第2話 プロローグ②

―実は私、つい先日寿命が尽きたのです。

 せっかく言い直してあげたのにあっさりと無視され、猫は勝手に続ける。しかも、思った通りの展開である。

―あなたもご存知かもしれないけれど、生き物は、魂が体を離れてから四十九日経つと、魂もまた完全にこの世から離れることになります。私はおかげさまで、家猫としてのんびりと満ち足りた日々を過ごすことができて、思い残すことは何もありませんでした。

 とは言っても、やはり住み慣れた家、慣れ親しんだ人々とこれからずっと離れるかと思うと、やはり名残惜しいものです。他界してからの細々とした手続きを終えると、私は真っ先にお坊ちゃまの元へと飛んで行きました。

 聞いてます、と意思表示するために、軽く頷いてみる。

―ところで、あなたは最近お坊ちゃまにお会いしましたね?

「は、はあ、まあ」

―どう思われましたか?

「どうって……、まあ、普通じゃないですか」

 久々に会った彼は、同じ職場の女性と熱愛中らしかった。

「どちらかというと、まあ、楽しそうっていうか、幸せそうだったんじゃないですか」

 携帯が揺れる度にチェックしていた様子を思い出す。以前の彼はあんな人ではなかったはずだった。

―幸せそう、ね。表面的にはそう言えるかもしれないですね。

 どこでこういうひねくれた言い方を覚えてくるのだろう、猫のくせに。

―あなたは、あの光景を見ても、まだそんな呑気なことを言っていられるのかしら。

 猫の声色が変わった。

―猫には人の言葉は正確にはわかりません。しかしながら、その人の声や発している気配で、どういう状態でいるのかは、大体わかってしまうのですよ。

 しかし、今から思えば迂闊でした。生前だって、私は気づいていたのです。お坊ちゃまが、表面的には平静を装いながらも、一皮剥けばいつも浮かない顔をしていたことを。ええ、わかっていましたとも。でも、あそこまでだったとは、思ってもみなかった。


 猫は目の前に私がいることを忘れてはいないだろうか、と気になり始める。

―お坊ちゃまは、きっとお気づきでないんだわ。あんなに深く悩んでいらっしゃることを。きっと、いつもみたいに周りのみんなに心配かけないように、にこにこ笑って誤魔化していらっしゃるのだわ……。

「あの、話がよくわからないんですけど……」

 口を挟むと、猫ははっと我に返ったようだった。

取り乱してすみませんとの謝罪もなく、淡々と続ける。

―私はお坊ちゃまよりも長生きしたわけではありません。しかし、あなたもご存知かと思いますが、猫は人よりも早く成熟するものなのです。最初は子猫だった私も、あっという間にお坊ちゃまよりも大きくなってしまいました。そう、私はお坊ちゃまにとって、子供でもあり、友人でもあり、そして乳母でもあったのです。

 私が言うのもなんですが、お坊ちゃまは格別なお方でした。ちょっと気の弱いところはあるものの、それでも私が近所の悪がきに絡まれていたときには、身の危険を顧みずに助け出して下さいました。自分の鉛筆を削るのも忘れて登校するような幼い頃も、私のご飯とお水は欠かさず用意して下さいました。ご自身が寝込んで用意ができないときは、ご家族の誰かが自然に気づくのを待つのではなく、自らどなたかにお願いするような方でした。

 よその家の猫と世間話をしていると、子供というものはまずそんな行動はとらないそうです。目の前にキャットフードの袋があるのに、水道があるのに、気づいてもらえるまで声を枯らして鳴かないといけないなんてことは、ざらにあるそうなのです。そんな話を聞くたびに、タミにはお坊ちゃまの素晴らしさが身に染みました。


 タミって誰だ、と思ったけれど、この猫の名前がそうなのだろう。やけに渋い名前だけど。

「それで、なにが問題なんでしょう」

 猫は何を言おうか考えてでもいるように、遠くを見た。それからひとつ欠伸をすると、あろうことか、すーっと眠りに落ちてしまった。

「ちょっと、何なの、この猫、話の途中で寝るだなんて! こんなでぶ猫に陣取られたら、寝られないじゃないの!」

 猫を揺すって起こすことも考えてみるけど、猫好きではないので、触るのは気が進まない。また、触れなかったら怖いので、とりあえずそのまま放置することにした。

 思えば、お風呂から出たのに水分補給もしていなかった。髪も乾かさないままだったので、体は冷えつつある。カーディガンでも羽織らないと、あっという間に風邪をひいてしまいそうだ。髪が濡れているのも忘れて猫と向き合っていただなんて。笑うべきなのか、心配するべきなのか……。


 生憎カフェインレスの飲み物を切らしていたので、お白湯を片手に、今までのことを整理してみる。

 猫が言っていた町田晋というのは、十年くらい前、つまり高校生の時に同じ学年にいた人のことだ。クラスはずっと違ったものの、我々は同じ部活に所属していた。卒業してからほとんど接点はなかったけれど、少し前に、部活の後輩の結婚祝いパーティーを企画する幹事会に誘われて、そこで再会したばかりだった。

―うっかり寝てしまいました。私としたことが……。

 猫の声に、突然現実に引き戻される。

―ええと、どこまで話しましたっけ?

「町田君が、猫さんにとってとても大切な存在だ、というお話だったかと思いますけど」

―タミです。

 流れからして、これから猫のことは「タミさん」とでも呼ばないといけないのだろうか。気づかれないよう、小さく首を横に振る。

その夜は、こんな猫と出会ってしまっただけで十分だと思っていた。しかし、心のどこかでは、予感せずにはいられなかった。奇妙な猫が現れたのは、奇妙な出来事の前触れに過ぎないのだと。まさか、このように化けてまで出てきた猫の用事が、単に「お坊ちゃまが、かつてお昼代として貸したまま未だに返してもらっていない五百円のことを懸念しておられて……」という用事だった、なんてことはありえないだろう。

 そうして猫が始めたのは、この猫の存在を超えるような摩訶不思議な話だった。

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