は顔をしかめた。

「そんなこと話したっけ? まあ、いいけど。

 就職してから九か月間は実家にいたけど、その後はずっと一人暮らしだよ。最近は、猫の具合が悪かったから実家から職場に通ったりもしてたけど、もう猫はいなくなったからアパートに戻った」

「そう見せかけて、実は二人暮らしだったりして」

 そんな静香さんを町田君は「はいはい」と制して、自分の分の代金を置くと去って行った。

「彼女と待ち合わせでもしてるんじゃないの?」

 静香さんは気になるようだったが、私は興味のないふりをした。

「町田君、家から通えるのに、何であえて一人暮らししてるんだろうね」

「私からすると、静香さんがよく実家で生活してるなって思っちゃうけど」

「だって、お金節約できるし、楽だし」

 前者はうなずけるけど、後者はどうだろう。

「色々と干渉されてイライラしない? 自由がないじゃない」

「どうせ一日中仕事してるんだし、一人だからといってさして自由だとも思えないけど」

 実は、私はまだ前の職場を辞めたことを親に言っていない。来年勤め出してから言えばいいと思っている。親と同居していたらおそらく不可能だろう。些細な価値観の違いを話し合って解決しようとしていると、一日が何時間あっても足りない。見て見ぬふりできる親と住むのならいいのかもしれないが。

ささやかな自由を得るための出費は、私にとっては決して削れるものではない。人にはそれぞれのやり方があるから、何とも言えないけれど。


 家に着き、ドアを開け、鞄を床に置き、お茶でも飲もうかと薬缶を手にした時だった。

―ただいまくらい言ったらどうですか?

 猫のことなどすっかり忘れていたので、びっくりして薬缶を落としかけた。

「ああ、猫さん、いたんですか」

―タミです。

「はあ、タミさん。お元気そうで何よりです」

 私の嫌味に気づかず、猫は淡々と続ける。

―お坊ちゃまはお元気そうでしたか?

「なぜ、私が町田君と会ったことを知っているのですか」

―なぜ私に坊ちゃまとお会いすることを隠していたのですか。

「隠したんじゃなくて、特に言わなかっただけです。それよりも、私の質問に答えて下さい。まさか、人のメールを勝手に読んだんですか?」

―猫に字が読めるとでもお思いですか。

 猫は小馬鹿にしたように呟く。

―あなたの気配から察したんです。

「じゃあ、お坊ちゃまがどんな様子だったかも、私の気配から察すればいいんじゃないですか」

―気の短いお方ですね。タミに八つ当たりされても困ります。 

 思わず薬缶を投げつけたい衝動に駆られる。しかし次の瞬間、昨夜の出来事、クッションが猫をすり抜けてベッドを叩いてしまった感触が思い出された。

―あなたの様子から察するに、あまり面白くないことがあったのでしょうか。

「まあ、会っていても特に面白い人でもないんで」

―でも面白いときもあったのでしょう。

「あったとしても、多分、もう思い出せないくらい遠い昔のことです」

―あなたみたいなお若い方がそんな表現を使ってみたところで、重みがありません。恰好つけるのはおよしになった方がいいでしょう。

 いつの間にか、猫とまともにやりあってしまっていた。気を取り直して、当初の目的であるお茶を淹れるという作業に着手する。

―お坊ちゃまは、タミのことを何かおっしゃっていましたか?

「すごく落ち込んでいるみたいでしたよ。私がタミさんのことを訊こうとしたら、すごい形相で睨まれました」

 猫の表情の変化はよくわからなかったが、静かになったところを見ると、よい思いをしているわけではなさそうだった。

 ご飯を食べて、入浴を済ませる。髪を乾かすと、昨日よく眠れなかったせいだろうか、あっという間に意識が遠のいていった。


 気が付くと、川の前に立っていた。

 ここはどこなのだろう。ふと「賽の河原」という言葉が思い浮かぶ。日中も、自分の仕事についても同じ固有名詞を使って話したことを思い出す。何でそんな話をすることになったのだっけ、と思っていると……。

「この川の向こうは、あっちの世界です」

 突然の声に驚き、飛び上がる。隣を見ると、猫がいる。

「あっちの世界、とは?」

 ここは、いつもの感覚からすると、夢の中であることはほぼ間違いない。しかし、なぜプライベートな空間であるはずの夢の中にまで、猫が侵入してきているのか。それに加えて、川の向こうはあっちの世界とのこと。まさか、死んだばかりの猫が私の前に現れたのは、なんだかんだ言いながらも、結局は私を川の向こうに連れていくための迎えだったということなのだろうか。

「あなたは、もしやこの川が三途の川だと勘違いしているのではありませんか?」

「勘違いかどうか知らないけど、そうだと思っています」

「これは三途の川ではありません。安心して渡って下さい」

 猫の言葉を一瞬頭の中で反芻してしまう。やはり、猫の言うことはおかしい気はする。

「さっき、向こうはあっちの世界だとか言っていたじゃないですか。安心して渡れるわけないですよ」

「そんな大げさなものではありません。この川は、もっと簡単な境界を表しているんです。ほら、よく県境とか市境とかを、川で決めたりするじゃないですか。あれと同じことです。深く気にせず、気楽に渡って下さい」

「気楽に? 県境や市境は平気で超えられるけれども、もしこれが国境だったら、入国審査も受けずに超えたりしたら犯罪ですよ。この川は、一体何の境目なんですか?」

「私とあなたとの境目です」

 川の向こうは、猫の世界だとでもいうのだろうか。向こう岸に目をやると、あきらめたほうが無難だと思うのと、できるかもしれないと期待するのと、ちょうどぎりぎりくらいの距離だ。

 川の水は透明で、淡いエメラルドグリーンである。磨かれた半貴石のような、淡くてきれいな色、フローライトとか、少し緑がかったアクアマリンを思わせる。渓床には、三十センチ程の白い丸い石がごろごろしている。足元をよく見ていないと、流れに足を取られて転んでしまいそうだ。これほど流れが急で幅もある川なんて、普段だったらまず歩いて渡ろうとは思わないけど、なんとなくできてしまうかもしれないと思える。なんだか危うさを覚える。

「あの、できたら橋を使いたいんですけど」

「それは、だめです」

「何故ですか? ほら、向こうに橋があるじゃないですか。二十分も歩けばたどり着けそうですよ」

「それはできないのです。あなたも先ほど言われたじゃないですか、入国審査を受けずに他国には入れない、と」

 まさか、と思い猫を見つめる。

「そう、堂々と行っても入れない、だからこうしてこそこそと渡るのですよ」

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